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 通話のアイコンをタップし、サカナの応答を待つ間、私は手の震えを抑えられなかった。


 彼女のプロフィール画像であるどこかの夜景、そして『さゆり』という名前の下で、緑色の小さな丸が三つ、左から右へと流れてゆく。軽やかだが単調なコール音が何度繰り返されただろう。時間にしてほんの数秒ほどだったはずだが、私にはその数秒がいやに長く感じられた。やはり気が進まないのだろうか。通話の時間を細かく指定されたのは、遠回しな拒否の意思表示だったのかもしれない。


 そんなことまで考え始めたところでコール音が途切れ、スマートフォン上部のスピーカーからざわざわと雑音が聞こえてきた。画面下部には通話終了のための赤いアイコン。これはつまり現在通話中であることを示している。私は慌ててスマートフォンを耳に当てた。

 スピーカーの向こうからは、人の話し声や足音、吐息、賑やかな音楽――それらが綯い交ぜになったもの、この街では一生聞けないであろう『雑踏』の音がする。通話状態になってもなお数秒の沈黙が流れ、待ちきれずに私は呼びかけた。


「あ、あの……もしもし」


 それでも返事はなく、私は急に不安に襲われた。もしかして今通話している相手はサカナではないのではないか? 何かの手違いかアクシデントで、彼女のスマートフォンが違う人間の手に渡っていたり……。それとも、私の声が気に入らなかったのか。私はいわゆるイケボではない。男らしい響きのある低音でも、よく通る爽やかな声でもなく、これといった特徴のないごく平凡な声だ。

 あるいは、もしやサカナはネカマで、スマートフォンの向こうではむさ苦しい男が薄気味の悪い微笑を浮かべながら、その野太い声をいつ発しようかと頃合いを見計らっているのかもしれない――などと思考が突飛な方向に向き始めたところで、


「……はい、もしもし」


 ようやく返答があった。それが紛れもなく女性の声だったことに、私は少し安堵した。そして、SNS時代になって電話をする機会がめっきり少なくなっても、通話の初めの一言は『もしもし』なのだな、とふと考えた。いや、それより今はサカナである。

 まだたった一言だけではあるが、初めて聞いたサカナの声は、彼女の自撮りや文面から想像していたものよりずっと落ち着いていた。高すぎず低すぎず、品がよくてしっとりとした声色。

 そこでさらに数秒の沈黙があり、私は慌てて言葉を継いだ。


「サカナさん……ですよね?」

「はい……はじめまして」


 小声で喋っているらしく、周囲の雑音に紛れてところどころ聞き取りにくい部分もあったが、彼女の声が聞けて話ができるだけで、私はとても嬉しかった。


「あ、はじめまして。遠田です」


 と、今更わかりきっている自己紹介は済ませたものの、ここからどう話を繋いでいけばいいのかがわからない。会話のパターンは事前に何通りか想定していたはずなのに、いざ通話が始まると頭が真っ白になって全てが吹っ飛んでしまった。目の前にあるまかないのとんこつ塩ラーメンは麺がすっかり伸びており、もう湯気すら立っていない。


「思ってたより、優しい声をしてらっしゃるんですね」


 サカナが言った。それは私が彼女の声について抱いた印象と全く同じものだった。


「あ、はい……ありがとうございます。その、サ、サカナさんも、すごく落ち着いてますよね」


 文章でコミニュケーションをとっている間は何気なくハンドルネームで会話しているのに、声に出すと微かな違和感を覚える。人名に近いハンドルネームなら感じないのだろうか。その意味では、彼女は私のハンドルネームを呼びやすいかもしれない。


「……あんまり可愛い声じゃなくてすみません」


 彼女がぽつりと漏らしたその一言に、私は慌てふためいた。私のテンションが低いせいで誤解を与えてしまったのか。私は意識して声のトーンを上げた。


「いえ、全然! そんなことは! 聞いててほっとするというか、安心する感じの声です。私はすごく好きですよ」

「……ありがとうございます。遠田さんの声も、優しくて穏やかで、素敵だと思います」

「あ、ど、どうも……」


 人生の中で声を褒められたことなど一度もない私は、そう返すのが精いっぱいだった。額にしっとりと汗がにじみ、体の火照りを感じる。職場の休憩室にはストーブがなく、気休めのエアコンがある程度なので冬場はかなり寒い。にもかかわらず、今すぐ制服を脱ぎ捨ててしまいたくなるぐらいに暑かった。

 それにしても、これがアマチュア作家と読者の会話だと聞いて、私が作家の方だと思う人間はどれほどいるだろう。我ながら私の語彙はひどい。これは何も私がスランプだからではない。キーボードを叩いているときに浮かんでくる文章と、自分の口で話す言葉はまったくの別物なのだ。伝えたいことを言葉にして話すのは難しい。人類が文字を発明していなかったらと思うとぞっとする。話し言葉に関しては私などより佐々木のほうがずっと洗練されているだろう。


 その時、不意に雑音が大きくなり、私は尋ねた。


「あ、あの……今、どこにいるんですか?」

「今ですか? 今は……仕事の帰りで、駅の近くにいます。うるさいですよね、ごめんなさい、こんなところで」

「いえ、あの、話したいって言いだしたのは私の方なんで……忙しいのに、すみません」


 スピーカーの向こうの息が揺れ、彼女が少し笑ったように思えた。


「忙しいのはお互い様だし、それは言いっこなしですよ。それに、ほんとに毎日死ぬほど忙しかったら、小説を読む余裕もないと思います」

「ハハ、そうですよね……」

「遠田さんこそ、今、職場ですか?」

「ええ、まあ、そんなところです」

「だったら、ゆっくり休みたかったですよね。変な時間に指定しちゃってすみません」

「いえ、いいですよ、休憩って言っても、別に、ラーメン食べながら本読むぐらいですし」

「ラーメン……そういえば、最初にLINEしたとき、ラーメンの絵文字を使われてましたよね」

「ええ、まあ、そうですね。ラーメン屋で働いてるので、なんとなく」


 私はすっかり麺が伸び切って膨れ上がったラーメンをちらりと見た。


「あ、そうなんですか? すごい。何ラーメン?」

「えーと……とんこつ塩ですね。うちは基本的にとんこつメインの店なので」

「おいしそう。とんこつラーメン好きです」


 こんなとき、どう返すのが適切なのだろうか。ラーメン屋の何がすごいのかも気になったがそれはそれとして、とんこつラーメンが好き、というのは彼女の感想である。たとえばこれが作品に対する感想であれば『ありがとうございます』と言えるのだが、とんこつラーメンは私の作品ではない。作ったのは私だが、分量や手順は店で決められているものだし、商品をできる限り速やかに客に提供できるよう、作業は極限まで簡略化されている。私は味のついた具材を切り、既に出来上がっているスープを温め、決められた秒数だけ麺を茹でて、教えられた手順と配置通りに丼に入れているだけ。食べ終わった食器を洗うのも食洗器の役目だ。

 うまい返答が思いつかず、私はとりあえず同意してみた。


「私も好きです」


 本当はそこまでとんこつが好きなわけでもないのだが。すると、サカナが言った。


「いつか、遠田さんが作ったラーメンも食べてみたいです」

「いやぁ、私が作ったというか……私はレシピ通りにやっているだけなんで、別に大したこともしてないですけど」

「そんな、ご謙遜」

「いえ、ほんとに。でも、まあ、店に来ていただけたら、できる範囲でサービスしますよ」

「ほんとですか? 楽しみ」


 私はここではたと気付いた。店に来て私の作ったラーメンを食べてみたいということは、サカナが青森に来る――いやそれ以前に、私と会う意思がある……のか?


「そちらは、雪、積もってますか?」


 サカナが言った。私は何気なく休憩室の裏口へ視線を泳がせたが、裏口のドアは磨りガラスになっていて外は見えない。しかし、今は二月の半ばである。いかに今冬が記録的な暖冬とはいえ、雪はまだ残っている。特に職場の裏口付近は人があまり歩かない上に日中日陰になるため、雪は20センチ以上、気温が氷点下になる夜中は足元が凍っていたりする。

 私は答えた。


「ええ、はい。今年は雪は少ないですけど、少し積もってますね」

「私、あんまり旅行したことないんです。北海道には一度行ったんですけど、それも夏で……だから、冬の東北にはまだ行ったことがなくて。一面の銀世界とか、見てみたいです」

「そうなんですか。でも、東京でもたまに降るんじゃないですか? なんか、雪が積もって電車が動かないとか、ニュースで見ました」

「そうそう。大変なんですよ。でも、青森では雪が積もってても電車が走るんですよね?」

「ええ、まあ。ひどい大雪だと影響出ますけど、多少の雪では止まらないですね」

「私の職場にも遠田さんと同じ青森出身の子がいるんですけど、私たちがほんの数センチの雪で大騒ぎしているのを笑われてます」

「……ええ、正直、私もちょっと笑っちゃいますね、そのニュース見てると」

「あー、ひどい」


 彼女の声は笑っていた。通話し始めた当初と比べると、私も少し肩の力が抜けた感じがする。

 そこでまた一度会話が途切れ、次は何を話そうかと考えていたところで、スピーカーの向こうから小さなくしゃみの音が聞こえ、サカナの『すみません』という小さな声がすぐ後に続いた。

そうだ、彼女は今、屋外で通話しているのである。


「大丈夫ですか? 寒いですよね」

「いえ、そちらの寒さに比べたら、全然……」

「いや、あの、あんまり無理はしないでください。今は、あれ……コロナウイルスもあるし。私は声が聞けただけでも十分嬉しかったので」

「そう言ってもらえると、私も嬉しいです。どうなるんでしょうね、新型コロナ……」


 そう話す彼女の声には、微かに不安の色が滲んでいた。本州の北端に位置する青森ではまだテレビの中の出来事だが、首都圏での感染者は既に三桁に達し、初めての死者が出たと先日報道されたばかりだ。人口が密集する東京で接客業に就いている彼女はたしかに心配だろう。


「まあ、何とかなりますよ。でも万が一ってこともありますから、風邪とか引かないように、お大事になさってください」

「ありがとうございます。気を付けますね……じゃあ、今日はもう帰ります」

「お気をつけて」

「はい……あの、遠田さん」

「はい?」

「また今度、お話させてもらってもいいですか?」

「お話……? LINEでですか?」

「はい……いいえ、通話、という意味です」


 サカナのその言葉を聞いた瞬間、私は驚きのあまり一瞬困惑した。それほど長く話したわけではない。会話も決して弾んだとは言えないだろう。だがこれでも、私なりには話せた方だと思うし、楽しい時間だった。しかしまさか彼女の方からまた通話したいと言われるとは。私はただ、彼女の声が聞いてみたかっただけなのだ。

 私は即答した。


「はい、もちろん!」

「よかった。次は私からかけますね。じゃあ、また……」

「はい、また」


 また、と私が言ったあと再び長い沈黙があった。私は赤いアイコンに触れる気はなかったし、もしかしたら彼女もそうだったのかもしれない。それは私が通話をかけて応答を待っていた時間より実際にはずっと長かったはずだが、今度は逆にとても短く感じられた。

 結局、通話を切ったのは彼女の方だった。テーブルの上にあるとんこつ塩ラーメンは、丼まですっかり冷め切っていた。

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