35
サカナの名前が画面に表示されているのを見て、私は一瞬戸惑った。ソフトウェアのバグか不具合の可能性が頭をよぎったが、そんなバグは聞いたことがない。これは紛れもなく彼女からの着信なのだ。
私は急いでスマートフォンを手に取り、操作ミスのないよう慎重に応答のアイコンをスワイプして、スマートフォンを耳に当てた。
「……もしもし?」
おそるおそる呼び掛けてみたが返事はない。やはり何かの手違いだったのか。アカウントの乗っ取りという可能性もなくはない。
「もしもし? サカナさん……ですか?」
それでもまだ無言である。
仮に通話口の向こうにいるのが本当にサカナだとしても、間違い電話、もとい間違い通話だったのかもしれない。間違えました、と言うのも気まずくて黙っているのだ。こうも露骨に無視されていることが何よりの証ではないか。そのような気遣いをさせるのは不本意である。こちらから通話を切ろう、とスマートフォンを顔から離したそのとき。
「……」
スマートフォンのスピーカーからわずかに漏れた嗚咽とも呻き声ともとれない音を、私は聞き逃さなかった。すかさず再びスマホを耳に当て、もう一度だけ呼び掛けてみる。
「サカナさん?」
「……はい」
ようやく返ってきたその声は、間違いなくサカナのものだった。前に話してから一月以上は経っているが、私は彼女の声をはっきり覚えている。あまり高くはなく、穏やかで落ち着いていて、聞いているだけでほっとする声。たしかに彼女の声ではあるのだが、明らかに様子がおかしい。声が震えているし、鼻をすする――いや、すすり泣くような音が微かに。女性の泣く姿なんて高校の卒業式以来見ていないから確信は持てなかったが、もしかして、スピーカーの向こうで、彼女は今、泣いているのではないか……?
泣いている女性を慰めたことなんて人生で一度もない。そういう役割は同じ女性か、もしくは軟派な男がやるべきものだと思って生きてきた。たとえば佐々木のような。相手の女性だって私のように辛気臭い人間に慰められたくはないだろう。そう思って、ずっと意識的に避けて来たのだ。
だが、今ここには、この会話の場面では、私とサカナの二人しかいない。私が彼女を慰めなければならないのだ。どうやって声をかければよいのか。佐々木ならどうする? いや佐々木のように上手くはできない。私が自分の言葉で話さなければ。
「あ、あの……お久しぶりです」
「……」
「ずっと連絡がとれなくて心配してたんですけど……大丈夫でしたか?」
「……ごめんなさい」
「いえ、謝るようなことじゃ……」
「ごめんなさい……」
サカナはただただ謝罪の言葉を繰り返すばかりだったが、その声色から、私は彼女が泣いていることを確信した。何故泣いているのか、と率直に尋ねたい衝動に駆られたが、それでは何だか詰っているみたいではないかと思い直す。それよりも、私は私がずっと思っていたことを伝えたかった。
「あの、ずっと心配してました。突然既読もつかなくなって、今世の中こんな状況だし、サカナさんの身に何かあったんじゃないかって……それか、もしかしてブロックされたんじゃないかとか、色々考えてしまって……」
「……すみません、変な心配をさせちゃって……ずっと引き篭もってはいるけど、健康です。それに、私が遠田さんをブロックするなんて……そんなこと、絶対にありませんから」
絶対にない。
いつも控えめな表現を用いる彼女のその一言に、私の不安や恐れは消し飛び、一月あまりの空白の期間が一瞬で埋められたように感じた。それと同時に、たった一月連絡が途絶えただけで疑心暗鬼に陥り、彼女が私を一方的にブロックした、そういう人間だと思い込んで半ば決めつけてしまっていた自分を猛烈に恥じた。私の拙い小説を褒めてくれ、ずっと話し相手になってくれていた彼女が、そんな仕打ちをするわけがないではないか。これほど自分の心の弱さを思い知らされたことはない。
しかし、だとするといったい何故全く連絡がつかなかったのだろう。私はさらに尋ねた。
「お元気だったなら、よかったです。でも、じゃあ、何があったんですか……?」
「それは……あの、お恥ずかしい話なんですけど、スマホを壊してしまって……」
「スマホが壊れた?」
理由を聞かされた私は、拍子抜けして思わず吹き出しそうになった。そんな単純なことだったのか。ずっとあれこれ悩んだり考え込んでいたのが馬鹿みたいである。
とはいえ決して笑いごとではない。インターネットは重要なインフラの一つであり、スマートフォンは生活必需品。壊れたら仕事から趣味まであらゆる領域で生活が一変してしまう。一月もスマートフォンが使えなかったのなら、さぞかし不便だっただろう。
「それで、ずっとスマホ使えなかったんですか?」
「はい、その……お金がなかったり、色々あって」
「大変でしたね。それは泣きたくもなる」
「いえ、これは……すみません。久しぶりに声を聞いたら、なんだかほっとしてしまって、急に涙が……でも、もう、大丈夫です」
たしかに、話しているうちに少しずつ彼女の声色は明るくなってきたし、声の震えもいつの間にか止まっているようだった。
何ら気の利いたことも言えず、これといって特徴もない私の声を聞いて、涙を流してくれる女性なんて世界中に彼女一人しかいないだろう。
もう遠慮は必要ない。
もっと彼女を知りたい、と思った。
文字と写真と声だけの、ひどく不安定な関係ではなく。
なけなしの勇気を振り絞って、私は言った。
「サカナさん」
「はい」
「このコロナ禍が落ち着いたら、貴女に会いに行きたいです」
数秒の沈黙が流れる。
さすがにまずかっただろうか、突然、何の脈絡もなく……。
会うということは、身体的、物理的、フィジカルな距離が限りなく接近する危険な行為。子供にネットリテラシーを教える際には、何よりもまずネットで知り合った人とは絶対に合うなと教えられるだろう。ネットを介した人間関係のトラブルから犯罪に発展するケースも枚挙に暇がない。女性にとっては、相手が男というだけでリスクが飛躍的に高まる。
だが、予想したよりも早く、穏やかな声色で、彼女は答えた。
「私も、コロナの状況が少し良くなったら、遠田さんに会ってみたいです」