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コロナ禍の中で、『不要不急』という言葉をよく耳にするようになった。
感染拡大を防ぐため、人と接する機会をなるべく減らすように。不要不急の外出を避けるように。不要不急の分野は自粛するように。そしてこの『不要不急』とされたのが、スポーツなどの興行、そして文化、芸術、音楽イベントなどの分野である。
書店は営業自粛要請の対象外になった(大型商業施設内のテナントの書店はやむなく休業しているらしい)ので、ライブやイベント自体が中止になった業界と比べれば恵まれている方だとは思うが、文芸も文字通り文化芸術の一分野である以上、決して他人事ではない。
私にとって本や文学は生きる糧であり、必要不可欠なものだ。しかし多くの人にとってはそうではない。本を愛する私でも、たとえば市内に図書館と病院どちらか一つの施設しか残せないとしたら病院を選ぶだろう。背に腹は代えられない。芸術は必要だが、命と天秤にかけられるものではないと思う。
そもそもコロナ禍以前から『文系不要論』が一部で論じられていた。その主張を一言にまとめると、文系の知識は社会でほとんど役立たないというものだ。
思春期から本に親しみ物語に救われてきた私は、文学を含む文化や芸術の尊さを知っている。人間は労働のために生まれた機械ではない。経済活動に直接役に立たなくても、文化や芸術に救われている人は少なくないはずだし、間接的に社会に貢献していると言えるだろう。それに、今や日本が誇る産業の一つとなっているマンガやアニメなどのコンテンツも、日本文化の下地の上に成り立つ存在だと言える。
それはそれとして、教育の方にも問題があると私は考える。
たとえば、教科書から小説が消えるかもしれない、という話題がある。小説を読むことそれ自体は素晴らしい体験だと私は思う。しかし授業で小説を読んで面白いと思ったことはおそらく一度もない。教科書に載っている小説でも、自腹で本を買って読めば楽しめるので作品自体の問題ではない。おそらく教科書に沿った、テストで点が取れる読み方を強制されるのがつまらないのだ。
教科書に載っている作品に限らずとも、自分の作品についてテーマはこれでこの文章の意図はこうだと自ら述べている作家は少ないだろう。物語の解釈は読者の数だけ存在する。その自由さこそが尊いものであると知っているからだ。だがテストに出てくる以上は点の取れる読み方と解答をする必要が出てくる。作者の意図や自分の解釈よりテストの作成者の意図を読まなければならなくなるのだ。これは小説という文化にとって不幸なことだと思うし、読解力の向上にもあまり寄与しない。むしろ読書離れを加速させるだけだと私は考えるのだがどうだろうか。
また、作家や俳優、ミュージシャンなど、アーティスト及び文化人と呼ばれる存在の言動にも顧みなければならない部分は多い。
かつて東日本大震災の後にも感じたことだが、特に非常時に於いて文化人は思想の左右を問わずデマや誹謗中傷の発生源になりやすい。災害に見舞われた東北人の一人として私は、大震災の折、原発の危険性を過剰に煽り差別や風評被害に加担した文化人の名前を一生忘れないだろう。
震災当時よりSNSがさらに普及し発展した現在、このコロナ禍でも同じことが起きつつある。日本語と文章表現力を極限まで修め、コミュニケーション能力で理系にマウントをとることすらある文系人間が、意図的なものか否か、論文や法案の趣旨を正確に理解できず誤った情報を拡散する様は滑稽以外の何物でもない。
それが意図的なものであれば特定の政治的思想・勢力に肩入れして情報を歪曲していることになるし、意図的でないのならそもそも知能と日本語の読解力が不足していることになる。いずれにしても事態は深刻で、特に作品を読んだことがある好きな作家がデマに加担しているのを見ると辛い。
ペンは剣よりも強し、という言葉があるが、これは論理を用いればどんな権威をも批判できるという意味で使われるべき格言であって、デマで大衆を扇動すればどんな権力者でも引き摺り下ろすことができるという意味で用いてはならないと私は思う。
文化や芸術は世の中に必要だ。しかしこれらの問題を放置したまま、自らを律することなくまるで逆ギレした子供のように声高に叫んでみたところで、その声は人の心に届くだろうか。駄々をこねているだけ、と冷ややかに見られるだけではないか。特に我々の世代は一部の馬鹿のせいで愚かだと思われがちだが、サイレントマジョリティは冷静に世界を見ている。チャラく見えるあの佐々木だって、選挙には行かないようだが話してみれば馬鹿ではないことがわかる。若者の保守化や右傾化は結果論なのだ。
かつて宗教が世界の理であった時代には、芸術は宗教と共に発展してきた。絵画、彫刻、音楽、そして文学。いずれも宗教の影響を抜きに語ることはできないだろう。音楽の父たるバッハは多くのミサ曲を遺したし、レオナルド・ダ・ヴィンチは数々の宗教画が代表作として挙げられる。彫刻は洋の東西を問わず偶像崇拝の対象となり、世界中で最も読まれた書物は聖書だという。
翻って現代では、科学が世界の真理とされている。かつて宗教がそうであったように、芸術と科学は共存共栄できないものか。何故文系理系などという対立軸で語られることが多いのか、と私は最近よく考える。作家、アーティスト、ミュージシャン、俳優、それらの人々がエセ科学を信奉したりデマゴーグとして批判されるのを見るたびに私は一層その想いを強くする。
今回のコロナ禍でも既に多くの文化人が醜態を晒しているし、感染拡大が収束するまでの間まだその数は増え続けるだろう。SNSでは多くのフォロワーが賛同してくれるかもしれない。特定の政治的思想に与していればさらに信者が集まり、デマを流してもヘイトを述べても変わらず熱狂的に支持してくれるようだが、いずれそのツケを支払わなければならなくなる。その自覚が彼らにあるだろうか。今こそ自省しなければならない時期だと私は思うのだが。
コロナ禍は社会を変えつつある。コロナ後の世界についての展望を考える記事や考察も最近はちらほら目にするようになった。流行が収束したら完全に元に戻る分野もあるだろう。私の仕事である飲食業も、元に戻ってもらわなければ困る。店が潰れると無職になってしまうし、田舎にはUber Eatsもないので、基本的には客が来なければ商売にならない。テイクアウトも何かと面倒なのである。
だが、例えば現在テレワークに移行している職業などはどうだろう。これも青森のような田舎ではまず流行らないだろうが、緊急事態宣言下にある首都圏の、特にデスクワークの職種では取り入れている企業も多いという。
家で仕事ができるなら、通勤の必要がなくなるし、精神的なストレスが大きく減るだろう。私のように基本的に一人で過ごすのが好きな人間にとっては羨ましい限りだ。もしコロナ後の世界でもテレワークが普及すれば、人の生活パターンは当然大きく変わるはずだ。ネットの記事の情報ではあるが、緊急事態宣言の巣篭もり需要で、首都圏の書店は売り上げが前年より増えているらしい。コロナ禍が苦境に喘ぐ出版業界の追い風に、と考えるのはさすがに不謹慎だろうか。
ただし世の中良いことばかりではなく、緊急事態宣言の弊害が、経済以外にも様々な分野で出始めているようだ。たとえば今話題になっているのはDV、家庭内暴力の増加である。
外出自粛とテレワーク、いわゆるステイホームの生活を強いられ、夫婦や親子が共に過ごす時間が増えたことによる家庭内暴力のリスクが懸念されている。懸念だけではなく、実際に相談件数も増えているらしい。
私の両親は些細な喧嘩すら滅多に起こらないほど仲が良く、私や姉に対するしつけもさほど厳しくはなかった。まあ何度か軽く叩かれたことぐらいはあるかもしれないが、それもほとんど記憶に残っていない程度のものである。そんな両親を幼い頃から見てきた私にとって、家庭内暴力なんて想像もつかない。
大昔の日本のように家の事情で結婚させられた好きでもない相手というならまだわからないでもないが、今は恋愛結婚が主流である。私の両親だってそうだ。愛し合って結婚した相手やその相手との間にできた子供に対して、何故暴力など振るえるのだろう。私には全く理解できない。
と、ここで私はふと、何の脈絡もなくサカナのことを思い出した。何故だろう。ゴールデンウィークが終わっても、彼女からは一切音沙汰がなかった。