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帰宅して諸々の用を済ませ自室のパソコンの前で一息ついた私は、そこでまた頭を抱えることになった。
創作におけるスランプについてサカナに相談してみようと決めたはよいが、いったいどのように切り出せばいいのだろうか。相談なんてしたこともされたこともほとんどないし、相変わらずネット上の創作仲間もいない。同じ志を持つ創作仲間がいれば相談もしやすいのだろうが、私にはそんな都合のいい相手は存在しないのだ。私のように孤独に創作に取り組んでいるアマチュア作家は、いったいどうやってスランプを乗り越えているのだろう。
書き慣れているはずの小説すら一文字も書けない状態なのに、不慣れな相談の文面などすぐに浮かんでくるはずもない。仕事中もずっと考えていたが、話の糸口をどこに見出せばいいのか、さっぱり見当もつかなかった。私は自分が創作をしていることを誰にも話していない。うっかり誰かに口を滑らせてしまわないかビクビクしているぐらい。私が小説を書いていることを知っているのはサカナだけだ。
しかし彼女とも、最近はあまり創作の話をしていない。読んだ本の話ぐらいはするが、そこから話題が私の作品の話に及びそうになったらわざと話を逸らすようにしている。会話の流れから、自分がスランプであることを彼女に知られてしまうのが怖かったからだ。サカナが評価してくれているのは私の作品なのだ。もし私が深刻なスランプに陥っていて、もう一月も何も書けていないと知ったら、彼女は私を見限ってしまうかもしれない。
この世に小説は星の数ほど存在する。私程度の物書きだってごまんといる。良作をコンスタントに産み出せる作家はごく一部だが、それでも数にすれば数百、数千人はいるだろう。文章を書けなくなった私に拘る理由はどこにもない。サカナが私なぞよりもっと書ける作家に流れていったとして、誰が彼女を責められようか。書けないということは、恥ずかしいことである。
書けない物書きはただの屑だ。『小説を書こう!』には、音もなく筆を折った作家と更新されずエタった作品が無数に存在する。もう二度と書かれない小説は夢の残骸であり、打ち捨てられたアカウントは廃墟である。作品の削除を基本的に禁じている『小説を書こう!』の大半は、こうした非アクティブのアカウント、つまり廃墟の群れで構成されている巨大な遺跡群のようなものだと私は感じる。その中で賑わっているのはごく一部。観光地となった遺跡では必ずと言っていいほどいくつかの土産屋が軒を連ねているが、ランキング上位の人気作品はその土産屋に喩えられはしないだろうか。『小説を書こう!』のトップページに掲載されている70万を超える小説掲載数は、おそらく積み上げられた瓦礫の数にほぼ等しい。
では未だ遺跡にも土産屋にもなれない、私のような底辺作家の零細小説は何に喩えればよいのだろう。生れたときからこの瓦礫の山に加わることが運命づけられた忌み子か。
書けなければただの屑だ。書けても屑かもしれない。小説の価値はPVとポイントと感想の数で計られる。本は出版部数と賞で価値が決まる。私の作品にはそのどちらもない。傍から見れば私の創作活動なんて全く無意味で滑稽な行動に映るだろう。それはいい。他人にどう思われようと構わない。
しかしサカナには、私の作品を好きだと言ってくれる彼女にだけは、まだ見捨てられたくないと思う。
今は何も書けない。何を書いたらいいのかもわからない。だが、私にはまだ書きたいという意思が残されている。意思だけがある。それ以外何も持たず、わずかに差した一筋の光明に縋ろうとしている。銀色の蜘蛛の糸を掴んだ犍陀多のように。
会話をコントロールしながら洒落た表現ができるほど私は器用な人間ではない。この想いを素直に彼女に相談してみればよいのではないだろうか。包み隠さず、ありのままに。救いを求めることは惨めではないし、迷惑な行為でもない。現に私は先程佐々木の話を聞かされて迷惑だなんて微塵も思わなかったではないか。私の中で何かが吹っ切れた気がした。
私はスマートフォンを手に取りLINEを開いた。
ここ最近、仕事終わりのこの時間帯にLINEを送っても翌朝まで既読がつかないことがままある。彼女も仕事をしているのだから、夜はゆっくり休みたいだろう。私がじっくり腰を据えてメッセージを送れる時間帯は大抵深夜だから、主に日中勤務の彼女と生活のリズムにずれが生じるのは仕方のないことだ。
私はサカナとのトーク画面に一言だけ送ってみた。
『こんばんは。実は少し相談したいことがあるのですが』
あまり深刻な雰囲気が出ないように、それとなく、というつもりだったのだが、文章として閉じていないせいかどうにも煮え切らない感じになってしまった――と送信してから後悔した。これではどうも納得がいかない。一度削除してもう一度送り直そうとしたところで、『既読』の文字が表示される。彼女は今夜起きていたのだ。
返事はすぐに届いた。
『こんばんは。私で相談に乗れることなら何でも』
明日の朝になるかもしれないと思っていた返事が存外に早かったため、私は少々面食らってしまった。今の私の状況を彼女にどう説明すべきか、一晩ゆっくり考えようと思っていたのだ。しかし、彼女は私からの相談をたった今画面の向こうで待っているかもしれない。相談を持ち掛けておいて待たせるほど失礼なことはないだろう。
焦った私は、慌ててこんなメッセージを送った。
『サカナさんは私の小説が好きですか』
なんだこれは。まるでナルシストみたいじゃないか。私は生乾きの頭を搔きむしった。間髪入れずにLINEの通知音。
『もちろん大好きですよ』
聞かれたらそう答えるに決まっている。まるで無理矢理言わせたような感じがして、私は顔から火が出そうだった。だが、サカナが迷わずこう答えてくれたことで、少しだけ気が楽になったのも事実だ。好きだと言ってくれるから、私は彼女に相談したいと思った。洒落た表現は何も浮かばない。この期に及んでまだ纏わりつく逡巡を振り払い、私は率直に自分の悩みを彼女に伝えた。
『実は今ひどいスランプで』
『年が明けてからほとんど何も書けていないんです』
ついに言ってしまった。
彼女が私を好きだと言ってくれる唯一の分野である創作が、今完全に行き詰まっていることを。サカナは私を見限るだろうか。さっきシャワーを浴びたばかりなのに、腋の下に嫌な汗が滲んでいるような気がする。
既読はすぐについたが、返事が届くまでには少し時間がかかった。それはそうだろう。彼女は読者であって創作仲間ではない。自分に相談されても困ると思っているかもしれない。仮に私に創作仲間がいて同じ相談をされたとしても、どう返したものかと頭を悩ませるはずだ。
このまま二度と返事が来なかったらどうしよう、とまで考えたが、数分後に再び通知音が鳴った。
『私は小説を書いたことがないのであまりよくわからないのですが』
『プロの小説家でも調子の悪いときって結構あるみたいですし』
『小説に限らずそういう時期はあるんじゃないでしょうか』
サカナの返答はごく普通の励ましの言葉だった。私が彼女の立場だったとしても、せいぜい気休め程度の言葉しかかけられないはずである。月並みな言葉でも、励ましてもらえれば多少は気が楽になる。私は彼女に謝意を伝えた。
『ありがとうございます』
『こんなこと相談されても困りますよね。すみません』
私は再びパソコンに向き直った。
私には書くことしかできない。たとえスランプに陥ったとしても、私は書くことでしか呼吸ができないのだ。何も書けなくても、書こうとする意欲すらも失ってしまったら、私はその瞬間に死んでしまう。何も生み出せなければ死んだも同然だし、死んだように生きているなら死体も同然だ。
そう自分を鼓舞しても、何を書いたらいいのかもわからない状況は変わらなかった。
しかし数分後、またLINEの通知音が鳴る。
サカナからのメッセージはこうだった。
『何もないところから一つの物語を作るって、私には想像もできないほどすごいことだと思います』
『それこそ神様が何もないところに世界を作ったぐらいに』
『アーティストがたまにアイディアが降ってきたという言葉を使っていますけど』
『だから、神様からの贈り物を焦らずじっくり待つということも必要なんじゃないでしょうか』
『差し出がましかったらごめんなさい。でも私は遠田さんの作品をゆっくり待ちますし、こうしてお話しているだけでも楽しいです』
アイディアは降ってくるもの。頭では理解している。たしかにその通りなのだが、降ってくるまで何も書けないという状態が何よりも辛い。彼女の言葉で何かが解決したとは言い難い。だがそれ以上に、彼女の最後の一言が嬉しかった。
話しているだけでも楽しい。
こんな書けない物書きと。女性とろくに話をしたことがない私と。
その一言で、私の心は絶望の淵から掬い上げられたのだ。
そして私は強く思った。
文字だけではなく、声で話がしたい。彼女の声が聞きたいと。