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「遠田さん、何か食べたいものありますか?」
「いや、えーと……特に決めてないです」
「じゃあ、パスタとかどうですか? 穴場のおいしいお店を知ってるんですけど」
「はい、好きですよ、パスタ」
「なら、そこにしましょうか」
私たちは並んで歩いた。話したいことはたくさんあったはずなのに、いざ彼女を目の前にすると頭が真っ白になって何も話せない。そして気付けばサカナの方が少し先を歩いている。彼女の傘は人混みでもよく映える、それでいて決して派手ではない、深みのあるワインレッド。お目当てのパスタ屋の場所は彼女しか知らないのだから、彼女が先導するのは当然といえば当然なのだが、それが何となく後ろめたく思えて、私は少し歩を速めて彼女に並んだ。
サカナもあまり積極的に話題を振ってはこなかった。女性にしてはお喋りな方ではないことは既によく知っている。しかし、初対面でこういう場合は私の方から話題を振るべきなのだろうかと悩む。あるいは、これからおそらく昼食をとりながら話すことになるのだから、今は無理に話を振らなくてもよいのか。悩ましいところだ。
交差点で赤信号にぶつかる。東京の歩行者用の信号には、次に信号が変わるまでどれぐらいの時間を要するかを表すランプの表示が左右についている。これは私の地元にはないものだ。
サカナは横目でちらりと私の顔を見て言った。
「東京に来るの、初めてですか?」
「あ、いえ……学生の頃に修学旅行で一度来ました」
「修学旅行……何歳のときです?」
「中学の修学旅行だったので……十五歳ですかね」
「そっか……じゃあ、たしかに結構久しぶりですよね」
「ええ、まあ……もう七、八年前も昔です」
すると、彼女は穏やかな笑みを浮かべた。いや、マスクのせいで目元でしか表情を判断できないが、おそらく微笑んでいたと思う。わずかに目を細めた彼女の眼差しには、ある種の母性のような優しさを感じたから。
「大丈夫ですよ、東京って言っても地方から上京してきた人も多いし、今は私もついてますから」
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「え、嘘……」
新宿駅の西口側から200メートルほど歩いた先、飲食店が居並ぶ一角で、サカナは茫然とした表情で立ち尽くした。そこにはたしかにイタリアンの店らしい店構えの建物が存在している。しかし中は暗く、入り口には小さく貼り紙がしてある。わざわざ近寄って見ずとも、その貼り紙の上部に、
『閉店のお知らせ』
と大きな文字で書かれているのが見えた。
「そんな……この間通りかかったときは確かに営業してたのに」
「この間って、いつ頃ですか?」
「先月の……中頃だったかな……」
私はその空き店舗の入り口のドアに歩み寄り、貼り紙の内容を確認した。
「九月いっぱいで閉店、だったようです」
「えぇ……なんてこと……遠田さんごめんなさい、雨の中こんなに歩かせちゃったのに……」
そう零した彼女はひどく憔悴しているように見えた。行った店が潰れているなんて田舎ではよくあることだ。私の地元でも新たに開業する飲食店は珍しくないが、有名チェーン店でもない限り、まあ二年続けばいい方である。東京のような都会でも潰れるというのはちょっとした驚きだが、これもコロナ禍の影響なのだろうか。
店の少ない田舎とは違って、東京では飲食店はいくらでもある。他の店を当たればよいだけのことだと思ったのだが、それにしてはサカナの落胆ぶりは尋常ではなかった。額に手を当てて俯き、今にも泣きだしそうだ。何かに怯えているようにも見えた。
「私がちゃんと調べておかなかったから……」
「あの、全然大丈夫ですよ。久しぶりの東京だし、色々見て歩けて楽しいです。食事も、別にどこでも……」
言いかけて、私は路地を見回した。飲食店は確かに数多くあるのだが、よく見ると飲み屋が多く、昼間は営業していない。開いている店も初対面の女性と二人で入るような雰囲気ではなかったりして、意外と選択肢は少なかった。また別の路地に入れば適当な店は見つかるかもしれないが――。
サカナは顔を上げて言った。
「ありがとうございます。遠田さん、優しいんですね」
「いや、別に……それほどでも」
「でも、どこでもなんてダメです。もう一軒、穴場のイタリアンを知ってるので……もう少しだけ、歩いてもいいですか?」
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それから再び雨の中を歩き、高架下を抜けて今度は新宿駅の東口側に出た。
先程までと比べるとサカナの表情もだいぶ柔らかくなったように感じたし、私も随分気が楽になった。もしも彼女がずっと都会の完璧な大人の女性として振る舞っていたら、あれほど通話やメッセージを交わした相手であるにもかかわらず、私は委縮してしまっていたかもしれない。昼食をとる予定だった店が潰れて落ち込んでいた彼女の姿が、私の声を聞いて電話の向こうで泣いていたサカナとようやく重なったのだ。
ただ、お互いに傘を差して歩いているので傘がぶつからない距離を保たなければならず、さらにマスクで声がこもってしまうため、会話はさほど弾まなかった。彼女が念のためとこれから向かう店に電話での確認と予約を入れていたせいもある。何時に家を出たのか、とか、東京まで何時間ぐらいかかったのか、などの当たり障りのない話をした程度だった。
新宿駅東口の近辺が繁華街であることは田舎者の私でも知っている。大通りを歩く途中で、歌舞伎町一番街という有名な看板の前を通り過ぎた。昼間なので当然ネオンは灯っていなかったが、ここが椎名林檎が歌に描いたあの歌舞伎町か、という感慨が胸をかすめる。サカナのハンドルネームの由来が椎名林檎の楽曲だと聞かされて以来、私は椎名林檎の曲をいくつか聴いているのだ。
大通り沿いは大型の商業施設やビルが屹立しているが、大通りを折れて狭い路地に入ると、雰囲気は一変した。この一帯は飲食店のエリアらしく、狭いスペースに身を寄せ合うようにして、数えきれないほどの飲食店が軒を連ねている。それに混じって、ところどころに風俗関連の看板も見えたが、私はなるべくそれらを見ないようにした。途中でラブホテルの前を通り過ぎもした。サカナは気にも留めていない様子だが、私が気にしすぎなのだろうか。
そして、都会のど真ん中とは思えないほど雑然とした細い路地を抜けた先に目的の、たしかに営業中のイタリアンレストランがあった。
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昼飯時で店内はそれなりに賑わっていたが、空席もちらほら見受けられる。路地に面した東側はガラス張りになっていて、夜に訪れたらまた違う風景が見られそうだ。黒を基調としたモダンで洒落た内装、照明の雰囲気はいかにも繁華街に建つレストランらしく、微かに妖しげなムードを醸し出している。いずれももちろん私の地元ではなかなか見られないセンスである。
玄関にそれぞれ傘を置き、私たちは奥の個室へと通された。先程サカナが歩きながらスマートフォンで予約を入れていたようだ。待たずにテーブルに着けたのは幸運かもしれない。ともあれ、私たちはようやく落ち着いて話せる状況になったわけだ。
テーブルを挟んで向かい合って席につき、店員がお冷を置いていった後、私たちはマスクを外した。テーブルの中央には透明なアクリル板が立てられていて、すぐ目の前に彼女がいるのにまるでスクリーン越しに見ているみたいだ、と思った。
サカナはコートを脱いで軽くたたむ。コートの下は白いニットのセーターだった。ただコートを脱ぐだけの仕草がやけに色っぽく見える。
「本当に、青森から来てお疲れのところ、長々と歩かせてしまってごめんなさい……いつも何かと手際が悪くて、おっと……もだちにもよく怒られるんです」
「いえ、全然、疲れはないです。こちらこそ、もうちょっと調べておいたほうがよかった。何もかもお任せになってしまって申し訳ないと思ってます」
「そんなの気にしないでください。東京は私の地元なんだから。さあ、何食べます?」
メニューを見てみると、パスタにサラダとソフトドリンクが添えられたランチセットがリーズナブルな価格だったので、二人でそれを注文することにした。パスタとソフトドリンクは数種類の中から好きなものを選ぶことができ、私はカルボナーラとコーラを、サカナはサーモンのクリームソースパスタと青森県産のりんごジュースを選んだ。
さて、注文が決まり店員が引き上げていくと、いよいよ個室に私とサカナの二人だけになった。あれだけ彼女の自撮りを眺めていたはずなのに、いざ彼女自身を目の前にすると、なかなか目を合わせることすらできない。なにしろ全く女性経験のない私にとっては、家族以外の女性と二人で食事をするのさえ初めてなのだ。遠田というペンネームで呼ばれることに対する気恥ずかしさも多少はあった。通話の中で散々呼ばれていたはずなのに、目の前にいる人の口から直接呼ばれると妙にこそばゆい感じがする。マスクを着けていたときの方が、顔が半分隠れていたから話しやすかったかもしれない。無性に喉が渇き、私はお冷をコップの半分ほど飲み干した。
「遠田さん、イメージ通りの人で安心しました」
サカナが微笑みながら言った。彼女はまじまじと私を見つめている。私は努力して彼女の目を直視したが、あまり長くは続かず、またお冷を口にした。こういう態度がイメージ通りということだろうか。話しかけられたら答えなければならない。慌てて返答を探す。
「サカナさんも、思ってた通り、とても綺麗で……」
「お上手ですね。自撮りはアプリの補正がすごいから……実際会ってみたら、なんだオバサンじゃんって思われたんじゃないですか?」
「い、いえ、断じてそんなことは」
私は全力で否定した。勝手に同年代か年下の女の子だと思い込んでいたので、年上の女性であることに少し驚いたのは確かだ。しかし年増だとは微塵も思わない。想像していたより大人だったから引け目を感じているだけだ。いや、だがもしかしてその私の態度が彼女に誤解を与えている可能性はないだろうか。それは全く本意ではない。きちんと目を見て話さなければ。私は視線を上げた。
「本当に美人で、緊張しています」
すると、サカナは照れ笑いを浮かべながら目を伏せ、
「……ありがとうございます」
髪を撫でながらそう答えて、お冷を一口飲む。
程なくして料理が運ばれてきた。パスタもサラダも値段なりに美味しかったが、料理の味よりも食事中の自分の言動に注意を払っていたので、味どころではなかった。
サカナの皿からは全く音がしない。彼女のフォークにだけ先端にゴムでも付いているのではないかと思うほど静かだった。一方の私はというと、そもそもパスタをあまり食べ慣れていないため、皿とフォークがぶつかるカチャカチャという耳障りな金属音をかなりの頻度で立ててしまった。行儀が悪い田舎者と思われただろうが、彼女はそんなことはおくびにも出さず、美味しそうにパスタを口に運んでいる。その表情を見ているだけで、こちらのカルボナーラまで実際の味覚以上に美味に感じられた。
「青森のりんごジュースって美味しいですよね。遠田さんも、やっぱり普段よくりんご食べます?」
「そんな頻繁に買って食べたりはしないですけど……でも、時々もらったりはしますね」
「いいなぁ。美味しそう」
「冬場だと結構、蜜がたっぷり入ってたりします」
「そんなの、画像でしか見たことないです」
「青森に来たら、いくらでも食べられますよ」
サカナは目を細める。
「行ってみたいです、青森」
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食事を終え、会計は個別に済ませて、店から出ようとしたところでアクシデントが起こった。いや、気付いたというべきか。サカナは傘立てから自分の赤い傘を取り出した。だが――。
「……あれ?」
「どうしたんですか?」
「いや、その……おかしいな。傘がない」
私は首を捻った。サカナの傘の隣に立てておいたはずのビニール傘が、傘立てになかったのである。立てた場所の記憶違いかとも思ったが、他に透明なビニール傘は立てられていなかった。
「たしかにここに置いておいたはずなんだけど」
「……もしかして、誰かが持って行っちゃったんじゃないですか?」
「そんな……」
「たまにありますよ、ビニール傘とかは特に」
パクられた……よりによってこんな大切な時に。私はどんよりと沈む灰色の空を仰いだ。しとしとと降り続く雨は止む気配もない。まだ少なくとも駅までは雨の中を歩かなければならないのに。
だが、途方に暮れる私に、サカナがおずおずと言った。
「あ、あの……私の傘に、一緒に入って行きますか?」
「……え?」
「私の傘に、二人で。もしお嫌でなければ、ですけれど……」




