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 太ももに新しくできたアザを眺めながら、バスルームで私は今日何度目かわからないため息をついた。


 夫と結婚して今年で六年目。DVが始まったのは二年前からだ。職場でなかなか評価されず、人間関係の悩みやストレスもあり、家で深夜まで飲酒することが増えた。そして、酔った勢いで私に手を上げるようになったのだ。

 当時の職場の同僚を通じて知り合い、二年の交際を経て結婚。交際中はとても優しい人だったし、結婚してからもしばらくは幸せに、一般的な夫婦生活を送っていたと思う。だから暴力を振るわれるようになって最初は戸惑いを覚えたけれど、彼も辛いのだ、と思い全て受け止めていた。だが暴力は次第にエスカレートし、シラフの状態で私を打つことも珍しくなくなった。詰ったりなにか言い返したところで事態は悪化するだけなので、私は黙ってそれに耐えた。不思議なことに、ある程度暴力を振るってガス抜きが済むと、彼は正気を取り戻し、私に謝罪の言葉を述べる。愛し合って結婚した相手だから、私はそれで許してしまうのだ。

 私が接客業で働いているからか、顔だけは絶対に打たないのがせめてもの救いだった。共働きで子供がいないことも不幸中の幸いだったかもしれない。あるいは子供がいれば暴力などふるわないのだろうか、と考えなくもないが、もし私自身だけでなく自分の子供まで虐待されたら、私は絶対に彼を許せなかったと思う。


 私の仕事はデパートの化粧品売り場の店員。シフト勤務で残業は滅多にない。一方の夫は食品メーカーの営業部門で、もともと取引先との飲み会などの接待で帰りが遅くなることはあったのだが、このところ特に残業が多い。輸入に頼らざるを得ない原材料の価格高騰と、終わりの見えない不景気、さらに消費増税の影響もあり、会社の経営状態も芳しくないと聞く。会社の先行きに不安を抱いているだろうし、連日の残業で疲れも溜まっているはず。彼が全てを曝け出し、甘えられる相手は私しかいないのだ。


 でも、そう自分に言い聞かせることにも、最近はもう疲れてしまった。



 シャワーを浴びて髪を乾かし終えた私は、残っていた家事を済ませて寝室に入った。夫は既にベッドで寝息を立てている。もう一度大きな溜め息をついてから私もベッドに入り、スマートフォンを手に取って、『小説を書こう!』という小説投稿サイトのページを開いた。

 ストレスのせいか、最近ベッドに入ってもなかなか眠れない。ベッドでスマホの画面を見るのが入眠に良くないことはわかっているのだが、どうせ寝付けないのなら、なにか暇つぶしをしながら眠くなるのを待つほうがよほどマシだ。


 私は『小説を書こう!』のアカウントを持っている。ユーザー名は『サカナ』。特に深く考えず、ファンである椎名林檎の曲名から何となくとったものだ。小説投稿サイトのアカウントを持ってはいるけれど、自分で小説を書くわけではない。いわゆる読み専ユーザー。ランキングや作品の人気にこだわらず、新着の小説のなかから適当に目に留まったものを読み、気に入ったものには感想を書く。

 私のような読み専ユーザーは『スコッパー』と呼ばれたりもするらしい。『小説を書こう!』で人気の異世界ファンタジーが肌に合わないせいもあるが、私は紙の書籍でも、話題になっている本より、書店で見かけてなんとなく気になった本をタイトル買いするタイプなのだ。

 最近は出版されている本でも話題性ばかりが前面に出て中身が伴わないものが多い。わざわざお金を出して本を買い、読んでがっかりするほど悲しいことはない。その点、小説投稿サイトで公開されている作品は無料で読めるし、アマチュアでも心に響く良い作品を書ける作家はたくさん――は言い過ぎだけど、それなりにいる。出版された本と比べると元から期待値が高くないとはいえ、失望することも意外と少ないし、気楽に読めるのがいいところだと思う。無料だし。


 マイページを開いて最初に目に留まったのは、赤い文字の『新着メッセージが2件あります』という表示だった。このサイトでは、公開されている作品に感想を書くと、作者から感想に対する返信が送られてくることがある。その際に、感想に返信が書かれたとメッセージで通知されるのだ。

 全ての感想に返信がつくわけではない。作品を公開したまま筆を折り、そのままログインしない作者も多い。でもアクティブに活動している作者なら、ほぼ間違いなく返信を書いてくれる。返信を期待して感想を書くわけではないのだけれど、やはり心のこもった返信をもらうと嬉しい。


 今回返信が書かれたのは、最近読んだ二つの作品。あっきコタロウという作者の『そしてふたりでワルツを』と、遠田永久という作者の『福笑い』だった。

 前者の『そしてふたりでワルツを』は、近代的でありながら若干のファンタジー風味が入り混じった独特の世界観の恋愛小説。ややキャラクターが濃い印象は受けたが、ハッピーエンドの恋愛小説なので読後感は非常によかった。返信の文体はやけに情熱的で、作者はキャラクター愛の強いパッション系の人なのかな、と思った。


 次に私は、二通目の返信通知、『福笑い』の方のメッセージを開いた。これはたしか純文学風の作品で、周囲の人間関係に神経をすり減らす若者の姿を、皮肉とユーモアを交えて描いた話だったような気がする。こちらは文体が硬めで目を引くキャラクターもおらず、web小説の世界では流行らないジャンルだろうとは感じたけれど、個人的には割と好きなタイプの話だった。バッドエンドだったのが唯一少しだけ残念に感じた点だろうか。

 ところで、web上で作品を公開している作者の中には、自作に対してほんの少しでも批判的な感想が書かれると、逆上して読者の個人攻撃めいた返信をしたり、はたまたその逆に大きく落ち込んでしまうタイプの人もいる。こうなると、もうその人に感想は書けなくなるし、読みたくもなくなる。良かれと思って感想を書いたのに後味が悪くなる。

 作品に魅力を感じるから先を読もうと思う。読んだからこそ感想を書けるし、ここをもう少しこうすればもっと良くなるのに、と要望も出る。これは余計なお世話だろうか。無言でブックマークを外した方がよかったのだろうか、と思う。

 私はスマホ世代ではないから、タッチパネルでの文字入力があまり得意ではない。それでも頑張って感想を書いている。どうか『福笑い』の作者である遠田永久さんが厄介なタイプでありませんように、と願いながら、私は返信が書かれた感想ページへのリンクをタップした。


 返信は以下のような文面だった。


『感想ありがとうございます。文体や登場人物、心理描写は意識して工夫した部分なので、お褒めに与り光栄です。結末についてですが、私は諸星亘という作家が好きで、彼の作品へのリスペクトの意味も込めてこういう結末になりました』


 私はまず心底ほっとした。作品から受ける印象と作者本人の性格は必ずしも合致しない。流れるように美しく繊細な文章を書く作者が気難しい人だったり、挑戦的な作品を書く人が意外と親しみやすかったりする。その点、この作者は文面が落ち着いていて、作品とイメージが合っている。たったこれだけの短い文章からでも、真摯さは伝わってくるものだ。


 そしてもう一つ、私の目を引いた単語があった。それは『諸星亘』の名。

 諸星亘は最近小さな文学賞をとってデビューしたばかりの新人作家で、一般的な知名度はまだほとんどないと言っていいけれど、私は密かに彼を応援していた。それは諸星亘がまだアマチュアの頃、『小説を書こう!』に作品を公開し始めた時期に、いくつか作品を読んで感想を書いたことがあるからだ。


 当初の彼の作品はお世辞にも読みやすいとは言えない文体で、おそらく太宰治あたりを意識していたのだろうけれど、それが文章の中で滑ってしまっている感じがした。描きたいこと、テーマは良いのにちょっと勿体ないと思ったほどだった。だが作を重ねるごとに文体が洗練され、テーマを描き切る能力が備わってきた。そして『小説を書こう!』では過疎ジャンルの純文学で、ランキングをカテエラ(中身は異世界やファンタジーであるにもかかわらずランキングに載るためだけに違う過疎ジャンルを名乗る行為)作品に独占されている状態でも、彼は少しずつ固定ファンを獲得し始めたのだ。

 諸星亘のサクセスストーリーを最初期から追っていた者として、彼を目標とする新しい作家のたまごが生まれつつあることはとても感慨深かった。しかし同時に微かな不安も覚えた。諸星亘の最近の作品は、初期に比べてあまりに救いがなさすぎる。作者個人の事情を勘繰りたくはないのだが、諸星亘自身に何かあったのではないかと心配になってしまうほどに。悲劇的な結末を迎えたかつての文豪たちの轍の上を歩いているように思えるのだ。

 遠田永久という作者は、言われてみればたしかに諸星亘の作風を真似る、あるいはなぞっているように感じられる。彼の作品から学ぶのはよいことだと思うけれど、彼になる必要はない。この真面目そうな作者は、その辺りの匙加減をわかっているだろうか。


 たった一作品読んだだけの作者のことがどうしてここまで気にかかるのかは、自分でもよくわからない。だが気付けば私は、『小説を書こう!』のメッセージ機能を使って、初めて他のユーザーに個別にメッセージを送ろうとしていた。


『突然のメッセージ、失礼します。諸星亘好きなんですか? 私も彼の作品が好きで、まだ無名の投稿者だった時代からずっと読み続けてるんです』

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