02 孤独好き
時が過ぎ、小学6年生になって、イチのコミュニケーション能力は少し進歩した。
クラスメイトの話題にそれなりについていけるようになり、不用意に敵を作らない程度には他人に気づかいができるようになった。
水泳部の部活に入ったことで、部員の生徒と話す機会もできた。イチは教えられた事の呑み込みは早い方なので、成長過程が部員仲間に面白く映ったのかもしれない。
成績がそこそこ良いこともあり、勉強の相談に乗ることもあった。相談相手の一人いわく、イチはそっけない口調に目をつぶれば頼りになるそうだ。
ちなみに、イチは勉強において自分が天才だと感じたことは特に無い。
毎日、真面目に授業を受けてるだけだ。
まさに今の、クラスの一部生徒と違って。
「……クスクス……ふふふ……」
「……ヒソヒソ……ククッ……」
「……ぐぅ……すぅ……」
授業中にも関わらず、ノートの切れ端で文通したり、ひそひそ話したり、居眠りする生徒がちらほら。
これがいつも通りの教室なのだから、生徒に知識を伝えようと懸命にがんばる先生が気の毒だ。心中お察しする。
わずかな例外をのぞき、中学には入試が無い。
よって受験勉強を無理に考えなくていい。
だからまじめに授業を受ける必要も無い。
そんな理論武装で、今日も今日とて問題児たちはのんきに過ごすのだ。
孤独好きなイチとしては文通もひそひそ話も苦手だが、居眠りされる分には構わないと思っている。
自分を巻き込まないなら、止める理由は無い。
「さて、空欄4だ。
1998年7月13日に発生した、赤い雷を特徴とする世界規模の大災害の名称は?
――湯島くん」
「はい。『赤い雷事件』です」
湯島という男子生徒の回答を聞き、左隣の女子がノートに×をつける。
「うん、正解。ちなみに正式名称の『世界同時多発雷害』でも正解だ。教科書の写真にあるように――」
女子が×マークに訂正の取り消し線を入れ、○を付けた。
イチと左隣の女子は、問題集の答え合わせのために今だけ互いのノートを交換している間柄だ。
それ以上でもそれ以下でもない。少なくとも、イチはそう認識している。
「次は空欄5。
『赤い雷事件』を発端として日ノ本各地では治安が急激に悪化し、犯罪や紛争が多発するようになる。
すると市民の中から、自警団を設立してこうした犯罪に対抗する動きが出始めたわけだが……。
この流れを歓迎した政府が2000年8月15日に設立した、自警団を政府公認化する内容を含む法案の名前を何というか?
――イチくん」
先生に名指しされたイチは席を立った。
この法律の名前は覚えている。
「はい。『自警基礎法』です」
「正解。ちょうど今から20年前の8月だね。『赤い雷事件』と『自警基礎法』は、中学生以降の社会科目でよく出てくるから覚えていて損はないよ。じゃあ次は――」
* * *
授業が終わった後の10分休み。
イチがさっさと次の授業の用意をした後、机につっぷして寝ていた時の事だ。
招かれざる客が来た。
「イチ君、イチ君。ねぇ、イチ君」
無視して寝ていたい。
そんな無礼な本音は匂わせずに、イチは顔を傾けて誰が話しかけてきたか確かめる。
先の授業でノートを交換していた左隣の女子だった。
「なんだ」
「はいこれ。赤ペン貸してくれてありがとう、助かったよ」
「ああ、それか」
イチは左隣の少女から、貸していた赤ペンを受けとる。
これで用は済んだと判断し、再びイチは机で眠りに――
「ねぇ、イチ君。水泳部の大会、見たよ。すごかった!」
眠りにつく選択肢を、少女はフレンドリーな声色で潰した。
「……すごいって、なにがだ?」
どうして自分に話しかけるのかいまいち理解に苦しむが、とりあえずイチとしては、話しかけられた以上は少女に応じるしかない。
「ほら、イチ君は市内5位になったでしょ。水泳部に入った初めのころは泳げなかったって聞いたよ? すごい成長だよ」
「……先輩や先生が教え上手だったおかげだよ」
「それでもすごいよ!」
「――――」
内心でイチは嬉しくなるも、けして表情には出さない。
他人の評価を気にするなど自分らしくないと自戒する。
余談だが、水泳部にイチが入った動機は完全に興味本意だ。母に泳ぎは教わっていなかったので、興味があったのだ。
「……そういえば、なんでお前はオレをイチ君なんて呼ぶんだ? 確か最初に呼び始めたのお前だったな」
イチは少女から目をそらしつつ、話題を変えて会話の主導権を奪おうと試みる。
「お前はやめて。弓田さん。もしくは美優ちゃん」
「むぅ? 別にお前って呼んでもそんなに――」
「弓田さん! もしくは美優ちゃん! ちゃんと呼んで!」
「むぁっ!?」
イチは驚いた。
少女がとんでもない行動に出たからだ。
目をそらすなとばかりにイチの顔をがっしり掴み、拳一つの距離まで顔を近づけてきたのだ!
なし崩し的に少女が名乗った名前は、名字と名前、あわせて弓田美優。
かわいい女の子と呼んで差し支えない美少女である。
身長はイチより頭一つほど低い。ポニーテールにまとめられた髪の色は蜜柑。間近で見る栗色の瞳は「名前で呼ばせてやる!」と意地に輝く。整った顔立ちはぷんぷんと怒る表情すら愛らしい。
「か、簡単に男子に名前で呼ばせていいのか?」
弓田のかわいさ、というより顔を掴む奇行のほうに動揺してイチの言葉が揺れる。
「いいの! 仲良しって感じがするもん。『お前』って呼ばれるよりずっといい!」
「そ、そうか……というか、顔、離してくれ」
「んっ」
弓田はイチの顔から手を離した。近づけていた弓田自身の顔も離していく。
落ち着いた所で、イチは弓田の要望を反芻する。
名前で呼んで欲しいんだったか。
「じゃぁ……弓田さん。さっきの話に戻るが、オレをイチ君なんてみょうちきりんなあだ名で呼ぶ理由はなんだ?」
「美優ちゃんって呼んでも……ごめん、調子に乗りすぎた」
イチが嫌がる視線を向けたことで、弓田はようやく自重した。
「イチ君のあだ名の由来はね。同じ学年で『一』の漢字を名前に使っている男の子がイチ君だけだから」
弓田はノートと鉛筆を出すと、イチの前で複数の名前を書いて見せた。
「ほら、一郎とか、新一とか、太一とか、純一とか、めずらしいところでは一二三とか。男の子で一の漢字を使う名前って結構多いじゃん。けどね、キミだけなんだよ。同じ学年だと、キミだけしか名前に『一』がないの!」
「むぅ……そうか」
わくわくしながら目を輝かせる弓田に対し、イチは仏頂面を崩さない。
自分から理由を聞いといてあれだが、特になんの感慨も湧かなかった。
「すごいと思わない? こんな偶然、めったにないよ」
「そうだな」
「んもー! 興味無さそうに返事しないでよう」
「……まあ確かに、珍しいと言えるな」
「でしょでしょ?」
同意をイチから引き出せたのが嬉しいのか、顔を明るくして身体を詰めてくる弓田。
お世辞ひとつに喜ぶのは勝手だが、あまり距離を詰めないでほしい。
――キーンコーンカーンコーン。
このタイミングに次の授業のチャイムが鳴ったのはイチにとって幸いだった。
これ以上、煩わしさを感じずに済む。
弓田を含め全員が自分の席につき、イチは再び一人になる。
教師の到着と共に、イチは意識を勉学に集中する――
* * *
小学6年生になって、イチのコミュニケーション能力は確かに進歩した。
だが、人とのつながりを嫌い孤独を好むイチの性根までも変わったわけじゃない。
イチの中で過去のいじめの苦い思い出は、今でも心の奥でくすぶり続けているのだ。
今のイチの対人関係における方針は次の3つ。
1つめ。
大前提として会話する時は基本、相手の方から話しかけてくる場合だけ。
2つめ。
明らかに害意や悪意のある相手とは、関わり合いを避ける。
会話に持ち込ませない。
話しかけられても無視する。
返事をしない。
目を合わせることもしない。
通り道を塞いだら避けるし、あまりしつこいようなら押しのける。
とにかく徹底的に拒絶する。
3つめ。
相手が善意で話をしてきたり、他意のない雑談をしてきたり、相談したいことがあったりする場合なら、これに返事をしないのは孤独好きを通り越して失礼だと思うので、出来うる限りの返答を返す。
相手が真面目に返答を求める話題には、こちらも真面目に返す。
以上、これら3つがイチの対人関係の方針だ。
人間関係への関心が冷え切っているのとは対照的に、イチの孤独に対する価値観はどんどん好ましいものに変化していった。
独りでいることは、すなわち誰の干渉も受けない事。
煩わしい人間関係に悩まされずに済む、静かで落ち着く、もっとも安らげる状態だ。
「オレは独りでいい、孤独で一向に構わない」というイチの持論も変わった。
「独りでいい」は「独りがいい」に変わった。
「孤独で一向に構わない」は「孤独が一番いい」に変わった。
さっさと会話が終わってほしい。
必要以上に自分に構わないでほしい。
イチは、独りが良い。独りが、イチの理想なのだ。
* * *
放課後。
授業が終わってやっと帰宅という間の悪いタイミングで、イチの背中に声をかける者がいた。
「あの、イチ先輩。ちょっといいでしょうか?」
振り返る視線の先にいたのは、四角メガネに童顔の男子だ。
清水岩男。水泳部後輩の5年生。
顔と名前が一致する、数少ないイチの知人だ。
「なんだ、清水?」
「イチ先輩、最近わすれ物しませんでしたか? 家の鍵らしきものが、部室のロッカーで見つかったみたいなんですが」
「鍵? いつ見つかった?」
「8月の下旬ごろに、置きっぱなしになっているのが見つかったそうです」
「むぅ……」
清水の語った8月下旬という時期に、イチは心当たりがあった。
鍵のわすれ物は自分かもしれない――そんな漠然とした予感が湧いたのだ。
イチはいつもポケットに鍵一つ、ランドセルの中に予備の鍵一つ、計二つの家の鍵を持ち歩いていた。
だがある日、ポケットの方の鍵がいつの間にかなくなったのだ。
鍵をなくした時期と、清水の言う発見時期はおおよそ一致している。
「今、鍵はどこにあるんだ?」
「部室の忘れ物入れのカゴに入ってます。あす顧問の先生に届ける予定ですが、イチ先輩の忘れ物なら手続きとかの手間が省けますよ。今行けば」
「ありがとう」
清水に軽く礼をして、イチは早歩きでこの場を去って行く。
「よし、行くか」
目指すは部室棟だ。
* * *
結論から言って、忘れ物はイチの失くした鍵ではなかった。
一目でわかった。イチの家の鍵とは形がちがう。
「無駄足だったな……」
せっかく失くした鍵が見つかったと思ったのに、あてが外れてイチは残念。
汗と塩素の匂いがする部室に鍵を掛け、職員室に部室の鍵を返しに行くべくイチは歩き出し。
そして、ある光景を目の当たりにした。
夕焼けに照らされる中、ひとりの少女が4人の生徒に囲まれ、壁際に追い詰められていたのだ。
「……あいつら」
囲んでいる方は男子3人と女子1人。
イチにとって、因縁の4人がそこにいた。
丸ノ内竜。肥満体で無駄にうすらでかい体の肉男。
日暮慎二。くせっ毛の髪と鼻元のそばかすが目立つ芋男。
寺内洋介。不眠症のようなクマのついた目の地味男。
そしてなによりこいつ――西村唯。
紅一点にしてリーダー。短髪に白いカチューシャがついた性悪女。
西村、丸ノ内、日暮、寺内。
かつてイチをいじめていた西村グループ、4人全員が揃い踏みだ。
さすがに小1の頃より体は成長しているが、面影は大きく変わっていない。
クラス替えで4人と別のクラスになってからは、部活が別々な事もあって、顔をあわせる機会はほとんど無かったのだが。
それにしても、ひさしぶりに見たと思えば、性懲りも無くいじめを続けているとは。
イチがいじめへの反撃として西村たちに仕組んだ『犯罪者予備軍』のレッテルから、あの4人は何も学ばなかったらしい。
あるいは、小1から小6まで時間が経ってしまえば、時効だとでも思っているのか。
「……クソッタレめ」
いい加減イチは西村たち4人を見るのが嫌になり、彼らに囲まれている人物の方に視点を移した。
いじめられている被害者は一体どんな――
――
――
――
「なんだあいつは」
その少女は、イチが知るどの人物ともかけ離れた美貌を持っていた。
身長はイチより頭半分ほど低いか。艶のある長い髪は黒く、陰のある面差しを彩る肌は白い。赤い半そでワンピースに覆われた肉体は、女の子らしい柔らかな曲線を早熟に描きはじめている。
そして、その美貌以上にイチを一番驚かせたのは。
孤独好きで誰に対しても距離を置いて、めったに人の顔と名前を一致させないイチが。
間違いなく彼女を既に知っているという事実だ!
彼女には――V字の前髪があった。
小学1年時代、イチをいじめの主犯4人から庇ったばかりに、見せしめとして辱められた女の子。
V子は見違えるほど愛らしくなって、再びイチの前に姿を現した。
* * *
ここまで衝撃を受けておきながら、どうしてV子の名前が思い出せない?
イチは軽いパニックに陥るが、ひとまずその疑問は後回し。それどころじゃない。
ニヤつくいじめグループ4人に囲まれたV子は、明らかに怯えている。
かつてイチを庇った時に見せた勇ましさは、どこにも見当たらない。
なのに泣き出しそうなV子の瞳は、残酷なまでに彼女の相貌の可憐さを引き立てていた。
「や……やめて……」
「……ったく、あんたのせいで台無しだよ。あんな異常な量、全部は無理だと思って、こっちはいろいろ道具を用意して楽しみにしてたのに」
西村は苛立った様子でV子を睨んでいる。
話の内容からして、西村はV子に厄介事を押し付けてたようだ。
おおかたV子に宿題やら掃除やらを押しつけて、全部片づけられなかったら、罰とでも称していじめるつもりだったのだろう。
だが西村の期待に反して、V子は厄介事をすべて片付けた。そのせいで西村はV子をいじめる口実を失った。だから怒ってる。
理論武装にすらなっていない。バカげてる。
そもそもいじめを正当化する理屈なんて、無いほうが当たり前なのに。
「ホンット……生意気なんだよ。バーカ」
西村は右腕を水平に広げ、掌を開いた。平手打ちする気だ!
「まぁでも、約束は約束だからね。いつもよりちょーっとは手加減して――いたぶってあげる!」
腕を振りかぶる西村に、衝撃に備えて目をつぶるV子。
その光景の痛ましさに、イチは血が沸騰するような怒りを覚える。
「ふざけるな……そこまでされなきゃならない事、あいつがしたか!?」
だが、同時のイチの人間関係における鉄則も、脳裏に浮かびあがった。
その2――明らかに害意や悪意のある相手とは、関わり合いを避ける。
「――――っ!」
イチは、動けなかった。
イチの感情は動けと叫んでいた。かつて自分を庇ってくれたV子に対するこの仕打ちを、絶対に許すなと怒り狂い叫んでいた。
イチの理性は動くなと叫んでいた。あんな不快な奴らと同じ土俵に立っても百害あって一利なし、絶対に関わるなと冷酷に叫んでいた。
相反する心の2つの叫びがイチに迷いをもたらし――理性の方が優先され、イチの動きが硬直する。
動けない――動けない!
なんで――
――バチン!
「いたっ……!」
V子は、ひっぱたかれた。
イチがもたついてる間に、西村の右手がV子の左頬をとらえたのだ。
痛い。
「……痛い?」
痛がっているのは、誰だ?
今の痛みは誰のものだ?
V子だ。V子のものだ。
当たり前だ。ひっぱたかれたのは彼女だ。
疑問に思うまでも無い。
「だとしたら――この気持ちはなんだ」
この不快な、あまりにも不快な、
なにもかも壊したくなるような、
殺したくなるような、
消し飛ばしたくなるような、
どす黒い感情はなんなんだ!!
「西村さん、まずいッス。見られてるッスよ!」
気づかれた! 寺内がイチを指差して声を上げる。
そしてイチは直感。この感情は、表に出していい類のものではない!
イチは急いで感情を静め、同時にポケットのスマホを取り出した。
「なぁによ寺内、いいところなのに」
西村が寺内に振り返った時、イチが表情を元に戻せたかは定かではない。
「撮影されてるッス。それにあいつ、例のレッテルの!」
「げっ!」
イチの狙い通りに、寺内はイチがスマホを持つ意図を勘違いした。
西村はバツの悪そうな顔で走り去って逃げて行く。
「西村さん、カチューシャ落としたッスよ! てか、待ってくださ~い!」
寺内が西村のカチューシャを拾って追いかける。
日暮と丸ノ内も彼らを追う。
そしてこの場には――イチと、叩かれて左頬が赤く腫れたV子だけが残った。




