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 著名なコメディアンが新型コロナウイルスによる肺炎のためこの世を去った。

 朝職場に着いて厨房で仕込みを行っている最中、私は店長の口からそのニュースを聞いた。速報が流れたのは今朝の十時頃だったらしいが、その時間帯私は起床して諸々の支度を済ませ、家を出るかどうかというところ。当然テレビは見ていない。もし私の朝の支度がもう少しもたついていたら、家を出る前に親から聞いていたかもしれない。店長の自宅は職場のすぐ近くだから、そのニュースを見てから出勤する余裕があったのだろう。


 普段職場のテレビは開店時間の正午近くになるまでつけないことが多いのだが、今日に限っては店長が仕込みの最中もずっとテレビのワイドショーを見ながら作業していた。店長は件のコメディアンが好きだったのかと訊くと、別にそうでもない、けど、ついこの間まで元気にテレビに出てた人が死んじまうなんてなあ――しみじみとそう言ったのだ。

 私も店長とほぼ同じ感覚だった。子供の頃は家族と一緒にテレビを見ていたが、彼が出演する番組では姉や両親がよく笑っていたような記憶がある。私も笑ったかもしれないがはっきりとは覚えていない。今見ればくだらないバラエティ番組だと思うが、昔は自然に楽しめていたのだ。

 新型コロナに感染し入院したことはニュースになっていたが、その直前までテレビでごく普通に姿を見られたこともあり、すぐに回復するものと思っていた。新型コロナウイルスの致死率がインフルエンザなどと比べて決して高いわけではないことも報じられ始めている。なのに亡くなってしまうとは。


 平日の月曜ということもあり、テレビのワイドショーはどの局もほぼずっと彼の死を悼む内容だった。数日前、青森県でも初めて新型コロナウイルス感染者が見つかったという報道が出たためか、昼食の書き入れ時の割には客は少なく、テレビを見ながら仕事をする余裕が十分あった。

 新型コロナウイルスによる死亡者や感染者の数は、マスコミが連日うるさいぐらい放送している。だがそれはあくまで数字だった。少なくとも私は数字としてしか捉えられていなかったと思う。しかし、そこに人の名前が加わった。アイコンが付いたと言い換えてもいいかもしれない。直接の知人ではないが、よく見かけて知っている人。まるで近所のおじさんのような――。

 この、知っている人が亡くなったという感覚が、新型コロナウイルスに対する警戒感、恐ろしい病なのだという実感を強めたように思える。


 夜になっても客足はまばらだった。

 テレビはワイドショーからバラエティ番組に変わり、今日も能天気そうな芸能人がやかましく騒いでいる。私は今日は通し勤務だが店長は昼だけで、夜の営業は佐藤さんと二人のシフト。当然会話はない。

 客が少ないことは本来なら喜ぶべきことなのだが、ここまで少ないとさすがに不安になる。また、仕事が少なく会話がないと時間がとても長く感じる。客がいなければ仕込みや細かい部分の掃除などをするのだが、そうした作業が一通り終わってしまうと本当に暇だ。相手が中野渡くんあたりなら自由にスマホをいじってもいいかという気分になるが、あまり打ち解けていない佐藤さんだと何となく気が引ける。せめてテレビがもう少し面白ければいいのだが。


 そんな気分の午後九時過ぎ。


「よう」


 と、マスクを着けた佐々木が慣れた手つきで、入口の自動ドアのボタンを押して入ってきた。ちなみに私は新型コロナの流行以前から仕事中はマスクを着用している。義務ではないが、やはり食品を提供する者としては着けていたほうがいいと判断してのことだ。佐藤さんも元々マスクを着ける派。店長や中野渡くんは着けない派だったが、ここ最近はずっとマスクを着けるようになった。


「あ、いらっしゃ~い」


 佐藤さんが私より先に応じる。そういえば佐々木が店に来る頻度も、一時期より少し低くなったような気がする。佐々木は佐藤さんににこやかに挨拶を返すと、手早く食券を買ってカウンターに出した。佐藤さんは率先してそれを受け取り、ラーメンの調理に入る。佐藤さんも手持ち無沙汰で何か仕事がしたかったのだろう。佐々木の注文が特に手間のかかるものではなかったこともあり、彼女に全て任せることにした。

 カウンター席に座った佐々木が店内を見回して最初に発した言葉は、


「空いてんな」


 だった。今日も客は佐々木だけである。真冬の平日の夜なら何ら不思議ではないが、もうすぐ年度が切り替わるというこの時期ではちょっと珍しいことだ。


「今日ずっとこんな感じか?」

「いや、飯の時間はもうちょい来たけど、でもまあ空いてるよ。普通の年に比べたら」

「だよな。大丈夫か、店」

「わからん。そっちはどうなんだ?」


 佐々木が勤めるパチンコ店はいわゆる三密の状況が生じやすく、飲食店と同様、むしろそれ以上に批判の矢面に立たされている。パチンコは娯楽でありギャンブルでもあるので叩かれやすい条件が揃っているとも言えるだろう。私自身はパチンコには全く興味が湧かないが、通常の営業を続けているだけでまるで新型コロナの感染源かのような扱いを受けるのは理不尽ではないかと思う。そこで働いている人もいるのだ、佐々木のように。

 佐々木は呆れたように口を曲げて答えた。


「まあ、少し減ったっちゃ減ってるかな。でも来る奴は来るよ。そこまでしてパチンコしてえかってちょっと思うわ。店員の俺が言うのも何だけどさ」

「じゃあ、経営の方はまだ大丈夫って感じか」

「うん、まあ、今んとこは。ラーメン依存症ってのは聞いたことねえけどパチカスはなんぼでもいるし、何とかなるだろ」

「でも、これからますます風当たりが強くなってくるんじゃないのか」

「風当たり、なんてリアルで喋ってる奴初めて見たわ。和幸、お前本とか読むの好きみたいだし、ここ潰れたらマジで小説とか書いてみたらどうよ」

「!」


 小説を書いてみたら。佐々木の口からその言葉が出た瞬間、私は驚きのあまり膝から力が抜け、その場で崩れ落ちそうになった。寄りかかっていた厨房のシンクが大きな音を立てる。


「芋田さん? 大丈夫ですか?」


 今日は私とは必要最低限の会話以外まだ一言も話していなかった佐藤さんも、調理の手を止めて心配そうにこちらの様子を窺ってきた。大丈夫、大丈夫、と答えて私は周りを確認する。幸い何も壊れてはいなかった。

 佐々木がこの種の軽口を叩くのはこれで二度目になるか。本当に心臓に悪い。ここまで過剰に驚く私も私だが。


「どうした和幸」

「いや、何でもない」

「疲れてるんじゃね? 前の休みいつよ、和幸」

「えーと……いつだったかな」

「無理すんなよ。こう言っちゃなんだが、お前ラーメン屋とか向いてるわけじゃねえと思うし。ほら、ここ出身で小説書いてなんとか賞獲った奴がいるだろ」

「芥川賞。前にも同じ質問に答えたような気がするけど」

「そうそれ。そういうののほうが、和幸は向いてるって、きっと。客商売とか、しんどそうだもん、お前」


 佐々木がそう言ったタイミングでちょうど注文されていたラーメンが出来上がり、佐藤さんが『どうぞ』と声をかけて佐々木の前に丼を出した。佐々木は満面の笑みでそれを受け取り、いそいそと箸を取り出してラーメンを啜る。そこで小説の話は終わり、私はほっと胸を撫で下ろした。

 小説といえば。昨日と一昨日は、サカナからLINEの返信がなかった。飽きられたのだろうか、という思考が真っ先に出てしまうのはもう私の性分だから仕方ないが、時節柄、体調のほうが心配になる。

 ラーメンを食べ終えた佐々木が、そういえば、と亡くなったコメディアンの話題を持ち出し、それからしばらく佐藤さんも交えて思い出話に花が咲いたが、その後閉店時間まで佐々木以外の客が来ることはなかった。

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