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03 名前






 夕焼けの茜色が雲の散る空を染め上げ、砂地の校庭を照らしてくる。


 下校中の生徒の足音や笑い声、カラスの鳴き声がいつもより耳に響く。


 肌に感じるゆるい風が心地いい。涼しさで、秋が近いことを実感させられる。


 景色と物音ばかりが目立つ。


 イチとV子は二人になってから、突っ立ったまま互いに一言も発しないまま時間だけが過ぎていた。






 気まずい。


 本来ならイチは部室の鍵を職員室に返しにいかなければならない。だが、暗い表情のV子を放置するのはためらわれる。


 かといって今のV子に何をしてやれるかというと、イチは何も思いつくことができないでいる。


「――――」


 もともとイチにとって、静かなことは安らぎを覚える状態だ。

 それをみずから崩す方法なんて、この場で急に思い浮かぶはずがない。


 孤独好きのイチの性分がマイナスに働いてしまっている。

 相手から振られる話を適当にあしらうことは出来ても、自分から話を振ることは全くできないのだ。


「――――」


 どうするべきかわからず、イチの視線が泳ぐ。

 泳いだ末に、イチの視線はV子の胸元にいく。

 触ったらやわらかそうな、女の子のふくらみ。


「っ……」


 思春期の前ぶれに自己嫌悪して胸から目をそらし、イチはV子の別の所を見ようとする。

 首元の白い肌、風に流れて揺らぐ黒の長髪、赤いワンピースの半袖からのびるしなやかな腕。


 見れば見るほど、ほんとうにV子は女の子として魅力的で――


「ん?」


 V子の肌の中に、線のような筋を見つけてイチは首をかしげた。




 太いものに、細いもの。

 擦ったような奇妙な紋様を描くもの。

 薄い赤に染まっているもの。

 体中の見える所すべてに線の筋がある。




「傷跡か……!」


 痕跡の正体をイチは一瞬で理解し、その答えの痛ましさに唇を噛んだ。


 転んだとか調理実習で指を切ったとかの傷ではない。事故の類にしては数が多すぎる。


 先ほどの現行犯まっしぐらの光景からして、これらの傷跡は西村たち4人のいじめでできたと考えるのが自然だろう。


 だが、いつから?


 今回のような目に遭うのが初めてじゃないなら、一体いつから彼女は西村グループからいじめを受けてきたのか?


「なあ」


 疑問に突き動かされ、イチはV子に話しかける。


「いつから、あんなことされるようになったんだ?」


 聞いてしまってから、イチは自分の失策に気づいた。


 まずは「大丈夫か?」とワンクッション置くべきだった。

 傷ついたV子にフォローを入れるのが第一だろうに。


「……あの4人が、帰ってきてから、すぐ」


 幸い、イチのぶしつけな問いかけにV子は素直に応じてくれた。

 たどたどしく話す言葉づかいがなんとも痛々しい。


「帰ってきてから、というと……1年のころの出席停止処分の後か?」


「うん。赤川君をいじめたことによる、西村さんたち4人の処分が終わってから、すぐ」


「なんだそりゃ、酷いな。まるで反省してないじゃないか」


 俯いたV子の口から語られる西村たちの所行に、イチは黒いものが内心で渦巻いた。


 どうして西村たちがここまで他人を傷つけることに固執できるのか、全く理解できなかった。したいとも思わないが。


「あいつらの親は一体なにやってんだ……。担任の先生には言ったのか?」


「3回、相談した。いじめで受けた傷も見せた」


「そうか」


 傷がいじめによるものと明言するV子に、イチは頷いて信用の意を示した。


 まだイチがいじめを受けていた頃、イチは独力でいじめを解決できない場合のプランBとして、担任の先生と相談する事を考えていた。結局採用はしなかったが。


「で、相談した結果どんな感じだった?」


「1回目は……調べてみるから2週間くらい待って欲しい、って。2回目で調べた結果を教えてもらう前に、傷を見せた。西村さんたちにやられた、もうやめさせてほしいって訴えた……けど」


 唇を真一文字に結んで間を取るV子の表情は暗い。


 嫌な予感を猛烈に感じ取るイチに、V子は言葉を続ける。




「調べてみたけどいじめはこの学校には存在しないって。西村さんたち本人にも確認したけど、彼らはやってないって言っていたって。むしろ、自分でつけた傷でいじめをでっちあげてるって西村さんの親が抗議してきたって」




「……なんだそれは。酷すぎる」


 担任の対応はいじめっ子側に一方的に味方する最悪なものだ。


 西村たちに――加害者側にいじめの存在を問いただした所で、本当の事を言うわけがない。


 しかもV子が担任に相談した(チクった)ことを西村グループにバラしたことで、V子へのいじめがひどくなるきっかけまで作っている。


 とどめにV子がいじめで受けた傷をでっちあげと切り捨て、被害者であるV子を嘘つき呼ばわりは残酷だ。冗談じゃない。


 ここにいないV子の担任教師に、イチは言い知れぬ怒りを覚えて拳を握る。


「そのあと、西村さんたちが『先生にチクった』って言ってきて、いじめが酷くなった。先生に見られない場所で、ポケットの中を無理やり出されたり……胸とかお腹とか肩とか、傷が目立たないような所を殴られたり蹴られたり……刺されたり……、水をかける代わりに、氷を背中に入れたり……ばれないように工夫してるってわかった」


 ポケット確認の件は、以前イチがボイスレコーダーを使ったことで西村たちが持ち物を警戒するようになったのだろう。同じ手は食わないという事だ。


 それより、イチは疑問があった。


 V子は担任に相談した回数を()()と言った。

 3回目についてまだV子は言及していないが、どうなったのだろうか?


「本当に、なにもかも嫌になって……3回目の相談をせん、せ……う…………」


「ッ!」


 真っ青になったV子の顔に気づき、イチは自分のうかつを呪った。


 なんて浅はかなんだ!


 辛いことを話して貰っているのに、彼女の心の負担を全く考慮に入れていない。

 話を聞きだすのに夢中になって、V子を思いやれていない。


 本来ならV子はこの話題を口に出すのも嫌なのだ。泣きだしたいのをこらえる彼女の悲痛な顔を見れば明らかだ。


 V子の拒絶に気づこうともせず、心に土足で踏み入り、傷口に塩を塗る。


 これではイチも、彼女を苦しめ続けた西村たちとなんら変わらない。


「ま、待った。無理はしなくていい、話さなくていい!」


 取り繕うようにイチは気遣ったが、V子は首を横に振った。話を続けるようだ。


「3回目の相談を先生としたときには……本当に、本当につらくて、死にたいって……私がなにをやっても無駄だって思った。先生に、もう学校に行きたくないって、お願いだから助けてって、それだけしか言えなかった」


 その頃にはV子は本当に追い詰められていたことが伺える。


 いつまでも続くいじめで心にダメージが溜まり続けたら、自分が彼女の立場でもこうなっていたかもしれない。

 V子の悲痛な目が、イチにそう思わせた。




「そしたら、先生は……いい加減にしろって怒鳴ってきて。いじめをネタに先生を脅すのはやめろって。はっきり言って学校側はもうお前を庇えないって」


「――――」


 イチの中で時が止まった。


 V子の話が予想外すぎて、思考が凍った。




 なにを言っている?


 生徒を守るべき教師が、生徒を見捨てる?


 そんなことがあり得るのか?




「赤川君のいじめの件が外部に漏れてから……この学校の評判は最悪だって。これ以上評判を落としたら、責任を取らされて先生が……クビになるかもしれないって。先生からして見たら……わ、私の方が、先生を脅しつけるいじめっ子だって…………」


 目に大粒の涙を浮かべながら、唇を噛み締める。

 間を取るというより苦痛に耐えるかのような逡巡(しゅんじゅん)の後、V子は、




「あの時の赤川君へのいじめを、SNSで世間に広めたのは、赤川君と仲が良くて正義感が強かった…………わ……私じゃ、ないかって…………!」


「な……ちょっと待て!!」




 思わずイチは仰天の声を上げた。


 5年前のSNS告発作戦がここで話題にあがるなんて意味不明すぎる。


 あの一件は、イチが自力で西村グループのいじめを撃退しただけだ。V子が無関係であることはイチが一番よく分かっている。


 なのになぜV子が先生から犯人呼ばわりされなきゃならないのか。完全にイチの理解できる範疇を超えていた。


「ないだろ、さすがに! お前は絶対に犯人じゃない、言いがかりもいいところだ!」


「でも、違うって何度言っても、だめだった……! あの時西村さんたちを恨んでいそうなのは……いじめで酷い目にあった、私と、赤川君。子供がこんなことを、大人の助けなしで思いつけるわけないから……()()()()()()()赤川君は違うって。私がやったってしか……考えられないって!」


「……え」


 驚愕の吐息がイチの口からこぼれ出た。


 SNS告発作戦の主犯がV子と断定された根拠を聞き、イチの中にひとつの仮説が浮かび、その仮説の救い難さに凍りついた。




 そもそもイチは母から、ひとりで生きていけるようにと極端な教育を受け、小学生になって本当に一人暮らしをしている身の上だ。

 だからこそイチは西村グループのいじめに対し、SNS告発作戦という奇策を単独で思いつけたのだ。


 一方、学校側はイチの家庭の異常な教育方針を知らない。

 だからいじめがあった事を世間に広めた人物がイチである可能性を思いつけず、消去法でV子が犯人だと決めつけた。


 当時7歳のイチがSNSへの大々的公表という子供離れした手段を取らなければ、先生がV子に疑惑の目を向ける事は無かったのだ。




 つまり、イチの行動はV子が先生に見捨てられる遠因となってしまった。


 V子が先生に見捨てられたのは――イチのせいだ。




「…………あ……」


 わずかに出たイチの声は意味を成さない。

 迷いでまともな単語を発言できない。

 名前を呼ぼうにも、イチは彼女の名前を覚えていない。


 なによりV子が苦しむ原因に自分も一枚噛んでるとわかった今、どの面下げて、何を言えばいいと言うのか。


「――ごめんね赤川君、つまらない話に付き合わせて」


 イチの躊躇を拒絶と判断したのか、V子は自分から話を切り上げる流れに乗せてきた。


「いや……こっちこそ、つらいことを無理矢理聞き出すようなことをして、ごめん」


 イチも流されるままに言葉を返すことしかできない。


 もっと他に言うべきことがあるはずなのに、それがなんなのか、正解が分からない。


 イチの葛藤を知るよしもないV子は、立ち上がり、とぼとぼと歩き出す。


「じゃあね」


 最後に別れの言葉を残して、V子は視線をイチから外した。


 歩くごとに、V子の儚げな後ろ姿が遠ざかる。


 視界に映るV子の姿が、小さくなっていく。


 そんな光景を見届けている、その最中、ふいに。




 イチの頭に電流じみた衝撃が走り、脳裏に言葉を浮かび上がらせた。






 イマ、イワナイト、モウ、ニドト、アエナイ。


 今言わないと――もう二度と会えない。






 これは、予感だ。


 なんの根拠もない予感。


 いや――イチは予感について、母から特に口ずっぱく教え込まれている。


『嫌な予感を無視するな』、と。






 勘というものは案外、馬鹿にならない。


 自分では気づいていなくても、脳が無意識に情報をキャッチし、危険信号を発信している場合があるからだ。


 気のせいだと流して、後で取り返しのつかない事態になりたくないなら――


 嫌な予感を無視するな!!






「待った!」


 考えが整理される前に、イチは叫んでいた。

 そのまま勢いに身を任せ、走ってV子を追いかける。


 小さくなっていたV子の後ろ姿が、遠近法に従って大きくなる。

 呼び止められ、振り返ったV子の前でイチは足を止める。


 真正面から見据えて、改めてわかる。V子は恐ろしく美しい少女だ。

 顔立ちは整っていて、悲しみに暮れる表情すらこちらの心を揺さぶる。

 潤んだ瞳の色は黒。夕陽を反射する輝きは宝石にも勝る。


 否応なしにイチはドギマギさせられるも、強引に己を鼓舞して、ついに口を開き――






「お前の名前を教えてくれ!!」






 ――何を言っているんだオレは!?


 考えを整理しないまま発言したため、思考が言動と一致しない。


「お前は、オレにとって大事な人だ。1年の時にオレをいじめから庇ってくれたこと、一生忘れない」


 イチの口は止まらない。迷走したまま止められない。

 頭の中のハリケーンを抑えられない。


「だけど、お前はオレの『赤川』って名前を呼べてるけど、オレはお前の名前を呼べてない。情けないことに、オレはお前の名前を覚えてないんだ」


 見開かれるV子の綺麗な瞳に、焦って暴走するイチの姿が映る。

 不様をさらしたくないのに、イチは自分の言葉をコントロールできない。




「ごめん……」


 とうとうイチは謝ってしまう。


 頭を下げて、V子の顔から目を逸らし、雰囲気をごまかすために。


「――――」


 もう駄目だ。終わった。


 孤独好きゆえに、日頃から自分の都合しか考えてなかったからだ。

 だから今の場面でも、いざ自分から話をすることになって頭が口についていかなかった。

 人と接することから散々逃げ続けたツケが回ってきたのだ。


「――――」


 心臓の鼓動をいつもより強く感じる。

 心なしか呼吸までも苦しく思えてくる。


「――――」


 かつて、V子はイチを庇ったせいでいじめの標的になった。

 今のV子が先生から敵視されているのは、イチがいじめへの反撃にSNS拡散という手段を取ったせいだ。


 今までイチが取った行動は、V子を助けるどころか傷つけることばかりだ。

 彼女に嫌悪されるのは当たり前だというのに――






「あやか……黒木綾香(くろきあやか)






「……ん?」


 一瞬イチは、聞こえた声が気のせいかと疑った。


 だがすぐにその疑いを撤回し、顔を上げる。


 V子は――いや、黒木綾香(くろきあやか)は、笑っていた。


 満面の笑顔、というよりは、「しょうがないなあ」と言うような苦笑いだが。

 それでも、笑っていた。

 口元を緩ませ、目を細めて、リラックスした様子で、確かに笑っていた。


 ……笑って、くれた。


「綾香……黒木綾香(くろきあやか)……黒木綾香(くろきあやか)……黒木綾香(くろきあやか)……あやか……あやか……」


 黒木綾香(くろきあやか)。くろきあやか。


 脳裏に刻むように、イチは名前を連呼する。

 絶対に忘れてはならない、値千金の6文字だ。


 今の苦笑いの分、わずかでも、綾香の心を楽にすることができた――と、考えてもいいのだろうか。もしそうなら嬉しいが。


 ……ふと、イチは綾香を見て気づいた。

 彼女の頬が心なしか赤い。


「……綾香」


 さらに赤くなった。


「……綾香……綾香……」


 さらにさらに赤くなった。


「……黒木(くろき)さん」


 涙目になった。


「ごめん。無神経だった」


「……いいよ。赤川君なら、いい」


「そ、そうか」


 ストレートに綾香から好意をぶつけられて、イチは思わず怯む。

 だが決して不快な重圧ではなく、むしろ心地良い。


「あらためて自己紹介する。オレの名前は赤川桂一(あかがわけいいち)……あかがわ、けいいち、だ」


 礼儀として、イチは綾香に名乗りを返した。

 相手が名乗ったらこちらも名乗りを返さないと失礼にあたる。


 自己紹介前から綾香はイチを『赤川君』と名字で呼んでいたので、おそらく彼女はイチの名前を知っているのだろう。とはいえ、礼儀は必要だ。


「あかがわ……けいいち、君」


「イチ、ってあだ名はあるけど、今まで通り赤川君と呼んでくれてもいい」


桂一(けいいち)君」


「ッ!」


桂一(けいいち)君」


「――――」


「……やっぱり、赤川君にする。恥ずかしいから」


 赤面して視線を下げる綾香を、イチはまともに見れなかった。


「――――」


 恥ずかしいのはこっちも同じだ!


 ヤバかった。

 何がヤバいのかイチは上手く言語化できないが、とにかくヤバかった。

 いろんな意味でヤバかった。


 とにかく、落ち着け。

 単に名前で呼ばれただけじゃないか。

 いつまでもパニックでいるな、落ち着くんだ。

 素数を数えて落ち着くんだ。


「赤川君」


「ああ、うん、確かにオレは赤川だ、うん、なんだ綾香」


 パニックと悪戦苦闘しながらも、綾香の呼びかけに応じる。


 そんなイチを見て、頬にわずかな赤面を残しながら綾香は――


「私ね、一週間後に転校するんだ」


 寂しげな笑顔と共に、突然の別れの予言を告げた。


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