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 西暦2020年、令和二年三月。新型コロナウイルスによって、日本はかつてない混乱に陥りつつあった。


 帰国した旅行客やクルーズ船の乗客から日本各地に拡散したウイルスの感染力は当初想定されていたより強く、全国で感染者が確認され、その数は瞬く間に三桁に達した。特に広い地域に感染が拡大している北海道では、ついに緊急事態宣言が出された。わが青森県ではまだ感染例の報告はないが、それも時間の問題だと思われる。北海道は海を挟んだ隣県であり、四年前に北海道新幹線が開業したことにより人の往来はさらに増えているのだから。


 未知のウイルスの全国的な感染拡大を受け、首相は急遽、全国の小中高校に向けて臨時休校を要請した。また、ライブハウス等で小規模な集団感染、いわゆる『クラスター』が発生したことから、不特定多数の人間が集まる各種のイベントや催し物の開催も控えるよう求められている。まだ感染者の出ていない青森県でも、来場者の連絡先が完全に把握できないイベントは原則中止となったようだ。

 しかしこれらの『要請』は命令でも指示でもないため強制力はない。代わりに用いられた言葉が『自粛』である。自ら開催を控えるため補償はない。それでもイベントを強行すれば猛烈なバッシングを受けるため、経済的損失を覚悟の上で泣く泣く自粛せざるを得ないという、関係者にとっては地獄のような状況になっているらしい。


 イベントだけではない。先に挙げたライブハウスのように、感染爆発が起こる可能性が高いとされる状況が発生し得る施設の営業も自粛するよう求められた。この感染が起こりやすい状況を端的に表すものとして、新たに『三密』という言葉が生まれた。三密とは、換気の悪い密閉空間で、多くの人が密集し、ごく近距離での発生や会話が起こる状況のことである。

 そしてもう一つ、新たに盛んに使われるようになった言葉が『ソーシャルディスタンス』。直訳すると社会的距離となるが、要するに感染リスクの高まる近距離を避け、なるべく他人と物理的な距離をとって生活を送ろうという意味である。

 この他にも、世界的大流行の意を表す『パンデミック』や、都市封鎖の『ロックダウン』、そして爆発的感染拡大の『オーバーシュート』など、新型コロナの流行以降、耳慣れない新しい言葉がメディアやネット上で躍るようになった。新しく生まれた言葉に過敏に反応してしまうのは、やはり私が物書きだからだろうか。


 新型コロナウイルスは既に世界中に拡散し、あらゆる地域で感染者を増加させている。ヨーロッパなどでは、このウイルスに関連して東アジア人に対する差別的な言動、ヘイトクライムが見られ始めたらしい。

 リベラリズムとグローバリゼーションのもとで糊塗されてきたあらゆる(ひず)みが、未知の感染症の大流行によって暴露されつつある。いや、ここ数年の世界情勢を見るに、欧米諸国では元々排外主義の傾向が強まっていた。新型コロナウイルスはそれを加速させただけなのかもしれない。

 いずれにせよ、自由貿易と人口の集積化による大都市化を進めて来た資本主義社会の歪みと弱点を、新型コロナウイルスは的確に衝いてきた。この災禍が世界に何らかの変化を齎すことは避けられないだろう。


 話を日本に戻す。首相は小中高校の臨時休校を要請したが、彼ら学生たちを保護するための施策だとしても、10代の重症化率はそもそも極めて低い。また『三密』や『ソーシャルディスタンス』という言葉だけが一般的なものになっても、具体的な対策が講じられるわけでもない。各種イベントが中止され、学校は休校という措置が取られたが、最も三密の状況が発生しやすい場所は実質放置されていた。それは日本の首都圏の満員電車である。

 近距離での会話こそ少ないかもしれないが、あれだけ大勢の人間が通勤通学時に寿司詰めになっているのに感染予防もクソもない。学校を休校にしたところで、ウイルスを持った親が帰宅したら感染リスクは変わらないのではないか。そうした疑問を抱きつつも、我々日本人は疑問を理由に仕事を休むことはできないのだ。

 そしてこの新型コロナウイルスで厄介なのは、感染しても無症状のまま終わる感染者の割合が多い点、さらに発症するとしても感染してから発症するまで二週間程度のタイムラグがあり、その間も他者に感染させてしまう可能性がある点だ。インフルエンザなら、感染すれば早期に高確率で発熱や倦怠感などの症状が出るため対処が可能だが、新型コロナウイルスの場合はそれが難しい。無症状のまま、まったく無自覚に感染源になってしまう可能性があるのだ。


 自分が感染するだけならばまだいい。しかし、知らず知らずのうちに自分が感染源になってクラスターが発生したりオーバーシュートの原因となるのは怖い。ウイルスそれ自体に対する恐怖より、自身が感染源になる不安のほうが勝っているように私には思える。その不安が社会全体に蔓延し、パニックが起こりかけているのだ。

 いや、パニックは既に起きているかもしれない。既に店頭ではマスクの入手が困難になっており、オークションサイトなどで転売屋による法外な価格での出品が相次いでいることが問題になっている。もちろん高額転売という行為自体は以前から存在した。しかしその対象は主にライブやコンサートのチケット、あるいは入手困難なゲーム機などの嗜好品に限られていて、公衆衛生に直結するマスクのような生活必需品がターゲットになったのはおそらく今回が初めてなのではないだろうか。既にこちらの市内のドラッグストアでもマスクは品切れ状態が続いている。


 先が見えない新型コロナウイルスの流行。その足音は、未だ感染者の出ていない青森にも、着実に忍び寄っている。


 いくら雪深い青森といえども、三月にもなれば真冬日は滅多に見られなくなり、少しずつ雪解けが進んでゆく。この街は県内でも気温の低い内陸部。春が近くなれば『やませ』と呼ばれる湿気の多い大雪が降ることがあるが、それでも雪が解けるスピードのほうがずっと早い。気温が上がり雪が解けるにつれて、人出は自然と増えてくるものだ。通常の年ならば。

 しかし、今年は客足の戻りが明らかに遅い。むしろ厳冬期より少なくなっているとさえ感じる。青森ではまだ新型コロナの感染者が一人も出ていないにもかかわらずである。

 普段は客なんてみんな死ねばいいと思っている私でも、この状況にはさすがに不安を覚える。客はいなくても構わないが店が潰れるのは困る。就職活動をする上で武器になる資格もスキルも特になく、体力にもあまり自信はない。店が潰れて職を失ってしまったら、次の仕事はそう簡単には見つからないだろう。若いんだから選ばなければ仕事はいくらでもあると言われるが、まともな仕事が本当にいくらでもあるなら、この街はもっと大都会になっているはずである。日本一低い賃金で日本一長く働き日本一早く死ぬ青森県で、いい仕事なんてすぐに見つかるわけがないのだ。


「は~、暇だねえ」


 厨房の隅にある流し台に軽く腰掛けながら、店長の小笠原さんが呟いた。

 店長はたしか私より六歳年上、色白で黒髪短髪のがっしりした体型の男性で、大きな耳朶に小さなピアスをつけている。高卒で運送会社に就職したが二年足らずで辞め、それから自宅近くにあったこの店でアルバイトを始めてそのまま流れで店長になったらしい。私がここにアルバイトで入ったときには既に彼が店長だったので、少なくとももう四年以上店長を務めている計算になるが、職場への愛着は特になく、一日一回は『辞めたい』と漏らしている。

 今は土曜の午後二時半。昼食時の客をちょうど捌き終えたところで、店内に客はいない。平日ならこの時間帯は一旦店を閉めるのだが、土日祝日はそのまま夕方まで営業を続ける。が、冬場は特に昼食のラッシュを過ぎてしまえば客足はまばらになり、休憩や夜のラッシュに備えた仕込みの時間に充てることが多い。

 だからこの時間帯に客がいないこと自体は決して珍しくないのだが、そもそも昼飯時ですら訪れた客は5、6組と少なかった。店を開いている間は客が来ると思わず舌打ちしてしまいそうになるが、閉店後の締め作業で売り上げを集計していると暗澹たる気分にならざるを得ない。

 今日は夜まで私と店長二人のシフトである。そのままスルーするのも躊躇われたので、私はとりあえず無難な相槌をうった。


「暇っすね」

「こんな店潰れちまえばいいんだ。なあ店長」


 店長はよく戯れに私のことを店長と呼ぶ。店長である小笠原さんが辞めたら自動的に副店長の私が店長に昇格するからだ。とはいえ、もう何年も前からずっとこの台詞を言っているので、実際にどれだけ真剣に転職を考えているのかは疑わしい。そもそも転職活動なんかする時間もないはずだ。副店長の私ですら休日は何もしたくなくなるのだから。


 小笠原店長は男にしてはかなり話好きで、佐々木よりはるかによく喋る。青森の男といえば朴訥なイメージを持たれやすいようだが、店長はこの街で生まれ育ったとは思えないほど口数が多い。

 店長とももう長い付き合いになるが、どうも未だに苦手意識が抜けきらない。パワハラやそれに近い言動をされたことは一度もなく、極端に厳しいわけでもなく、上司として同僚として不満な点は全くないのに、こういう感覚をそりが合わないと言うのだろうか。仕事は丁寧なのだがそれ以外の言動に少々粗野な印象を受けることがあるせいかもしれない。

 佐藤さんや中野渡くんも、店長よりも客の佐々木のほうにより打ち解けているように見える。佐々木のほうが年が近いことを差し引いてもである。前の副店長は店長より年上の子持ちの女性だったが、店長と親しく話しているところを見たことがなく、私がアルバイトとして働き始めてほどない頃に、旦那さんの仕事が変わったとかでさっぱりと辞めてしまった。その後釜に私が収まったわけだ。


 潰れちまえばいいと言われてさすがに適当な相槌をうつことはできず、厨房には沈黙が流れる。テレビではよくわからないバラエティ番組の再放送が放映されており、私はそれを見るともなく眺めた。すると、突然無機質な機械音と共に、画面上部に『ニュース速報』の文字が浮かぶ。視聴者の注意を促すためとはいえ、このニュース速報の音の気味の悪さはどうにかならないものかといつも思う。

 ニュースの内容は、新型コロナウイルスによる死者が増加したことを報じるものだった。一緒にテレビを見上げていた店長がぼそりと呟く。


「どうなるんだろうな、新型コロナ。北海道とか東京の方も今ヤバいんだろ? オリンピックどころじゃねえだろ、これ」


 東京。その単語から、私はサカナの声と都会の喧騒を思い出した。次は私からかけますね――その言葉で通話を終えたあと、まだ一度も彼女と通話できていない。

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