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「ねぇ」


 夕食を終えてテーブルから離れようとした夫を、私はその一言で呼び止めた。夫は返事もせずにこちらを振り向く。手も言葉も飛んでこなかったので、今日の夫はかなり機嫌がいいと思う。それを確認した上で、私は話を切り出した。


「来月って、テレワークの日ある?」


 緊急事態宣言の最中と違って、今では夫も平日はほとんど普通に出社している。時差出勤のため多少時間が前後するが、テレワークの機会はかなり少なくなった。とはいえ、ごくたまに家で仕事をすることもあるため、一応確認しておかなければと考えたのだ。

 夫は特に気にかける風もなく答えた。


「……いや、特にないけど、なんで?」

「ちょっと、買い物に付き合ってほしくて……」

「だったら別に来月じゃなくてもいいんじゃないの? まあ、いいよ。直前になって予定が変わることもあるかもしんないけど、今んところはテレワークの予定は入ってない」

「そう……ありがとう」


 そのまま夫はリビングへと向かう。これといって怪しまれた様子もなく、私はひとまず胸を撫で下ろしながら食器を片づけた。


 遠田さんが希望している十月上旬の都合は一応ついた。私もどちらかといえば平日のほうが休みは取りやすいと思うし、夫も仕事に出ている。日程の面ではまったく都合がよく、外堀を埋められたような気分。もう、会うことにまったく障害がなくなってしまった。あとは私の気持ち一つ。そして私は、会いたいと思っている。

 ただの人と会うだけならここまで後ろめたさを感じることはない。夫の存在をこれほど意識し、必死に隠そうとしていること自体が、私にとって遠田さんがただのアマチュア小説家ではないという何よりの証明だった。

 でも、会ったところでいったいどうなる?

 自撮りではメイクとライトとアプリの補正でだいぶ若く見せられたけれど、現実の私はもう三十を過ぎている。メイクだけで十歳も若作りするのは簡単ではない。遠田さんから見れば十分おばさんだ。年齢は聞かれていないから答えていないけれど、話しぶりから考えても、彼は私を同年代だと思っているはず。なのに、実際に会ってみたらただのおばさんでがっかりするかもしれない。だとしたら、今私が考えているようなことはまったくの杞憂に終わる。

 そう、当たり前じゃないか。会ってもどうにもならない。単なる私の自意識過剰。ありのままの私で会いに行って、少し話をして、終わり。それ以上のことは起こらない。起こるわけがない。十歳も年下の男の子である遠田さんにとって、私なんて作品を読んでくれるただのファンのおばさんでしかないのだから。そう考え始めると、今までずっと悩んできたことが何だかバカみたいに思えてくる。


 次の日の夜、私はいつものように仕事帰りに遠田さんと通話して、こちらの希望の日程を伝えた。



!i!i!i!i!i!i!i!i



「芋田くんが希望休なんて珍しいんじゃない? ……いや、もしかして初めてか?」


 店長が首を捻る。私の記憶が正しければ、私が希望休をとるのはこれが初めてだ。

 サカナと日程の擦り合わせをして、私は来月、十月の九日に希望休を申請した。これが認められなければまたお互いに予定を調整しなければならなくなる。だから、万が一の場合はこの控室の床に額を擦り付け、店長に土下座してでもどうにか認めてもらおうと考えていた。


「初めてだと思います」

「だよな? 盆正月でも真面目に出てきてくれてたもん」

「すいません、こんな大変なときに」

「気にすんなって。芋田くん、このクソブラックな労働環境で今までずっと頑張ってくれてるもんな。副店長が芋田くんじゃなかったら、きっとこの店回ってないと思うわ。それに今は店開いてたってだいぶ暇だし。一日ぐらいの希望休でそんなに謝んないでくれよ」

「……はい。ありがとうございます」


 店長がここまで他人を褒めるのを聞くのは初めてだった。私は店長に深く頭を下げながら、今日この時まで店長に対して苦手意識を持っていた自分を恥じた。率直に言って、私は店長を嫌な奴だと思っていたのだ。

 コロナ禍で営業時間が短縮されるまでは、昼前から深夜までずっと、まとまった休みもなく働き詰め。そんな状況では他人に感謝を述べたり思いやる余裕もなかったかもしれない。現に私もそうだったからだ。だが今は経営状況はさておき、営業時間は短縮され、客も減って、心身に少し余裕ができた。多少は人間らしい生活ができているように思う。その意味では、災い転じて、ではないが、コロナ禍の影響で店長も本来の彼らしさを取り戻せたのかもしれなかった。

 店長は破顔しながら言う。


「だからやめろって、そんなかしこまって。ところで、なんでこの日に希望休? なんか新作のゲームでも出るっけか」

「それは……人に、会いに行くためです」

「へえ……平日に? さては女か?」

「ええと……まあ、そんな感じです」

「おお、マジでか! ボケーっとしてるように見えてなかなか隅に置けねえやつだな、芋田くん。もう付き合ってんの?」

「いえ、まだそこまでは……」

「まだってことは、芋田くんはその気があるってことだな」

「いや、それは言葉の綾っていうか」

「まあまあ隠すな隠すな。で、どこの子?」


 と店長に問われて、私は一瞬返答を躊躇った。そのまま素直に答えてもよかったかもしれない。しかし、私の行く先は東京。一時期より減ったとはいえ、新型コロナの一日の新規感染者数が未だに三桁を超えており、未だGoToトラベルの対象外となっている東京なのだ。首都圏から青森に戻ってくる若者に対する風当たりは強い。実のところ、私が東京に行くことは両親にも伏せておくつもりでいる。口裏合わせに協力すると約束してくれた佐々木にはまた借りが一つ増えてしまった。

 小笠原店長もまだ二十代。正直に事情を話せば理解してくれる可能性はそれなりに高いと思う。だが何よりもクラスターの発生を恐れる飲食店の店長という立場での判断はどうだろう。いや、さらに最悪のケースを考えるなら、もし万が一私が新型コロナに感染して青森に帰ってきてしまった場合、店長が私の東京行きを知っていたとするとどうなるか。店長に多大な迷惑をかけてしまうことになりはしないか。

 その刹那に様々な可能性が脳裏をよぎり、私は結局こう答えた。


「……八戸の子です」


 店長は鷹揚に頷く。


「おお、そうか。上手くいくといいな」


 それから少し間をおいて、ぽつりと付け加えた。


「こんな状況だから、体には気をつけてな」

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