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 令和二年四月七日。

 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、首相は緊急事態宣言を発令し、特に状況の悪化している7都府県に対しては、一カ月間の外出自粛を強く要請した。


 これはあくまで要請なので、中国や欧米諸国で実施されているロックダウンほど強制力のあるものではないが、同調圧力の強い日本では極めて大きな効果があった。特に首都圏などでは不要不急の外出を避けるよう求められ、不要不急と判断された産業は営業の自粛や短縮を強いられることとなったし、営業を続ける分野においても在宅勤務が奨励された。メディアで『テレワーク』という言葉を頻繁に耳にするようになったのも、ここ最近のことである。

 外出自粛が要請された地域では、人が集まるイベントは軒並み中止になったし、飲食店や大型商業施設も休業や営業時間の短縮といった対応がとられたらしい。大型の商業施設といえば、サカナはデパートの化粧品売り場に勤めているはず。姉の幸恵の職場はしばらく全館休業することになったらしいが、サカナの職場はどうなのだろう。この先の見通しは不透明である。


 そしてその数日後、市内で新型コロナウイルスのクラスターが発生したことが確認された。

 報道によると、クラスターが発生したのは認知症の高齢者が入居しているグループホーム。PCR検査の結果、入居者や職員、関係者合わせて九人に陽性反応が見られた。

 このニュースは、新型コロナに関する報道をどこか対岸の火事として見ていた私の街を瞬く間に駆け巡った。私や佐々木などはついに来たか、と思った程度だったが、私の両親の世代の間ではその日のうちに件のグループホームが特定されていたらしい。


 次に起こったのは、感染者や関係者に対する誹謗中傷である。私が直接耳にしたわけではないが、報道の中で県知事やニュースのアナウンサーが不当な誹謗中傷を控えるようわざわざ呼び掛けていたし、そうした事象は当然起こり得るだろう。これは民度に関わらず発生する現象であるが、人口が圧倒的に少なく世間が狭い田舎では感染者や施設の特定が容易なため、より誹謗中傷が起こりやすい環境にあると言えるかもしれない。


 当初7都府県に限定されていた緊急事態宣言の対象が全都道府県に拡大されたのは、そのさらに数日後の出来事だった。


 私の生活にも大きな変化が起こった。まず、マネージャーの指導のもと、それまでは一律深夜0時までだった私の職場の営業時間が、夜10時までに短縮されたのだ。さらに、店を開けていても客などほとんど来ないため、勤務形態も変わることになった。具体的に言えば、店長か私一人のいわゆるワンオペの時間を大きく増やし、アルバイトのシフトを減らしたのである。

 バイトの子たちからは不満の声が上がったが、結果的にはやむを得ないことと納得してくれた。実際に調理場に立っている彼ら自身も、三月以降の客足の鈍さから店の経営状態を察していたのだ。

 営業時間の短縮とアルバイトの大幅なシフトカットを行ってもまだ収支のバランスはとれず、次に取った対策はメニューの見直しだった。提供する品目を減らして基本のラーメンだけに絞ることで、仕入れのコストカットを計る。さらに、テイクアウトの需要の高まりを受けて新たに持ち帰りできるメニューを開発することになったらしい。この辺りの対応の速さはチェーン店ならではかもしれない。もし小笠原店長がこの店の経営者だったら、これほど迅速な対処は無理だっただろう。


 だが、ここまでやっても店の経営状態は安定には程遠かった。

 店が潰れるかもしれない、職を失うかもしれない。その不安が現実味を帯びて押し寄せてくる。

 若いんだから選ばなければ仕事はいくらでもある、とはよく言うが、私には飲食店の経験しかない。立地的にはとても恵まれているはずの私の職場がこの惨状なのだから、他の店はさらに厳しいはず。仮にいつか新型コロナの流行が収束するとして、それまで持ち応えられる店がどれだけあるだろうか。

 飲食が厳しいとなれば介護か。しかし飲食店の接客ですら苦痛を覚えることがあるのに、私に他人の世話などできるとは思えない。いつか佐々木が言っていた通り、私は人と接する仕事には全く向いていないと自覚している。コミニュケーション能力が絶対的に不足しているのだ。

 となると運送業? 私は普通自動車免許しか持っていない。体力や腕力にも自信はない。選ぶつもりがなくても、私にできる仕事なんてごく限られていると思う。


 小笠原店長も『こんな店潰れちまえばいい』とは冗談でも言わなくなったし、私も客なんてみんな死ねばいいとは思わなくなった。この状況でも店に足を運んでくれる客に対して、初めて本気でありがたいと感じた。

 四月後半には、政府から国民一人につき10万円の特別定額給付金と、緊急事態宣言によって収入が大きく減少した事業者に対する持続化給付金の案が発表された。条件の計算が難しく私にはよくわからないが、マネージャーは申請してみるつもりのようだ。それで少しでも経営が楽になってくれればよいのだが。


 営業時間が短縮され、シフトが変わったことによって、私の勤務時間は大幅に減少した。閉店時間が二時間早まったことの意味は極めて大きい。日付が変わる前に帰宅できるようになったのだから。

 さらに、今までは私か店長のどちらか、あるいは両方が必ず店にいなければならなかったが、ワンオペ体制になったことで両方が店にいるという状態がなくなり、単純にその分だけ休みの時間が増えた。

 もちろん勤務時間に比例して給料も減るだろうが、この状況ではあまり贅沢は言えない。それよりも、十分な睡眠をとれるようになったことによって、疲労がいくらか解消されて心身の状態がとてもよくなったと感じる。ようやく人間らしい生活ができるようになった、と言えば大袈裟だろうか。世界は新型コロナウイルスの脅威に曝されているが、少なくとも私の健康状態は数週間で大きく改善した。


 だが、私にはそれ以上に気掛かりなことがある。

 それは、サカナからLINEの返信が全く来なくなったこと。いや、返信が来ないだけではない。既読すらつかなくなってしまったのだ。

 異変が始まったのは、緊急事態宣言が発令されて二、三日経ってから。現在四月二十五日、本来なら世間はもうすぐゴールデンウィークに入ろうかという時期なので、かれこれ二週間ほどこの状態が続いていることになる。彼女とLINEをするようになってからこれほど返事が来ないことはなかった。空いても一日程度だったのだ。それが今は既読さえなくなってしまった。バグかエラーでたまたま届かなかったのではないかと思って何度かメッセージを送ってみたが、結果は同じである。

 思考は常に最悪の可能性を追い求める。まず考えたのは、彼女が体調を崩している可能性。さらに、もしかして彼女は新型コロナウイルスに罹患して隔離されているのではないかということだ。

 ただ、首都圏で急速に感染が拡大しているとはいえ、感染者数は全体の人口の1パーセントにも満たない。それに、仮に彼女が感染していたとしても、二十代前半のサカナが重症化する確率は極めて低いと言えるだろう。隔離もしくは入院生活を強いられていたとして、スマートフォンすら満足に使えない状況なんてあり得るだろうか。今は入院中でも携帯電話は自由に使えるはずである。


 しかし、これはまだ楽観的で私にとって都合のいい想像だと言わざるを得ない。私が最も恐れているのは、私のアカウントが既に彼女にブロックされているのではないか、という可能性だ。

 LINEでは相手にブロックされるとこちらからのアクセスが一切不可能になるのだが、ブロックされたという通知は来ないし友だちリストからも消えないので、ブロックされても気付かないということが往々にしてあるらしい。私もおそらく昔職場にいたアルバイトたち数人にはブロックされているだろうが、ブロックされました、などと知らされるわけではない。仕事の連絡に使っていただけ、今後二度と使うことはないはずなのでそれは一向に構わない。


 だが相手がサカナならば話は別である。彼女は私にとって貴重な読者であって――いや、もうただの読者ではない。彼女は――。

 私は自分がブロックされていたらどう表示されるのか、LINEの仕様についてネットで調べてみた。その結果、ブロックされていてもメッセージに既読がつかなくなるだけでトーク画面に変化は全くないのだが、相手のプロフィール画面のタイムラインが表示されなくなるということがわかった。ブロックされる以前は閲覧できていたものが、相手にブロックされていると何も投稿がないという表示に変わるのだそうだ。

 ただ、この方法はサカナに対しては使えなかった。彼女のプロフィール画面は何度も見たことがあるが、彼女は元々一切タイムラインなどをいじっていなかったからだ。私が知る限りアイコンもずっと同じものを使っている。もしブロックされていたとしても、見かけ上の変化はないはずである。そして、どうやらそれ以外に自分がブロックされたことを知る方法はないらしかった。


 何か彼女に嫌われるようなことをしただろうか。私は自分の送ったメッセージを確認してみたが、大きな問題はないように私には思える。彼女が送ってきた自撮りを褒めたり、日常の会話を交わしていただけ。彼女に勧められた本についても、なるべく好意的な感想を述べるようにしていたつもりだ。

 どうしても、この悪い方の可能性を追求して考えてしまう。不安と疑念が私の心を支配しつつある。以前より自分の時間を確保できるようになったことが、この点についてはマイナスに作用した。『小説を書こう!』のアカウントの方でメッセージを送ってみようかとも考えたが、そちらまで無視されたら、作者と読者としての関係まで本当に終わってしまうような気がしてできなかった。

 リアルでの顔見知りならば確かめる方法はあったかもしれない。だが私と彼女を繋いでいるのはインターネットの回線と目には見えない電波だけ。住んでいる場所も遠く離れているので偶然顔を合わせるなんてことも有り得ない。何の手段もないことがもどかしかった。

 いったい私はどうすればいいのだろう。仕事中も、家でゴロゴロしている時も、これまで以上にサカナのことを考えていたと思う。小説を書けなくなったから見限られたのか、新しく彼氏でもできたのか、という可能性も頭をよぎる。思いつく限り、ありとあらゆる可能性を想定した。その大半は思い返せば苦笑しか出ないような荒唐無稽なものばかりだったけれど。

 フォルダに保存しておいた彼女の自撮りを見返したりもした。画像の中の彼女は変わらずとても可愛かった。寝ても覚めても、という表現はこのような場合に使うのか、などと思ったりもした。仕事中も上の空だったかもしれない。その意味では客の少ないことが幸いだった。


 日本全体がコロナ禍に見舞われ大きな変化を強いられた四月は、こうして苦悩のうちに過ぎていった。

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