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 創作がスランプで、何も書けていない状況である。

 遠田さんにそう打ち明けられて、果たして彼に何と答えればいいのか、私はとても迷った。


 私は子供のころから読書が好きだし、世間一般の標準的な量と比べたらかなり多くの本を読んでいると思う。それも、実用書や啓発本、ドキュメンタリーにはあまり興味がなく、小説や物語が好きだ。他人の作り話を読んで何が楽しいのか、と思う人もいるらしいけれど、啓発本もドキュメンタリーも、歴史すらも誰かの作り話かもしれない。空想と現実の区別は必要だが、現実に重きを置きすぎてもいけないと思う。空想が現実の元となり、現実が空想の糧となる。その健全なサイクルこそが大切だと感じる。

 今までに読んできた物語の数は、紙の本とWeb小説を合わせれば三桁では収まらないと思われる。そんな私でも、自分で物語を作ったこと、作ろうと思ったことは一度もなかった。読書は好きでも読書感想文が苦手だったのは私だけではないはず。文章を書くという行為は私にとってそれほど難しいものだし、創作、つまり独自の世界観を作り上げてそれを文章で表現するなんて私には絶対に無理だ。作品の巧拙にかかわらず、オリジナルの創作活動を続けている人は本当にすごいと思っている。

 こんな私に、何か彼の力になれることがあるだろうか。自分なりに色々考えて、私はこのように返信した。


『私は小説を書いたことがないのであまりよくわからないのですが』

『プロの小説家でも調子の悪いときって結構あるみたいですし』

『小説に限らずそういう時期はあるんじゃないでしょうか』


 月並みな返答だとは自分でも思う。でも、私にはこれ以外の言葉が思いつかなかった。創作の苦しみは私にはわからない。スランプは誰にでもあるらしい、という程度の言葉しか、私には浮かばなかったのだ。

 遠田さんの返答はこうだった。


『ありがとうございます』

『こんなこと相談されても困りますよね。すみません』


 この短い言葉から、私は遠田さんのかすかな落胆を感じ取った。

 ありがとうございます、と言ってはいるけれど、きっと私の返事が物足りなかったのだ。スランプがあることなんて私に言われなくても誰でも知っている。創作に限らず、スポーツ選手でもスランプに陥ることはあるのだから。24時間たったら明日になりますよ、なんて言うのと同じぐらい意味のない言葉だ。

 これじゃダメだ。私はもう一度考えた。何か私でも力になれることはないか。創作に関するアドバイスは全くできない。他の作家の例を挙げることも、この場合は逆効果になるかもしれない。私がこれまで『小説を書こう!』などのWeb小説を読んできた中で最も恐れるのは、スランプになったまま作家が筆を折ってしまうこと。ただエタるだけではない。ある日、何の予告もなく突然作品の更新が止まり、それから新作の投稿どころか作者のページすら動かなくなってしまう。そんなケースを私は数えきれないほど目にしてきた。

 理由は必ずしもスランプとは限らない。体調を崩してしまったのかもしれないし、突然執筆できない環境になってしまったのかもしれない。でも、それはごく少数だと私は思う。おそらく、物理的にではなく、心理的に書けなくなってやめてしまう人がほとんどなのだ。

 遠田さんにはそうなってほしくない、と思った。もっと彼の作品を読みたいという気持ちももちろんあるけれど、彼との接点を失いたくないという気持ちもある。作者と読者という関係性がなくなったら、急に他人になってしまうのではないか。私が彼の作品の読者だからこそ、これだけこまめに返信をくれているのかもしれないのだ。

 遠田さんの作品を読みたいと思う気持ちと、彼と話したいという気持ち、どちらのほうが強いだろう。いや、どっちでもいい。遠田さんがこのまま筆を折ってしまわないよう、私にできることは、私が彼の作品を好きだとできるだけ素直に伝えることではないか。


 私はもっと丁寧に、自分なりに言葉を尽くして私が彼の作品を好きなことを伝えた。でも、それだけではまだ伝え足りない。指の勢いに任せて、私はこう入力してしまった。


『こうしてお話しているだけでも楽しいです』


 と。

 それが作者と読者の関係から少しだけはみ出した言葉であることに気づいたのは、その翌朝のことだった。



!i!i!i!i!i!i!i!i



 それから十日あまり。

 遠田さんとの関係に変化はなかったけれど、世の中は一気に騒がしくなった。新型コロナウイルスと呼ばれる感染症による死者が、ついに国内でも出てしまったからだ。昨年末あたりから大陸で多数の感染者、死者を出し、先月から日本でも感染者が確認されていたこの感染症について、マスコミやネット上では危惧する声はあったらしいけれど、どこか対岸の火事として眺めていた感覚は否めない。

 しかし実際に日本でも感染者が出始めると、報道も世論も一気に加熱した。感染者を乗せたクルーズ船についての対応や医療体制の不備について政府へ批判が集中し、不安が拡大している。

 不特定多数の人間と触れる機会が多い私たち接客業は特に危機感を抱いていた。新型コロナウイルスは感染力が強く、重症化すれば死に至ることもある。それでいて、感染しても症状が軽い、あるいはまったく無症状という場合もあるらしく、さらには感染してから症状が出るまで長い潜伏期間が存在する。つまり、全く自覚症状のない感染者が感染を拡大させる可能性があるということ。

 この新型コロナウイルスの性質は、私たちにとっては大きな脅威だ。自分が感染するかもしれないという不安はもちろんあるけれど、それ以上に、自分が媒介となって同僚やお客様に感染させてしまうのではないか、その恐怖のほうが大きい。いつ誰が感染するかわからない。自分のせいで爆発的な感染拡大、いわゆるパンデミックが起こってしまうかもしれないのだ。

 政府の発表によれば、今のところ感染経路は特定できており、市中での感染拡大の傾向は見られないらしいが、それも時間の問題ではないかと思う。首都圏のように人口が密集し、通勤のため毎日満員電車に揺られなければならない状況では、いずれ――。


 だから、新型コロナウイルスの感染状況とそれを取り巻く状況は、今の私たちの最大の関心事だった。すでにいくつかのイベントの中止が報じられているし、感染の拡大の度合いによっては私たちの仕事もどうなるかわからない。中国では、日本の首都圏に匹敵する人口を持つ大都市が完全に封鎖されたのだから。


 だがその日の夜、新型コロナウイルスの不安なんて一瞬で吹っ飛んでしまうようなメッセージが、遠田さんから届いたのだ。


 いつものように仕事を終えて電車に乗りスマートフォンを手に取った私は、遠田さんからのLINEの通知を確認し、胸の奥にじんわりと広がる暖かい感情を噛みしめながらトーク画面を開いて、そして思わず息を呑んだ。


『サカナさんの声を聞いてみたいです』

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