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『こんにちは。今日新しいジャケットを買ったのですが、どうでしょうか』
その一言のメッセージの後に、一枚の画像が添付されている。それは黒いロングジャケットを羽織った若い男性が、スマートフォンのカメラを姿見に向けている画像だった。買った店でそのまま撮ったのだろうか、背景にはマネキンに着せられた紳士ものの服がセットアップで展示されている。
写真の男性は、髪型は清潔感のあるツーブロック。コートの下には白いセーターと黒のスキニーパンツ、ブラウンのショートブーツ。首には深い赤のマフラーを巻いている。
問題は、写真の男性がどう見ても二十代前半の、素朴な若い青年にしか見えないということ。顔立ちの系統は、強いて言えば塩顔だろうか。もちろん写真写りの関係で若く見えているだけの可能性もあるけれど、そうだとしてもまだ三十には届いていないと思う。モノトーンを基調としたシックなファッションで大人っぽく見えはするが、やや細面の顔立ちには、大学生の青年のような若々しさが感じられる。
私は遠田さんの作品の印象から彼を年上の男性だと思ったし、メッセージやLINEで個人的にやりとりをする中でそれは確信に変わっていた。遠田さんの書いた文章を読むかぎり、彼はとても落ち着いた雰囲気の人だと感じたからだ。
それがこんな、一回りも年下の男性だったとしたら。
右手で吊り革に掴まりトーク画面を見つめたまま硬直していた私は、自宅最寄り駅への到着を告げる車内アナウンスでようやく我に返り、急ぎ足で改札を出た。マンションへの帰り道を歩いているうちに、頭の中も少しだけ整理された。
たった一枚の画像でこんなに動揺するのはよくない。世の中には若く見える人なんてごまんといるし、私だってどちらかといえばそうだと思う。まずは遠田さんの年齢を確かめたいけれど、いくら相手が男性とはいえ、直接年齢を尋ねるのは失礼にあたるような気がする。
そのまま帰宅した私は、シャワーを浴びながら乏しい知恵を巡らせた。会話の中でそれとなく年齢を確かめる方法、ないわけでもない。シャワーを浴び終え、いくつかの会話の展開を想定し、濡れた髪にドライヤーを当てながらスマートフォンを手に取った。
『カッコいいですね』
『すごく落ち着いた感じに見えます』
とりあえずこんな感じでどうだろう。これは全くお世辞ではない、素直な感想。
返信はすぐに届いた。
『ありがとうございます。少し自分には大人すぎるかとも思ったのですが』
ああ、やっぱり、彼は見た目通りに若いらしい。二十代前半という私の推測はたぶん当たっているだろう。十歳近くも年下の男の子と、私は個人的なやりとりをしている。その事実は、夫がいる身であることと同じぐらい、いやそれ以上の罪悪感を私にもたらした。でも知らなかったのだ。遠田さんがこんなに若いなんて。
そして私はこうも考えた。もし私が三十二歳の人妻だとありのままに打ち明けたら、遠田さんはどうするだろう。生真面目な彼のことだから、きっともう私と連絡を取らなくなるのではないか。作者と読者としての関係は保たれるかもしれないけれど、私と個人的に関わろうとはしなくなるかもしれない。そうすべきだということは頭では理解している。本当はずっと前からわかっているのだ。でも――。
私はしんみりと静まり返った室内を見渡した。夫はまだ帰ってこない。残業か、取引先との飲み会かもしれない。でも、一人の方がむしろほっとする。一人は寂しいけれど、静寂に殴られることはないからだ。特に、夫が酔っていれば、何をされるかわからない。夫婦で暮らしているのに一人の方が安らぐなんて寂しすぎる。相談は誰にもできない。その心の隙間を、遠田さんとの素朴なLINEが埋めてくれている。
彼はもう私の生活の一部に溶け込みつつあり、今更連絡を断つのは身を切るように辛く寂しい決断になるだろう。私にそれができるだろうか。いや、無理だ。少なくとも今はまだ。自分がこんなに弱い人間だと、三十を過ぎてから思い知らされるなんて。
ただ、今後も遠田さんと連絡を取り続けるとして、考えなければならない問題がある。それは、私がどれだけ彼に自分の情報を伝えるか。
今まで私が遠田さん個人について知っていたのは、生まれも育ちも青森であること、飲食店勤務であること、それと”I kazuyuki”という名前だけだった。私が彼に伝えていたのは、東京生まれで都内在住であること、デパートで販売員をしていること、そしてLINEに登録している『さゆり』という本名だけ。会話の中でお互い同じぐらいに情報を明かしていた。バランスがとれていたのだ。
しかし、遠田さんは自分の写真を私に送ってきた。ということは、これまでのパターンから考えると、私も自分の写真を送らなければならなくなったのではないだろうか。直接求められたわけではないけれど、言外に私の写真を見たいというメッセージが込められているようにも思える。いや、絶対そうだ。私だって遠田さんがどんな雰囲気の人なのか興味はあったのだから。
自分自身の顔や姿はある意味で究極の個人情報とも言える。もちろんリスクはある。だがそのリスクを、相手は先に冒してくれたのだ。
安全上の問題は当然として、もう一つ、顔を晒すことで疎遠になるのではないかという不安もある。アイドルや俳優のように誰もが認める美男美女ならこんな悩みとは無縁なのかもしれないが、遠田さんはそういうタイプではない。ナルシストな印象も受けないし、自分から姿を晒すことにはそれなりの勇気が要ったと思われる。
たとえばこれをきっかけに私が疎遠になったりしたら、彼は深く傷ついてしまうかもしれない。そんなつもりは毛頭ないし、そう思われたくもない。外見で男性の価値を計るほど子供ではないつもりだ。顔を見せた途端音信不通になったら、私だってショックを受ける。
そう、私だって。
私はベッドの横にある化粧台に向かい、鏡に映った自分の顔をしげしげと眺めた。美和さんも幸絵ちゃんもいつも若いと言ってくれるし、職業柄美しくあろうと努力もしている。相応の知識もあるし、化粧品もなるべく自分に合ったものを使っている。それでも、肌のハリ、目元の細かい皺などはとても二十代前半のものではない。精神的な疲労のせいか、以前より少し窶れているようにも感じる。シャワーを浴び終えたばかりの今の私を遠田さんが見たら、普通のオバサンだと思われてしまうかもしれない。
でも、私はこれでも美容部員の端くれである。若く見えるメイクの技術も心得ている。普段はメイクもファッション年相応に見えるよう気をつけているが、若く見せようと思えばもっとできるはずなのだ。
それに、最近は自撮りのテクニックやカメラアプリもかなり発達してきている。自撮りというものを私は一度もしたことがないけれど、幸絵ちゃんはInstagramのアカウントを持っていて、いわゆるインスタ映えする場所や食事と共に自分を撮り、画像をアップロードしているらしい。実際私たちと食事に行った時も、幸絵ちゃんは料理の写真をスマートフォンのカメラに欠かさず収めている。
メイクの技術は十分にある。これとカメラの技術を組み合わせれば、遠田さんと同年代、つまり二十代前半に見える画像を撮影できるのではないか。考えれば考えるほど、これは遠田さんへの返信という意味以上に、自分のビューティアドバイザーとしての挑戦だと思えてくる。
調べることは多いし、他に用意しなければならないものもあるかもしれない。幸絵ちゃんにそれとなく聞いてみるのもいいだろう。なんだか俄然やる気が湧いてきた。鏡に映る私の顔にも、久しぶりに活気が戻ったような気がする。
よし、がんばるぞ。
鏡の中の私は、ガッツポーズを作って自分を奮い立たせていた。




