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 三月下旬。新型コロナウイルスの感染拡大を食い止めるため、首都圏全体に週末の不要不急の外出に対する自粛要請が出された。それを受けて、都内の百貨店や大型商業施設は休業を決めた。

 私の職場も全館休業となり、久しぶりに土日両日ともずっと家でゆったり過ごせることになった――と言えばいいことのように聞こえるかもしれないけれど、今後の不安のほうが勝っていて、家にいても全く心は休まらない。感染状況ももちろん心配ではあるのだが、それ以上に不安なのは職場の経営状態。売り場に出ていれば嫌でもわかる。三月下旬に入り、都内の新規感染者数が連日二桁を超えるようになってから、客足は目に見えて減少している。その上で本来なら稼ぎ時である週末に休業を強いられるのだから、今月の売り上げは悲惨な数字になるだろう。

 休業を強いられる。そう、自粛要請という言葉の意味とは裏腹に、これは強制に近い。たとえば、イベントの自粛要請に応じず強行したイベントなどでは主催者に対するバッシングが起こっている。どのみちお客様は来ないのに、そのような状況で営業を続けるリスクは計り知れない。形式的には『自粛』の『要請』であっても、現実は泣く泣く休業せざるを得ないのだ。


 とはいえ、今は誰のどんな対応も責めることはできないと思う。突然未知の恐ろしい感染症が生まれ、それが日本に伝わって急速に感染が広がるなんて、いったい誰が予測できただろう。今年の正月ぐらいまで、話題はオリンピック一色だったのだから。

 でも、そのオリンピックもついに延期が決まってしまった。夏までに新型コロナの流行が収まっているという保証はないし、この状況では準備もままならないのだから、やむを得ない決断だったと思う。オリンピックの経済効果を当て込んでいたところは大変だろうけれど……。


 私の職場についても、休業が本当にこの週末だけで済むのかはわからない。土日の感染者数は二日続けて過去最多を更新し、もうすぐ三桁に届きそうな勢い。外出の自粛要請が今後も続くなら、短縮営業や休業も延長しなければならなくなる。

 この先いったいどうなるのか……。日曜の午後、リビングのソファーでぼんやりとテレビを眺めながら、私は途方に暮れていた。


「ったく、とんでもないもんを持ち込んでくれたな」


 ソファーに寝そべりながらテレビを見ていた夫が、吐き捨てるように言った。夫はよく中国や韓国など東アジアの国に対するヘイトを口にする。何かといえば中国や韓国のせいだし、韓流スターがテレビに映ればすぐにチャンネルを変えてしまうほど。彼によると韓国人は全員整形している。テレビ局はすべて反日で偏向報道をしており、ワイドショーは見たら馬鹿になるのだそうだ。

 だから、たとえば家ではキムチすら食べられない。キムチは韓国の食べ物だからだ。でも、中国伝来の食べ物である餃子やラーメン、麻婆豆腐には文句を言わない。理屈がよくわからないが、どこかに彼なりのボーダーラインがあるのだろう。

 政治的な主張に相容れない部分があることぐらいは私もわかっている。でもだからこそ、文化面での交流は必要だと私は思う。日本人にも韓国人にも中国人にも、いい人も悪い人もいるし、どの文化にも良いところはあって、それは現在の政治的な軋轢とは無関係なものだ。

 感染症にしても、古くはヨーロッパでペストが人口の半数を死に至らしめたと言われているし、エボラ出血熱は現在でもアフリカで猛威を奮っている。中国で流行が始まったからといって中国人が悪いわけではない。どこでどんな病気が発生するかは誰にもわからない。新型コロナウイルスのような新しい感染症が日本で発生する可能性もゼロではないと思う。わからないからこそ恐ろしいのではないか。


 夫がヘイトを口にするたび私はとても嫌な気持ちになるけれど、口ごたえなんかしようものならすかさず手が飛んでくるので絶対にしない。土日は日中ワイドショーをやっていないのがせめてもの救いだ。もしワイドショーなんか流そうものなら、夫の機嫌は最悪で手がつけられなくなるだろう。


 結婚するまではこんな人だとは思わなかった。いや、実際にこんな人ではなかったはずだ。目の前でキムチを食べても何も言わなかったし、若干隣国に対する反感を持っているのかな、という程度で、露骨な言葉を口にする人ではなかった。何が彼をここまで変えてしまったのだろう。それともただ私が彼の本質を見抜けなかっただけなのだろうか。


 週末の二日間ずっと夫と一緒に過ごすのもずいぶん久しぶりのことのように思える。彼は土日が休みだが、私はだいたい土日のどちらか、または両方シフトが入っていたからだ。

 二日間過ごしてみて、改めて実感したことがある。夫といると全く気が休まらない。いつ怒鳴られるかと怯えながら過ごさなければならないのだ。職場では常に話し相手がいるが、家では迂闊に口を開けない。仕事に行っていたほうがずっと気が楽だ。


 ああ、だめだ。こうしていると、どんどん夫のことを嫌いになってしまう。


「洗濯してくるね」


 と言い残して、私はリビングを出た。


 洗濯機にスイッチを入れて、私は深い溜め息をついた。実は溜まっていた洗濯物は既に昨日洗っていたので、必ずしも今する必要はなかったのだが、口実作りのためにその辺りのバスタオルやフェイスタオルをまとめて洗濯機に突っ込んだ。

 洗濯機が音を立てて回り始める。この洗濯機ももう使い始めて五年以上、最近少し駆動音が大きくなってきた気がする。私は夫の目がないことを確認してから、スマートフォンを取り出した。LINEの通知が少し溜まっている。ここ二日、LINEはなるべく見ないようにしていた。あまり通知音が鳴りすぎると夫に怪しまれるのではないかと考えたからだ。

 遠田さん以外にもオフラインの、普通の友人から届くこともあるとはいえ、普段さほど頻繁にやりとりするわけではない。突然続けて通知音が鳴るようになったら不審に思われるかもしれない。夫のプレッシャーを受けながら何食わぬ顔でLINEを続けられる自信はない。何やってるんだ、画面を見せろと言われたらもうおしまいだ。それだけは避けなければならなかった。

 かといって既読無視をしてしまったら、それは相手に誤解を与えることになる。だからなるべく通知すら見ないようにしていたのだ。


 明日からは普通の生活に戻れることになっていて、夫は朝から仕事だし、私も午後からのシフトが入っている。だから明日は休憩時間にLINEができるはず。しかし、新型コロナの感染拡大が収まらず、その先もまた休業を余儀なくされるような状況になったらどうなるだろう。夫と二人きり、こんな息の詰まる生活がずっと続くのだろうか。


 今は祈ることしかできない。新型コロナウイルスの流行が一日も早く終息するようにと……。

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