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「あ~、今日も終わったぁ~!」
締め作業を終え、幸絵ちゃんが大きく背伸びをしながら言った。
コロナ禍であらゆる分野、産業の苦境が伝えられる。百貨店や私たちの売り場も決して例外ではなく、平年と比べれば売り上げはかなり落ち込んでいる。美容部門は特に影響の大きい分野だと思う。普通、家の中でまでメイクはしない。夫がいる私でさえそうなのだから、一人暮らしの女性は尚更化粧品の消費を抑えるはず。飲食店はUber Eatsやテイクアウトなど苦しい中でも色々工夫しているらしいけれど、化粧品を届けてもあまり意味はない。私たちはいったいどうしたらいいのだろう。
とはいえ、さすがに緊急事態宣言が解除された直後に比べたらだいぶ客足は戻ってきている。先月末ぐらいからまた少し新規感染者が増加しても、人出への影響は限定的だった。自粛疲れ、コロナ疲れという言葉も最近耳にする。その名の通り、コロナ禍による長い自粛、我慢の生活に飽きてきたという意味。正直なところ、私も少しコロナ疲れを感じ始めている。
職場を出て駅へ向かう道すがら、幸絵ちゃんは軽く口を尖らせた。
「あ~あ、結局、お盆も青森に帰れなかったし、いつまで続くんでしょうね、これ」
「ほんとにね。早く終わってほしい」
「さゆりさんは? 実家、都内ですよね」
「うん。でも、やっぱ行けなかったよ~。気使うもん」
「ですよねえ。親世代がかかるとヤバいんですもんね。じゃあ、旦那さんの実家にも?」
「もちろん。県をまたぐ移動にもなっちゃうし。どこにも行けないよ」
「へ~。まあでも、帰って旦那さんがいるのはうらやましいですよ。あたしなんて帰っても部屋に一人だしなあ」
「そう? ずっと一緒っていうのも、結構息が詰まるよ」
「って言いますよね。でも、さゆりさんのところはラブラブだから~」
「そんなことないって」
「またまた~。だって、仕事終わりとか、歩きながら楽しそうに電話してるじゃないですか。あれ、相手は旦那さんですよね?」
幸絵ちゃんが何気なく発したその一言が、私の背筋を凍り付かせた。
彼女や他の同僚とちゃんと別れてから通話していたつもりだったのに、どこかで見られていたのだ。
動揺を悟られないよう、私は表情を取り繕って答えた。
「うん、まあ、そうだね」
「やっぱり。女友達と話してるようには見えなかったし。いいなぁ、素敵な旦那さんで」
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
「じゃ、さゆりさん、お疲れ様でした~」
「うん、お疲れ~」
私たちは駅の改札前で別れた。笑顔で小さく手を振る幸絵ちゃんの姿が見えなくなったのをしっかり確認してから、私は改札を通って電車に乗り込んだ。ここまで神経質になることはないかもしれないけれど、遠田さんと連絡を取り始めてもう半年以上。少し気が緩んでいたのは事実だと思う。会話の内容まで聞かれていたわけではないのが不幸中の幸いか。
帰りの電車も一時期に比べたらだいぶ乗客の数が戻ってきていて、座席は既にすべて埋まっている。私はドア横の仕切りに体を預けて、ため息をついた。
心配事は他にもある。その一つは、遠田さんが私に会いに来たがっていることだ。
コロナ禍が落ち着いたら――彼はそう話していたけれど、実際のところ、いつ完全に収束するのか、何をもって収束の基準とするのかは、ネット上でも激しく議論が交わされている。コロナ禍が落ち着いたら、という条件は曖昧な上に難しい。
ここ最近通話してきた中で、彼はコロナ禍が落ち着いたらと言いつつも、できるだけ早く会いたがっている印象を受けた。七月の東京での感染者増がなければ、きっと今夏のうちにこちらに来ていたに違いない。その意味では、先に引き延ばすことができたという意味では、不謹慎かもしれないけれど、感染者の増加によって助けられた面もある。
でも、いつまでもこの状態を保っていられるわけがない。遠田さんはいずれ私に会いに東京へ来るだろう。その時に私はどうするべきか。どう振る舞うべきなのか。どうすれば夫に隠しきれるだろうか。誰にも相談できない。ネットで調べてみようとも思ったけれど、そうなるとどうしても検索バーに『浮気』やその類義語を入力しなければならなくなる。それを自覚した上で行うことだけは避けたかった。不倫をしたいわけでは決してない。少なくとも確信犯にはなりたくなかった。これは卑怯な言い訳だろうか……。
そう、最大の問題は、私自身が遠田さんに会ってみたいと思っていることだ。
その気になれば簡単に、今すぐにでも彼との一切の連絡を断ち切ることはできる。会わずに今のままの関係を維持する方法もあるだろう。でも、私にはそれができない。
現時点で既に私と遠田さんは純粋な作者と読者の関係とは言えないかもしれない。でも、実際に会ってしまったら、危ういところでどうにかバランスを保っていた私たちの関係は崩れてしまうような気がする。良くも悪くも――いや、退いても進んでも悪い方にしか変わらない。そしてそのすべての責任は私にある。既婚者であることを隠して十歳も年下の男性に近づいた私に。その自覚がありつつも、彼の声を聞きたいという衝動を抑えることはできなかった。
最寄り駅に着き電車を降りて改札を抜けた後、気付けば私はスマートフォンを取り出し、LINEを開いて通話のアイコンをタップしていた。
夫にスマートフォンを見られる不安があったので、遠田さんのアカウントの表示名は同僚の女性の名前に変えている。遠田さんはアイコンやプロフィールがデフォルトのままなので、名前を変えるだけでもう私の同僚のアカウントにしか見えない……と思う。トーク履歴はすぐに消すように心がけている。通話履歴は多少は残っているけれど、表示されているのは通話時間だけだから多分大丈夫。いや、仮に仕事の同僚だとしても退勤後に数分間も話していることを疑われるだろうか。でもそれぐらいは私でも上手くごまかせるはず。夫を欺く方法を考えてもあまり罪悪感を覚えなくなっていることに、自分でも少し驚いている。
遠田さんからの応答はすぐにあった。
『もしもし』
遠田さんの優しくて穏やかな声は、今や私の心の拠り所。マンションに戻ればまた夫の罵声と暴力が待っている。どこかで現実逃避をしなければ、心が壊れてしまいそうだ。仕事を終えて帰宅するまで、彼と通話をするこのひと時が、私を生かしてくれている。
「あ、もしもし。今、大丈夫ですか? お仕事中じゃなかったですか?」
『いえ、全然、家で暇してたところです』
「よかった。今日はお休みなんですね」
はっとして周囲を見回してみたが、見知った顔はいない。マンションが近いのだから、夫や顔見知りの誰かに見られてしまう可能性もある。慎重にならなければ――とは思いつつも、私は駅からマンションまでの道を、時々立ち止まりながら必要以上に時間をかけて歩いた。




