05 最悪の連想ゲーム
昨日の少ない雲量からは考えられないほど、今日の空は薄暗い雨雲で覆われている。
バケツをひっくり返したかのような土砂降りの大雨が、教室の窓をしずくだらけにしている。
日光による熱が無いためか、寒い。「涼しい」ではなく、「寒い」。
雨によって空気は冷やされ、校内にいる人々の体を少しずつ、だが容赦なく冷やしていく。
淡い冷気が、9月という夏と秋の境目を感じさせる。
どちらかと言えば、イチは雨は嫌いである。
傘を持つから片手が不自由になるわ、水たまりで足場が悪くなるわ、水滴と薄暗さで視界が悪くなるわ、服や靴が濡れるわ。
公共料金の支払い・自炊用の食材買い出し・銀行での生活費引き落とし・その他もろもろの理由で、イチは一人暮らしを営む関係上なにかと出かける用事が多いのだ。
だから雨や雪といった、外出にデメリットが生じる天気は歓迎できない。
幸い、今は食材には余裕があり、公共料金の支払いの予定も今のところ入っていない。
なので今日は授業が終わったら、イチはこのまま家に帰ってゆっくり過ごすつもりだった。
だったのだが――
* * *
「イチ君、イチ君」
やっと授業が終わった早く教室を出て帰ろう、という所に、蜜柑色のポニーテールがイチの視界に割り込んでくる。
ポニーテールといえば弓田美優。
弓田に話しかけたと把握し、イチは応じる。
「なんだ」
「ん……ちょっと、耳かして」
弓田は小声になり、イチの耳元に顔を近づけてきた。
……いつになく真剣な雰囲気なのが気になる。
真面目な話なら、こちらも真面目な返事を返すのもやぶさかではない。
「イチ君って……綾香ちゃんの事が好きなの?」
「――――」
弓田のささやきの内容に、イチは失望した。
返事も返さず、席を立って帰ろうとする。
「待って待って! お願い、答えてよ!」
腕を引っ張って大きい声を出す弓田を見て、イチは嫌悪感に顔を歪める。
自分がなにをしでかしたかわかっていない彼女の態度に、苛立ちがつのる。
「弓田さん。オレは人をおちょくる冗談は嫌いだ。反吐が出る」
「ッ! ご、ごめん、そんなつもりじゃないの!」
「知るか。色恋沙汰で人を馬鹿にするのは楽しいよな。話題に挙げられた時点で不愉快だ。もう二度と……ッ」
もう二度と話しかけてくるな、と言いかけたところでイチは止まった。
言いすぎだと思い直したからだ。
失策だ。綾香との絆に土足で立ち入られたくないばかりに、イチは感情を抑え切れなかった。
弓田は顔を真っ青にして、涙目でイチを見ている。
「……ごめん、言い過ぎた」
「…………」
今さら謝罪しても――しないよりはマシだが――傷ついた弓田の心はすぐには治らない。
周囲の非難に満ちた視線を浴びて、イチは今さらながら弓田はこのクラスで結構な人気者だという事を思い出した。
かなり気まずい!
「黒木さんの事についてオレが言えることは、軽々しく踏み込むなってことだ。じゃあ……そういうことで」
一方的に弓田との会話を打ち切ると、イチは帰り支度を済ませたランドセルをしょって教室を出た。
* * *
小学1年時代、綾香とイチは相合い傘の絵を黒板に大きく描かれ、綾香はクラスメイト総出で手酷くからかわれる事態となってしまった。
その時の記憶もあり、イチは弓田に綾香との仲を聞かれた時、真っ先にからかわれている可能性を疑った。
異性関係の話題は、子供が他人をからかう常套手段――そんな先入観が、イチの中にあったのだ。
しかし今思うと、彼女の真剣な表情から察するに、弓田が悪意を持ってイチと綾香の仲を追求したとは考えづらい。
おそらく、何らかの重要な理由があったのだろう。
場合によっては、弓田に綾香との関係をかいつまんで説明してもいいかもしれない。
「だが……今は駄目だな」
弓田にきつい言い方をしたのは悪いと思っている。
だがイチは、今すぐ謝りに行ける気分ではなれなかった。
悪気は無かったにせよ、弓田がイチの触れられたくない部分を土足で荒らしたことに変わりは無いからだ。
イチは弓田と距離を置くことにした。少なくとも、今日一日の間。
「こういう時こそひとりで静かに過ごすに限る……」
孤独というホームグラウンドで過ごせば明日には落ち着きを取り戻し、心身共にベストコンディションを取り戻せるとイチは確信していた。
そのためにもまずは帰宅と、廊下を歩いていくその最中で。
「イチ先輩!」
背中に聞き慣れた声を感じ、イチは振り返る。
視線の先にいたのは清水岩男。見慣れた童顔の後輩が近づいてきていた。
「どうした清水」
できれば後にしたいが、清水はよく大事な用を持ってくるのでイチは邪険にできない。
「イチ先輩、水泳部の部室の鍵がどこにあるかわかりませんか?」
「部室の鍵? いつもの職員室にはないのか?」
イチの逆質問に、清水は顔を横に振って否定の意を示した。
「どうも昨日から紛失しているみたいなんです。学校中探しても鍵は今の所見つかっていなくて」
「それは確かにみょうちきりんだな……ん?」
ふと、イチは違和感を覚えた。
清水の言った「昨日」という単語が頭に引っかかって……あるビジョンが浮かぶ。
ポケットの中に鍵を入れたまま、夕陽をバックに帰路につくイチ自身の光景が。
「なぁ。鍵が昨日のいつごろから無くなったのか、わかるか?」
「イチ先輩が職員室で鍵を持ち出してから、だそうです」
「……やっぱりかぁ。オレが間違えて家に持って帰ったかもしれない」
「正直なところ、僕もそう思います……」
イチの気まずい推測に、清水は苦い顔をしながら同意した。
よくよく思い返してみても、昨日イチが忘れ物を部室で確認してから、職員室に鍵を戻しに行った記憶がない。
あの時イチは西村のグループが綾香をいじめる現場に遭遇していた。そこに意識を割かれるあまり、部室の鍵を返し忘れたのだろう。
「急いで家に帰って確認してみる。見つかったら今日中に職員室に返しに行くよ」
「わかりました、それじゃあ」
清水は生真面目な顔で了承すると、足早に去って行った。
雨という天気に加えてさっきの弓田の件も重なり、今日はできるだけ家で過ごしたかったが、仕方ない。
イチは最近目立つ自分の判断の甘さを気がかりに思いつつ、廊下を早歩きしはじめた。
* * *
結論から言うと、水泳部部室の鍵はイチの自宅で見つかった。
昨日、洗濯機の中に入れた服のポケットの中にあったのだ。失くし物あるある、である。
イチは自宅ですぐ見つけた部室の鍵をポケットの中に入れてから、ランドセルを玄関に置き去りにして傘を持ち、足早に今日二度目の登校を行った。
土砂降りの雨はまだ続いている。道中で強めの風に吹かれてイチは少し濡れてしまった。いまだ小降りにならないしつこい雨に、溜息するばかりだ。
学校昇降口に着いて、傘を傘立てに入れ、下駄箱から上履きを取り出して履き替えようとするところで、イチは妙な事に気づいた。
「……弓田さんの上履きが無い」
イチのクラスメートの上履きが全て下駄箱の中にある中、弓田の上履きだけが下駄箱の中に無いのだ。
つまりこれは、弓田がまだ上履きを学校内で使っている――すなわち、弓田がまだ校内にいることを意味する。それも、クラスメートが全員帰った中、一人で。
「意外だな。彼女は友達と一緒に雑談でもして帰るイメージなのに」
レアな光景を見たことに気まぐれを刺激され、イチは自分の6ーAクラスの下駄箱から、後ろの6ーCに目を移した。
6-Cは5つの下駄箱の上履きが空だった。
下駄箱にはそれぞれ出席番号が書かれたシールが貼られていて、使用者を区別する目印となっている。名前が書かれていないので、出席番号と名前が一致しないと誰がどの下駄箱を使うのか当てるのは難しい。(弓田は昨日の印象が強いのでイチにとって例外)
よってイチは6-Cクラスのうち、名前まではわからないが5人の生徒が学校に残っている事が推理できた。
「他のクラスはどうだろう?」
下駄箱から学校にいる人物を推理するのが楽しくなって、調子に乗ったイチはまだ6年で確認していないクラスの下駄箱に目を向けた。
だが、残りの6-Bと6-Dクラスの下駄箱は上履きが全員分揃っていた。この2つのクラスの生徒についてはいつも通り、全員が下校したのだろう。
「……興醒めだな」
水泳部部室の鍵を返すという当初の目的に意識を戻し、イチは階段に向かって歩き始めた。
* * *
4階まで階段を登り切って角を曲がったところで、イチは遠くに少女の姿を見た。
「む?」
黒い長髪の少女が、こちらに背を向けて歩いていた。
何者か確かめる間もなく、彼女は廊下最奥を曲がってイチの前から姿を消す。
「綾香……いや、違うか?」
黒いロングヘアーの少女、という特徴はたしかに黒木綾香にも当てはまる。
だが、遠くから見た上に後ろ姿では、別人の可能性を捨てきれない。
少し気になったが、追いかける理由も無いので、イチは先を急ぐことにする。
鍵を返しに行く職員室まで、もうすぐだ。
* * *
職員室に到着し扉を開けると、イチは2人の人にすれ違った。
一人目は知った顔だ。クマのついた眼が目立つ不眠症系男子、寺内洋介――イチと綾香に因縁のある西村たちのいじめグループの下っ端だ。
右手には、棒状の何かが握られている。校内設備の鍵に共通で取り付けられるキーホルダーだ。察するに寺内はどこかの教室に忘れ物でもしたのだろう。
まあ、ぶっちゃけ寺内に関してはどうでもいい。
注目すべきはもう一人の方だ。便宜上、この人物を『謎の少年』と呼称する。
謎の少年は14歳前後の体格をしていて、手持ちバッグをぶらさげている。
知り合いが小学校にしかいないイチは、彼とは当然ながら初対面。
ただイチは、謎の少年から目を離しづらかった。
彼の顔が特徴的すぎるからだ。
頭頂部で直角を描く跳ね毛。
もっちりと餅を思わせる頬袋。
なにより謎の少年は、あろうことか――
\ /
〇 〇
ロ
↑こんな顔をしていた。
「――――」
なにこれ。
としか、イチは思えなかった。
正しく表示されてない読者諸君にも解説すると。
目が 〇 になっていて。
口が ロ になっていて。
眉毛が \ と / になっていた。
この謎の少年はなんと、パソコンで入力できる記号だけで顔つきが表現できるのだ。
しかも謎の少年は見た感じ、これが普段通りの表情のようだ。変顔ではなく自然体でこのギャグマンガみたいな顔をしている。
そして、顔つき以外にイチがこの少年に注目する理由がもう一つ。
「――――」
この少年が、イチを見ているからだ。やたらと視線を向けてくる。
\ /
〇 〇
ロ
このなんとも言えない顔つきで。
じーっと、こっちを見てくるのだ。
職員室に入ってから、ドアから首を出して覗き見ると、謎の少年は歩きながらまだイチを見てくる。
彼が階段のある廊下の角を曲がったことでやっと見られなくなったと思いきや、頭だけニョッキと出してまたイチを見てくる。
はよ帰れ。こっち見んな。
* * *
さて、本題からそれるのはこの位にしておいて。
イチは水泳部の顧問に一声かけてから、職員室の鍵かけフックボードに水泳部部室の鍵を戻す。
これで用は済んだ――そう思って何気なくフックボードを見回した瞬間。
イチは気になることができた。
職員室全体に聞こえるよう、少し大きな声で聞いてみる。
「あの、すいません。さっき、寺内君が鍵を借りませんでしたか? 6年の寺内君が」
「寺内くんなら確かに鍵を借りたけど、どうかしたの?」
イチの問いかけに先生の一人が反応した。
「どの鍵を借りたか、わかりますか?」
言ってから、もう少し遠回しに聞くべきだったかとイチは心配したが、杞憂だった。先生が素直に答えてくれたからだ。
ただ――先生の返答は新しい疑問を生んだ。
「放送室だよ」
「あれ……放送室って放送委員以外で使えましたっけ?」
イチは新たにわき上がった疑問を、そのまま先生にぶつけた。
放送室は校内放送を行えるただ一つの場所である。学校中に音を届けられる放送設備と、部屋そのものが持つ高い防音性が特徴だ。
普段は生徒が運営する放送委員会が独占していて、他の生徒は基本的に放送室には入れない。
例外はイチの知る限り、学校内放送のゲストとして誰かが招かれる場合だけのはずだが……。
「まあ確かに放送委員にしか鍵は渡してないけど、そもそも寺内くんは放送委員よ?」
「あ、そうなんですか」
先生の返答に、イチは納得した。
放送委員である寺内が、放送室の鍵を持っていく。
なんの問題も無い。
6-Cクラスの空の下駄箱が5つ。今、6-Cの生徒が5人学校に残っている。
黒木綾香らしき女子が、廊下の角を曲がってイチの視界から消えた。
放送委員である寺内が、放送室の鍵を持っていった。
放送室は、放送設備と高い防音性が特徴。
いじめの主犯である西村グループのメンバーは、丸ノ内竜、日暮慎二、寺内洋介、西村唯の4人。
腐りきった嘲笑を浮かべる西村たち4人に囲まれた綾香が、黙っていじめを受けとめる昨日の光景。
4+1=5。
「――――ッッッ!!」
イチの脳裏に電流走る。
今までの情報が組み合わさり、最悪の連想ゲームを紡いだ。
アヤカガアブナイ。
綾香が、危ない。




