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 隣で寝息を立てる夫の背中を見つめながら、私は深い溜息をついた。


 夫に求められたのは実に二か月ぶりになる。新婚でもないし、もう決して若くもないし、ここ最近夜の生活はこれぐらいの頻度だ。同僚や友人たちの話を聞いても本当に人それぞれらしいが、客観的に見ても子供のいない夫婦にしては少ないペースだと思う。夫は残業が多く、夫婦でゆっくり話す時間もとれないのだから無理もないかもしれない。


 普段どんなに怒鳴られ殴られていても、その間だけは愛情を感じられる。まだ私は彼を愛している、私は愛されているという錯覚を得られる。昔と比べると行為の最中の私に対する扱いはぞんざいになったような気がするが、それでも肌が触れている間、深く繋がっている間、夫を誰よりも愛しく想ってしまうのは、女の悲しい性なのだろうか。

 しかし、行為を終えた後の夫の態度によって、そんな幻想は脆くも打ち砕かれる。私と一切口を聞かなくなるどころか、私の顔すら見ようともせず、こうしてこちらに背を向けて一人で眠ってしまう。男性は事後に淡泊になる傾向が強いことぐらい私も知っているが、交際中や新婚の頃は今よりずっと優しかった。それを思い出すと、セックスの充足感は一瞬で消え失せ、私の心はまるで夢から醒めた子供のように悲しみに覆いつくされる。

 ずっと新婚気分でいたいなんて言うつもりはない。でも、一生添い遂げたいと思ったから結婚したのだ。もっと、いつまでも愛されたいと願うことは贅沢だろうか?


 こうして夫の背中を見つめていても惨めになるだけだ。最近の彼は前戯もそこそこにコトを始め、自分が終わるともう用はないと言わんばかりに露骨に顔を背ける。女として、人間として扱われていない、飽きられたオモチャのような気持ちだ。そして私は消化不良のまま悶々と眠れぬ夜を過ごすことになる。何故セックスの度にこんな気分を味わわなければならないのだろう。


 私の両親は健在で、健康にも不安はなく、都内の実家で仲睦まじく暮らしている。十代で結婚し、私が結婚した年齢より若い時期に私を産んだ。私に兄弟はいない。両親の愛情を一身に受けて育ってきた。

 両親は結婚して三十年以上になるが、今でも新婚夫婦のように仲が良い。些細な喧嘩はあったらしいけれど、家庭崩壊の危機に繋がるほど深刻なものはなかったように思う。それとも私が知らないだけで倦怠期があったのだろうか。私にとって理想の夫婦像である私の両親にも。


 私は寝息を立てる夫に背を向け、スマートフォンを手に取った。

 小説、物語は私にとって眠れぬ夜の最良のお供だ。昔から、寝付けない夜には小さなライトをつけて本を読み、眠気が来るのを待っていた。本に熱中しすぎてそのまま朝を迎えてしまったことも少なくないけれど、振り返ればそれも楽しい思い出である。いつか自分に子供ができたら、夜寝る前には素敵な絵本を読み聞かせてあげたい――それが私の夢の一つだった。少なくとも数年前までは。

 本来なら紙の本を読みたいところだが、今は夫が隣で眠っている。ライトを点けてもし起こしてしまったら何を言われるかわからない。スマートフォンで読めるWeb小説は、こんな時にとても便利だ。

 だったら本も電子書籍で買えばいいのに、と思われるかもしれないが、私には電子書籍はどうも合わない。雑誌などはいくつか電子書籍で買っているものもあるけれど、小説を電子書籍で読む気にはなれないのだ。

 私にとって読書とは、ただ文字を目で追って内容を頭に入れるだけの作業ではない。読書は一つの総合体験である。美しい装丁、紙の手触り、ページをめくる音。その全てが大切な要素であり、私の人生においてかけがえのないものだ。電子書籍にはそれがない。作品そのものの価値は変わらないはずなのに――。


 スマートフォンを手に取った私の目に飛び込んできたのはLINEの通知だった。相手は"Kazuyuki I"、つまり遠田さんである。私は背後をちらりと振り返り、夫が眠っていることを確認してから、スマートフォンの画面を隠すように胸元に抱いて通知をタップした。

 彼からのLINEにはこう書いてあった。


『こちらこそありがとうございます。遠田永久です。』


 文末にはラーメンの絵文字が添えられていた。その文面を見て、私は何故か笑ってしまった。絵文字が使われているからだろうか、ごく普通の挨拶のはずなのに、サイトのメッセージより少しコミカルな印象を受ける。いや、コミカルに感じるのはきっと絵文字がラーメンだからだ。

 ラーメン……ラーメン? 遠田さんはラーメンが好きなのか、それとも今晩ラーメンを食べたのか、それとも特に深い意味はないのか? ちょっといろいろ気になる。


 ところで、私は次に何と返せばいいのだろう。

 ネットを通じて知り合った(まだ会ったわけではないからこの表現が適切かどうかもわからないが)誰かとLINEをするのはこれが初めてだし、そもそも私は既に仲良くなっている人か素性のわかっている知り合いとしかLINEを交換したことがない。サイトのメッセージでやりとりしているとはいえ直接話したわけではなく、お互いにまだ相手をよく知らない状態だ。これまで通り本の話ばかりというのもどうかと思うし、本の話だって話題はいつか尽きる。顔見知りならば会って話せばいいしと思えるのだが、ネットを介して知り合った場合の感覚がよくわからない。

 そもそも私はどちらかといえば友達を作るのが上手い方ではない。今の職場の同僚たちといい関係を築けているのは、彼女達の人柄のおかげだと私は考えている。学生の頃はごく限られた友人としか接していなかったし、むしろ一人で過ごす時間の方が多かったほど。コミニュケーション能力は女の中では低い方だという自覚がある。

 にもかかわらず。問題は、LINEで繋がろうと提案したのは私の方であること。言い出しっぺの私が挨拶だけして終わりではさすがに遠田さんも肩透かしをくらった感じを受けるだろう。とりあえず、ラーメンの絵文字についてちょっと訊いてみようか。


 いずれにせよ、もう時刻は午前三時近い。相手も寝ているだろうし、返信の内容は明日の朝までに、何か読みながら考えよう。私は『小説を書こう!』のマイページを開き、ブックマークした作品の中で新たに更新されたものがないかチェックし、未読のものを消化した。

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