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令和二年十月九日。
私は最寄り駅から朝一番の新幹線に乗り込んだ。行先はもちろん東京である。
最寄り駅とは言っても市内には駅も電車もない。私は午前七時台の新幹線に乗るために六時過ぎには家を出て、隣町にある新幹線の駅へと車を走らせた。隣町へと続く国道は、通勤時間が近くなれば稀に軽い渋滞が起こるが、この時間ならば交通量は少ない。
駅に着いても駐車場の車はまばらで、入口のすぐ近くに車を停めることができた。
もう駅に来るのも数年ぶりか。私が来るタイミングが悪いだけかもしれないが、ここはいつも新幹線の駅とは思えないほど、まるで森のように森閑としている。駅特有の『ポーン』という電子音が鳥の囀りのように長閑に響く。駅周辺にイオン以外これといった施設や建物がないせいもあるだろうか。駅の南側にはイオンや道の駅、小さな美術館などが辛うじて建っているが、他の三方は森や草むら、畑や田んぼが広がっている。コロナ禍で新幹線の利用客も減っているはずだが、この駅はコロナ禍以前から変わらず静かだ。
待合室からホームに出ても私以外の利用客は二、三人ほど。ホームに入って来た新幹線にはそれなりに人が乗っていたが、大部分は北海道から東京に向かう乗客ではないだろうか。少なくとも、この駅で降りる客の姿は見えなかった。
数年ぶりの新幹線。東京に着くのは午前十時半過ぎごろの予定だ。窓際の席についた私は、流れる風景を眺めながらここ数日のことを思い返していた。店長にも両親にも嘘をつき、東京に行くことを隠してこの新幹線に乗っている。服はまた佐々木に選んでもらったし、昨日散髪もしてきた。
東京のどこで会うべきかという問題については姉に助言を求めた。お盆に帰省できなかった分、姉はこまめに電話をかけてくるようになった。その際に尋ねてみたのである。と言っても、私が東京に行って女性と会うことを打ち明けたわけではない。佐々木が東京の女の子に会いに行くことになったらしいが、どこで会ったらいいか悩んでいるらしい、という口実で意見を求めた。つまりここでも私は姉に嘘をついた。
佐々木は私の家族全員と面識がある。私が東京のデートスポットなんかを聞いたら必ず理由を問われるだろうが、佐々木の名前を出せば不審に思われないだろうと考えたのだ。そして、その目論見は成功した。
『へえ、佐々木くんでもそんなことで悩むんだ』
「うん、まあ、そうらしい」
『でもそれだったら相手の子に聞いたほうが確実だし早いんじゃないの?』
「いや、なんか……リードしたいんじゃない? そこは、多分」
『あ~、なるほど。まあド定番だけどお台場とか? スカイツリーも行ったことないならいいかもしれないけど。あとはまあ、表参道とかかなあ』
「ほうほう」
姉の挙げた場所について自分でも色々とググって調べたりしたのだが、結果としてそれはあまり役に立たなかった。サカナからの提案で、食事を取った後は美術館に行こう、と話がまとまったからである。たしかに下手に慣れない場所に遊びに行くよりは美術館のほうが落ち着いて話せるだろう。それに、市内の現代美術館は私の感性には今一つ合わなかったが、東京の美術館ならば何か琴線に触れるものがあるかもしれない。
コロナ禍の影響もあってイベントや展示を延期、中止している美術館も多い中、彼女が希望したのは国立西洋美術館だった。十月の中旬からしばらく休館になるらしく、ちょうどいいタイミングだから、という理由のようだ。調べてみると、絵画にはまったく疎い私でも名前を聞いたことのある著名な芸術家の作品がいくつか展示されているらしい。私はもちろん賛成した。
行先はすんなり決まったが、もう一つの問題は昼食をどこでとるかである。待ち合わせは正午に新宿駅。国立西洋美術館が上野にあるので上野でも良かったのだが、サカナの職場が新宿で土地勘があるから、とのことだった。しかし観る場所から食事に至るまですべて彼女に決めてもらうのも悪い気がする。たしか姉の職場も新宿だったはずだから訊いておけばよかったと後悔したが後の祭りだ。今からわざわざ連絡して、今度はデートに使えるレストランなど聞いたらさすがに怪しまれるかもしれないし。
というわけで、正午の待ち合わせ時間よりだいぶ早く東京に入り、新宿駅周辺を少し散策してみようと考えたのだ。
もう何年も青森の外の土を踏んでいない私にとって、慣れない街、しかも青森の中では指折りの都会である八戸とも比べ物にならない規模の都会を一人で歩くことへの不安はあったが、スマートフォンの地図アプリを使えば何とかなるはずだ。
東京に着いてからの予定を頭の中でシミュレーションしているうちに、新幹線は県境を越えて岩手県の二戸駅に差し掛かろうとしていた。
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盛岡まではどうにか起きていたはずなのだが、盛岡を過ぎたあたりで眠ってしまったらしく、その先の記憶が全くない。目が覚めるとそこは東北新幹線上り終点の東京駅だった。もし上野着の切符を買っていたら間違いなく寝過ごしていただろう。東京駅までの切符を買っておいてよかった。
東京駅はコロナ禍とは思えないほど人でごった返していた。春には緊急事態宣言が発令され、Go To トラベルもつい先日まで対象外だった東京である。それでも私の地元の秋祭りよりも多くの人が歩いているのではないかと思えた。今日は平日で、時刻は十時半過ぎ。通勤ラッシュのタイミングはとうに過ぎているはずだ。
それから私は、新宿に向かうため迷いながらもどうにか山手線のホームに辿り着き、押し込まれるように電車に乗り込んだ。とりあえず山手線に乗っておけば間違いはないというイメージを持っていたが、実は中央線の方が早かったと帰りに知ることになる。
迷宮のような新宿駅の出口をようやく発見して、私は東口改札を出た。
東京に初めて来たときに感じたのは、空気の澱みと地面の汚さである。テレビで見る東京は人も建物も街並みもすべて綺麗で、まるでSFの世界のような近未来都市を想像していたものだ。それが実際に来てみると、夥しい数の建物の間を縫うように伸びる狭い道路はゴミと騒音と人の呼気で溢れかえっている。今回もその印象は変わらなかった。そしてやはり予想していたよりも人出は多い。こんな時期にわざわざ青森からやって来た私が言えた立場ではないが……。
姉の職場はここから約100メートルほどの場所にあるデパートである。まあこれだけの人混みの中でうっかり偶然鉢合わせる可能性は低いだろうが、もしもそうなったら素直に話すしかないな、と思った。
今朝の青森は晴れていたが、東京はあいにくの雨。気温は青森とさほど変わらないはずだが、湿度のせいか肌寒さは感じない。駅周囲の散策がてら、私は近くのコンビニを探すことにした。
「2026円になります」
コンビニで飲み物やフェイスシートなどをかごに入れた私は、追加でビニール傘を持ってレジに並び会計をした。店員は髪の長い若い女性で、私はなるべく目を合わせないようにしたが、緊張のせいか小銭を出すのに少々もたついてしまった。私の後ろに他の客がいなかったのは幸いだった。
レジの女性は私より長身で、マスクをしているが目鼻立ちはかなりの美人のように見える。私が財布から小銭を取り出す間、店員は完全に無表情で私を見下ろしていた。私も店で接客しているときはこんな目で客を見ているのだろうか。私は代金をキャッシュトレイに置いた。電子マネーは未だ使ったことがない。店員はキャッシュトレイの上で代金を手早く数える。
「……2026円ちょうど頂戴いたします。こちらレシートでございます。ご利用ありがとうございました」
マニュアル化された一連の接客用語を流れるように述べ終えると、店員は軽く頭を下げた。私はその顔をちらと見上げ、店員と視線が交わる。直後、他の店員から『今川さ~ん』と呼ばれ、彼女はレジの奥へと姿を消した。
コンビニを出た私は、ついさっき買ったばかりの傘を広げ、ペットボトルのお茶で喉を潤す。
当たり前のことではあるが、東京の人は皆都会の人間に見える。都会の人は冷たいなどというステレオタイプを言いたいわけではない。ただ、私を含めた田舎の人間よりずっと洗練されていると感じる。さっきの店員だってまるで女優かモデルのようだったし、辺りを見渡せば、佐々木に選んでもらった私の服装よりはるかにお洒落に見える人たちばかり。佐々木のセンスに注文をつけるつもりは毛頭ない。駅を出て、ほんの数分街を歩いただけで、自分が田舎者であることを思い知らされた、というだけのことだ。
朝一の新幹線に乗って来たはずなのに、時刻はもう十一時半に近い。東京駅から新宿までに三十分かかり、新宿駅の構内でも迷う時間ロスがあったせいで、レストランを探す余裕は全くなかった。しとしとと雨も降っているし、これ以上無駄に歩き回ってまた迷ってはいけないと判断し、私はそのまま新宿駅近くまで戻った。
そこでサカナからLINEの着信が入る。私はすかさず応答した。
「もしもし」
『あ、もしもし。おはようございます。今どちらにいらっしゃいますか?』
「今、新宿駅の東口あたりです」
『じゃあ、もう東京にはいらしてるんですね』
田舎では電車やバスを一本逃すと次は一、二時間後ということがザラにあるので、公共交通機関を利用して遠出する際は時間に余裕を持って予定を組む。東京のように多少寝坊しても次の電車が来るわけではないので、時間に関しては田舎の人間の方が意外と神経質かもしれない。
「ええ、はい。もう着いてます」
『早いですね。待ち合わせ場所、どうしましょうか? 雨降ってるし……』
事前の打ち合わせでは待ち合わせ場所は新宿のアルタ前ということになっていたが、彼女の言う通りあいにくの雨。アルタ前は屋外である。
「まあ、一応さっきコンビニで傘は買ったんですけど」
『でも、雨の中でお待たせするのは申し訳ないし……東口で待ち合わせにしましょうか』
というわけで、私はまた新宿駅の東口まで戻って来た。
駅に出入りする人の流れの他にも、出口の前のピロティの下には両手で数えきれないぐらいの人が立っている。私と同じく待ち合わせか、それとも一時の雨宿りか。老若男女、外国籍とおぼしき人の姿も見えたが、全員が一様にマスクを着用していた。
スマートフォンで時刻を確認する。午前十一時四十五分。待ち合わせの正午まではあと十五分だ。もう十五分しかないとも言える。
ネットを介して人と会うのはこれが初めてだ。いやそれどころか、姉や家族以外の女性と待ち合わせをすることすら初めてかもしれない。会いたいと言い出したのは私の方なのに、待ち合わせ時間が近づくにつれて、否が応でも緊張感が高まってくる。
きょろきょろと意味もなく辺りを見回した。ほぼ全員がマスクをしているせいで、道行く若い女性全員がサカナに見えてしまう。
それから数分後、再びスマートフォンが鳴った。私はおそるおそる応答のアイコンをタップする。
『もしもし。遠田さん、今、東口にいますか?』
「ええ……はい、います」
私はまた周りを見渡す。ちょうど電車が着いたタイミングなのか、駅の出口から一気に人が流れ出してきて、私はその人波を避けて脇に寄った。
『え~と……今、マスク付けてますか?』
「はい」
『じゃあ一度、少しだけマスクを外してもらえませんか?』
「マスクをですか? ……はい」
私は周囲の様子を窺いながらマスクを外した。たしかに、お互いに顔も声も知っているのに、マスクをしていたら相手がわからない。サカナも今、この近くにいるのだろうか。出口から溢れてくる人波を目で追っていると、突然背後から肩を叩かれた。
振り返ると、そこにいたのは私より少しだけ背の低い、大人びた女性だった。ウェーブのかかったライトブラウンの長い髪。グレーのコート。小さな白いバッグ。その女性は白いマスクをおもむろに外した。涼し気な目元。すらりと伸びた鼻梁。小ぶりな唇。顔立ちにはたしかにとてもよく見覚えがある。
想像していたよりずっと大人だ。四、五歳は年上に見える。そして、綺麗だ、と私は思った。
彼女は軽く微笑んで言った。
「初めまして、遠田さん。私がサカナです」