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 緊急事態宣言と外出自粛要請が出されて以降、夫の暴力はさらに苛烈さを増した。

 私の職場は本格的に休業に入り、夫の職場も急遽リモートワークを導入。互いに在宅の時間が突然増え、密室で一緒に過ごさなければならなくなった。その状況の中で、危惧していたことが現実になってしまったのだ。


 テレワーク、あるいはリモートワークという言葉は、コロナ禍で急によく耳にするようになった言葉で、平たく言えばインターネットを活用した在宅勤務の形態のこと。見える範囲で例を挙げれば、最近ではワイドショーのコメンテーターなどもほとんどリモートでの出演という形をとっている。オンラインで会議ができるZOOMという名前のアプリが話題になっているし、それを利用して自宅にいたまま飲み会ができるZOOM飲み会というものも流行しているらしい。

 とはいえ、仕事内容によってリモートワークとの相性の良し悪しがある。私の仕事はその最たるものだと思うし、遠田さんの飲食業もリモート化は不可能な職種だろう。


 夫の部署は営業。業務内容は主に外回りの営業で、関与先との飲みも多かった。あまりリモートワークに適した業務ではなく、現に私の夫も慣れないリモートワークに苦労しているようだ。

 通勤ラッシュや満員電車から解放され、家で普段着のまま仕事ができるのだから随分負担は軽減されているのではないかと思うが、むしろリモートワーク以前より夫のストレスは増し、その矛先は当然のように私へ向けられた。

 ネット回線や配線の都合上、夫はリビングで仕事を行う。機嫌の悪い夫を刺激しないよう、なるべく自室に引き篭もって音を立てないようにしているけれど、必要最低限の家事はしなければならないから完全に視界に入らずに生活することは不可能。その上、仕事中も夫は何かにつけて私を呼び出す。そして、些細なことで言い掛かりをつけては大声で怒鳴り、最終的に私の体のどこかを打つのだ。

 外出する機会が少なくなり、出てもマスクを着けるからか、以前は絶対に手を出さなかった顔も時折狙われるようになった。これまでは暴力を振るった後は必ずフォローが入ったものだが、最近ではそれもなくなった。

 突然の大きな環境の変化と慣れない仕事でストレスが溜まるのは理解できる。収入も夫の方がはるかに多い。でも、だからといって私がここまで耐えなければならないのだろうか。夫に対するあらゆる感情が急激に冷めていくのがわかる。


 スマートフォンが壊れたのは――いや、壊されたのは、このステイホーム生活が始まって一週間と経たない頃だった。スマホでレシピを見ながら夕飯の支度をしていたところに夫が突然やってきて、


「飯の支度の最中まで、何見てんだよ」

「レシピ見てるだけだよ」

「なら見せてみろよ」


 と私のスマホを取り上げようとした。その際に誤ってスマホを床に取り落してしまい、液晶はひび割れ、それ以来全く電源が入らなくなったのだ。夫からは『ごめん』の一言もなく、むしろ何やってるんだと私を怒鳴りつける有り様だった。

 スマホが壊れてしまっても、すぐに新しいスマホを用意することは許されなかった。お金がなかったわけではない。夫の度を過ぎた束縛によるものだ。当分仕事の連絡が来ないのだから、急いで用意する必要もないだろう、という理屈だった。ただ、スマートフォンが壊れたことは結果的にはよかったのかもしれない。もしもこの時、夫にスマートフォンの中身を隅々まで調べられていたらと思うと――。


 数年ぶりのスマートフォンのない生活はとても退屈だった。十代の学生の頃から携帯電話は使わせてもらっていたから、それも含めれば携帯端末のない生活は十数年ぶりということになる。携帯電話はスマートフォンほど多様なアプリが使えたわけではなかったが、一応ネットはできたし暇つぶしのゲームもできた。ケータイ小説を読むこともできた。自慢ではないけれど、私は『小説を書こう!』の一般的な知名度が上がる以前、今よりずっと投稿作品やアクセス数が少なかった頃からのユーザーだ。スマートフォンが使えなくなって改めて、いかに携帯端末やネットに依存した生活を送っているかを思い知らされる。

 暇な時間を埋めるために、部屋中の掃除を必要以上に丁寧にやったりしてみたが、それにも限度はあるし、何より飽きてしまう。買ったまま読めずにいた本、いわゆる積み本も一週間ほどで全て読み切ってしまった。

 時間を持て余した果てに、一時期ネットで話題になっていた蘇という食べ物を作るのにハマったりもした。蘇とは昔の日本で作られていた乳製品の一種で、牛乳を低温でじっくり煮詰めて固形にしたもの、らしい。コロナ禍の初期、小中高校の一斉休校が決められた時期に、突如需要がなくなった畜産業を支援しようと、牛乳を大量に消費するレシピとして話題になっていた。当時から少し興味はあったのだが、レシピ通りに作るにはとても時間がかかるらしいので敬遠していたのだ。


 買い物に出た際(もちろんマスク着用のうえソーシャルディスタンスを心がけて)に1リットルの紙パックの牛乳を数本買ってきて、暇な時間を蘇の調理にあてた。

 一般的なレシピでは、鍋底にこびりつかないようにとろ火で2、3時間かき混ぜながら加熱しなければならないと書いてある。私も最初はその通りに作っていてひどく肩が凝ったけれど、何度か作っているうちに、必ずしもそこまで時間をかけなくてもいいことに気が付いた。鍋底で焦げないように注意してかき混ぜ続けてさえいれば、火力は中火ぐらいでも大丈夫。中火だったら、調理時間はなんと30分前後まで時短できる。

 味についても色々な発見があった。牛乳そのものをひたすら煮詰めて作るものなので、違う牛乳を使えば風味も変わる。また、牛乳だけで作った場合は良くも悪くも牛乳の味と匂いがかなり強いので好みが分かれるが、塩と砂糖で少し味を調えるだけでもだいぶ食べやすくなる。元がシンプルな食べ物であるだけに、何をチョイ足しするかで無限の可能性が秘められているかもしれない。


 でも、その無限の可能性を追求する前に、さすがに飽きてしまった。


 一人で退屈なときや、家事の最中に手が止まったとき、ふと思い浮かべるのは遠田さんのことだった。

 スマホが壊れてからはもちろん、それより少し前、夫がテレワークを始めて以降、遠田さんとは連絡を取っていない。夫の監視が怖いからだ。

 彼は今どう過ごしているだろう。緊急事態宣言が出されて以降、飲食店はどこでも厳しいはず。青森はどうなのだろうか。今、何の本を読んでいるんだろう。そして、ずっとスランプだと言っていた執筆のほうは、何か少しでも書けているのかな。いや、こんな状況だから、健康でいてくれさえすればいいと思う。同居しているというご両親も含めて。


 そんなことを考えていると、遠田さんのあの優しげな声が聞きたくなってくる。

 夫と二人きり、怒鳴り声と暴力に怯えながら過ごす生活は、あまりにも息が詰まる。

 数日に一度、夫が出勤する日以外は、生きた心地がしなかった。


 スマホは使えず料理にも飽き、掃除も部屋の隅々までやり尽くし、することが何もなくなった五月下旬。ようやく、緊急事態宣言が全面解除された。

 GWの最中には連日三桁を超えていたPCR検査の陽性者数も、ここ数日は一桁にまで落ち着いてきている。緊急事態宣言が解除されれば、私の職場も遠からず全館営業再開するはず。そうなれば、仕事の連絡のためにどうしてもスマートフォンが必要になる。というわけで、夫もしぶしぶ新しいスマホを用意することを認めた。特別定額給付金が間に合っていれば、もう一つ上のランクの機種を買えたのだけれど。


 スマートフォンが手に入っても、夫の目がある以上、あまり自由には使えない。スマホを壊してしまったことについては一応夫も反省しているらしかったが、彼が暴力を振るうときは大抵正気を失っているので、下手に刺激するのは危険。またスマホの中身を見せろと言い出すリスクもある。だから、遠田さんに連絡をとるのはもう少し待つべきだ、と思った。

 幸か不幸か、アカウントの引継ぎ設定だけはしてあったがトーク履歴のバックアップを設定していなかったので、今までのトーク内容を見られるおそれはない。でも今後は気を付けなければ。

 直接連絡をとることはできなくても――と、『小説を書こう!』のサイトの遠田さんのアカウントを確認してみたけれど、そちらは一カ月前と全く変化がなかった。やはり、まだスランプから抜け出せていないのだろうか。早く、彼の声が聞きたい。


 願いが叶ったのは、それから数日後。その日は夫の出勤日だった。

 夫を仕事に送り出し、数日ぶりに緊張感から解き放たれた私は、リビングに戻ってそのままソファにぐったりと倒れ込んだ。まだ朝なのに、心身ともにひどく疲れている。ステイホームで生活リズムが崩れ気味なせいか、眠りも浅かった。

 夫の監視から解放されて、最初に頭に浮かんだのは遠田さんのことだった。この機会に彼に連絡をとっておかなければ。出勤日とは言っても外回りの営業は難しいだろうから、夫がいつもより早く帰ってくる可能性もある。一休みして気付けば夕方、なんて事態は避けたい。

 でも、今は朝の八時過ぎ。こんな時間に連絡しても迷惑なんじゃないか。いや、でも、ワンコールぐらいなら……。


 ワン切りなんて何年ぶりだろう。私はまだほぼ新品のスマートフォンを取り出し、LINEを開いて遠田さんのプロフィール画面で音声通話のアイコンをタップした。夫にチェックされるリスクを考えれば、今後は文字でのメッセージのやり取りより、証拠の残らない音声通話のほうが安全になるだろう。

 ワン切りのつもりが、結局私はしばらくの間コールを続けてしまった。遠田さんからの応答はない。きっとまだ寝ているんだろう。もう少ししたらまたかけてみようか――と、コールを切りかけたところで、画面が切り替わった。


『もしもし?』

『もしもし? サカナさん……ですか?』


 まぎれもなく遠田さんの声だった。

 約一月ぶりに聞く、穏やかで優しい声色。口を開けば怒鳴っているような夫の声とは違う、聞いているだけで安心する声。何故だろう、このたった二言を聞いただけで、目頭が熱くなってくる。何か答えなければ、と思うのに、うまく声が出てこない。気付けば一筋の涙が頬を伝っていた。


『サカナさん?』

「……はい」


 三度目の呼びかけで、私はようやく声を絞り出すことができた。

 それから何か色々話したような気はするのだが、感情が昂っていたせいか、どんな話をしたのかはあまりよく思い出せない。ただ、最後に交わした会話だけははっきりと覚えている。


『このコロナ禍が落ち着いたら、貴女に会いに行きたいです』

「私も、コロナの状況が少し良くなったら、遠田さんに会ってみたいです」


 会ってみたい。

 会話の勢いに流されたとはいえ、私は正直にそう答えてしまったのだ。

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