12 弓田美優の初恋
最初に弓田美優が抱いたイチ君への印象は、「ロマンチックな人」だ。
1月下旬の頃。
別のクラスで悪質ないじめを続けていた4人の生徒が出席停止処分になった。
SNS上にいじめを告発する動画が出てきたことが大きな一因となったらしいが……。
当時、その告発動画を挙げた人物がいったい誰なのか、生徒の間でちょっとした予想合戦が流行っていた。
さあ、誰の仕業だ。
先生の誰かか?
生徒の誰かか?
それとも勝手に学校に入った不法侵入者?
友達から友達へと、噂は伝言ゲームの様相を見せて、正体の候補は色んな説が出た。
そんな中、いじめられていた本人が、つまりイチがいじめの告発者の正体ではないかと話題に出るのはある種、必然だった。
加えて、こんな噂もあった。
イチをいじめから庇った黒木綾香という女子生徒が、いじめっ子4人に仕返しを受けた相合い傘の絵の事件。
この後日談が、ちょっとした創作を加えて噂に流れたのだ。
『あの後、彼女の涙に心を動かされたイチが、いじめっ子4人に正義の鉄槌を下すため、SNSでいじめを告発した!』
この話は真偽はともかく、噂のタネとしては十分な面白さがあった。
実際、弓田は物語のイチに惹かれた。
一人の女の子のために心を燃やして行動する、英雄譚のヒーローのような人物を想像した。
* * *
ある平日ことだ。
弓田を含むクラスの友達6人が机を合わせ、美味しいカレーと楽しいおしゃべりに興じる給食の時間。
ここで、SNS告発者の正体を予想する話題が出た。
当時いじめが起きた1-Cクラスの担任である狩村先生が動いた、という説に3票。
いじめを止めようとして卑劣な報復を受けた綾香が親に泣きついた、という意見に1票。
道楽目的の不法侵入者がバイトテロならぬ学校テロを仕掛けた、という意見が1票。
男子3人・女子2人、計5人分の予想が出そろう。
そして最後に弓田が言う番になる。
「はいはーい! あたしは『義賊』の正体として、1年C組の赤川君に一票入れまーす!」
弓田は堂々と挙手して宣言した。
義賊、というのは生徒間で流行っていたSNS告発者の通称だ。
「来たね美優っち! 理由は?」
――ビシッ!
「ズバリ、その方がロマンチックだからであります!」
――ビシッ!
「「イエーイ!」」
――パチン!
互いにビシッとポーズを決め、最後にハイタッチ。
示し合わせたように(実際、示し合わせた)弓田と動いてくれたのは、彼女の一番の友達の藤原八千代だ。通称やっちゃん。
「二人とも相変わらずのソウルメイトぶりだな」
「ありがと、リュウちゃん!」
「リュウちん、サンキュー!」
弓田の向かいの席の男子生徒・リュウに続く形で、他の班メンバーの会話が弾んでいく。
「美優ちゃん、好きだもんねー。赤川君と綾香ちゃんの悲劇のラブストーリー」
「昼ドラってやつか?」
「それはちょっと意味が違うと思うけど」
「まあシリアスな話にしても、赤川桂一……で、合ってたっけ、本名」
「合ってるよ」
「サンキュ。あいつが『義賊』って線は案外あり得ると俺は思うぞ」
今のリュウの、「イチ=『義賊』説」への賛成意見は弓田にとって意外だ。
実際に彼が一票を入れたのは、一番の多数派である狩村先生だからだ。
「実は俺、赤川桂一と狩村先生のチョイスで少し迷ったんだ。SNSにあった映像や、西村唯の音声。これらは学校に行ってる人間にしかゲットできないシロモノだ。さらに黒木綾香のために動きそうな人という条件も考えると……」
指を折って数えながら、リュウは言葉を紡ぐ。
「1番マッチしそうなのがクラス担任の狩村先生だと思って、俺は先生を選んだ。赤川桂一はナンバー2って所だ」
筋の通ったのロジックショーに、おぉ~と、感嘆の声が起こる。
「リュウちん名探偵みたい!」
「サンキューサンキュー」
「まぁでも、赤川が『義賊』なんて流石に無いだろ。地味すぎるし。噂を聞くまで名前も知らなかった、って人がほとんどじゃねーの?」
「そーだな、俺も赤川のこと噂で初めて知った」
「美優ちゃんには悪いけど、大人の先生に比べちゃうと赤川君が『義賊』ってのはちょっとねぇ」
途中から話の流れがイチへのマイナスイメージに切り替わっていって、弓田は胸やけするような心苦しさを覚えた。
残念だが反論できない。
当時、弓田も噂でしかイチのことを知らないのだ。
そもそも噂話こそが、弓田がイチに興味を思った始まりのきっかけなのだ。
イチのどんな魅力をアピールするべきか、当時の弓田はまだわからない。
それに、その場限りの話題にムキになって反論するというのも弓田には違和感があった。
楽しい空気を壊すようなことを弓田はしたくないのだ。
「んぅ、ロマンチックなのになぁ」
この場は話を濁して、表面上をやり過ごす。
その裏で、ひそかに弓田は決意していた。
実際にこの目でイチのことをより深く知るため、当時イチが所属していた1年C組に行くことを。
* * *
だが――結論から言って、1年3学期の残りの時間全てをかけても、弓田は学校でイチに会えなかった。
どういうわけか、弓田がC組の教室に行った時に限って、イチ君の姿は教室に無かったのだ。
昼休みに行っても、放課後に行っても、授業の合い間の10分休みの時すらも、イチはいなかった。
C組の生徒の話によると授業には参加しているらしい。ただ、放課後や休み時間といった生徒が自由にできる時間は雲隠れして、いつの間にかいなくなっているとの事。
それでも、弓田は諦めなかった。
暇を見つけてはC組に足を運び、教室の中を見回してイチを探す。
C組の生徒と話して、イチが普段どこに行くか手がかりを追う。
そんな日々を繰り返して、何度目かの1-C教室への訪問の時。
教室の中の光景を見て、ある憶測が弓田の中でわき上がった。
「……赤川君がいないことを、不自然に思う人がいない?」
友達とおしゃべりしたり、机の上で眠ったり、次の授業の準備をしたり、悪ふざけして遊んだりする。
そんな生徒たちの日常の中に、イチの居場所は無く。
イチがいない事が当たり前であるように、時間が過ぎていく。
その光景に弓田は、イチの隠された意思が見えた気がした。
『もう誰とも関わりたくない。顔も見たくない。声も聞きたくない。同じ空気を吸いたくもない。一人にしてほしい――!』
妄想じみた憶測だということは、弓田は承知の上だ。
それでも、何日も何日もイチがいない光景が繰り返されるたび、憶測は弓田の心を侵食していく。
「会えないのは偶然じゃない。赤川君は、意図的に人目を避けてるんだ……!」
どうやってここまで雲隠れしているのか、方法はわからない。
ただ、イチがそうしている理由については想像できる。
主犯格のいじめっ子が罰を受けたとはいえ、イチはいじめの被害者だったのだ。
しばらく一人になりたいと思っていてもおかしくない所に、自身の絡む噂話なんて迷惑にしかならないんだろう。
綾香のために仇討ちをしたヒーローなんて人物像も、元をたどれば根拠に乏しい噂話から生まれたもの。イチ自身にとっては、押しつけがましいものなのかもしれない。
「あたしが赤川君に憧れてるのも……赤川君にとっては、押しつけがましいものなのかな……」
それでも。
まるでイチがいなくて当然のような、一人の人間がいない事を受けいれている1-C教室の空気が、弓田は恐ろしかった。
胸がキュッと締め付けられるような、正体のわからない危機感があった。
「赤川君に会いたい。会って、ちゃんと話をしたい。彼のいいところを、たくさん知りたい。これ以上、赤川君を一人にさせたくない!」
そんな胸騒ぎに似た思慕を抱えながら、弓田は教室に通い続けた。
だが――探し人の神に弓田の思いが届いた、などという事は無く。
イチと弓田は顔を合わせることの無いまま、1年の3学期は終わってしまった。
おまけに終業式ですら、弓田はイチを見つけられなかった。
顔くらいは見られるのではないかという期待は、その日イチがひどい風邪で寝込んだという一報で砕けた。
* * *
日々が過ぎていって、春休みを過ごしていくと、次第に弓田はイチに会う事への情熱を失っていく。
学校という共通の中継点も無しにイチに会う方法など思いつけない。
それに、友達や家族とすごす時間まで犠牲にはできない。
唐竹第一小学校に、春休みの宿題は無い。勉強に悩まされることなく、ゆっくりと過ごせる。
弓田は与えられた自由を、友達や家族と満喫していく。
2週間にも満たない春休みはあっという間に終わりに近づいて。
イチに会うことに執着していた日々が、いっときの思い出として心の奥に沈んでいき。
新しい学年を心機一転して迎える、2年生1学期の1日目。
その前日に――それは起こった。
* * *
明日から2年生となる、春休み最後の日。
駅ビルのスーパーで、母の頼みでおつかいに行った時のこと。
食材を買ってスーパーの出口から出た弓田は、目の前の光景に思わず落胆を口にした。
「んぅー、雨だ……」
水音混じりになる人々の足音。
夕焼けを覆い隠すグレーの雲り空。
風に乗って肌に冷たく刺さる水滴。
台風という程ではないが、小雨でもない。
少しずつ体から熱が逃げていくのがわかる。
あまり長い間いると風邪を引きそうだ。
弓田はあらかじめ用意していた折り畳み傘を開こうと、取っ手のボタンを押した。
「……ん?」
傘が開かない。
壊れているようだ。
幼稚園の頃から長期間使ったがゆえに、寿命が来たのだろう。
ボタンを押しても開かないなら、手でムリヤリ傘を開けるしかない。
食材が入った買い物袋を肩にぶら下げ、両手で傘を強引にこじ開ける。
「……んぅー、ちょっと困ったなぁ」
傘を、開いたままの状態で固定できない。
止め具が壊れているのだ。
もし手を離したら、傘はバネの反動で勝手に閉じてしまうだろう。
なんて不便な!
「仕方ないなぁ……」
買い物袋がそこそこ重いし、バネの反動を抑えるために傘を両手で持たないといけないから体勢もきつい。
それでも、濡れるよりはましだ。
適当にコンビニによって傘を買い替えるまでの辛抱だ。
弓田は両手で自分の傘を持ったまま、横断歩道に向かって歩き出した。
その1歩目で――ドサリと。
何かが落ちたような音がして、その方向を見る。
視線の先には、お年寄りの女性が倒れていた。
見たところ、雨で濡れた足場に滑って転んだようだ。
地面に手をつけていて、つらそうにしている。
おばあちゃんの傍で買い物のビニール袋が2つ、いや3つ落ちていて、中から食材が零れ出ていた。
弓田から見えるだけでも、にんじん、キャベツ、きゅうり、ポン酢のビン、牛乳、天然水の2Lペットボトル2本……拾うのが大変そうだ。
おまけに、おばあちゃんは傘を持ってなかった。転んだときに落としたようで、おばあちゃんの物らしき青い傘が歩道に転がっている。
そして傘が無いとなると当然、おばあちゃんも食材も雨にさらされて、濡れていく。
「いけない、助けないと!」
弓田は自分のボロ傘を閉じて走り出した。
ボロ傘を開けたままだと両手がふさがって荷物を拾うのを手伝えなくなる。
弓田自身の体は雨で濡れてしまうが、こっちの方が動きやすい。
「大丈夫ですか!?」
歩道に転がる傘を拾って、弓田はおばあちゃんにかけ寄った。
「おお、ありがとねえ」
「いえ、このくらいは。早く拾っちゃいましょう」
持ち主のおばあちゃんに傘を渡してから、落とした食材を拾うのを手伝っていく。
助けを得たおばあちゃんは目に見えて嬉しそうで、つられて弓田も暖かい気持ちが胸に灯った。
……だが。
食材を拾っている間、弓田とおばあちゃんの体はどんどん雨で濡れていく。
水滴が思ったより冷たかった。
心の暖かさとは対照的に、弓田の体はどんどん冷えていく。
――何やってるの? あたし。
いまこの瞬間、弓田の中で、なにか黒いものがうずまいていた。
――周りを見なよ。あたし以外、誰もおばあちゃんを助けようとしてないよ?
――あたしもそうすれば良かったじゃない。
心の黒い声は、人助けに走った弓田を責めている。
楽な生き方を選ぶべきだったと、糾弾している。
――おばあちゃんを見捨てても、誰もあたしを責めたりしなかったよ。
――見て見ぬふりをする方が普通なのよ。
「……そんなこと、ない」
密かに、弓田は己を鼓舞した。
もう既にライブでおばあちゃんを助けようと行動しているのだ。
心の黒い声が何を言っても、途中放棄するつもりは無い。
おばあちゃんを助ける為、弓田は食材を拾ってはビニール袋に入れていく。
だが、黒い声は確実に弓田の心を蝕んでいた。
いいことをすると気持ちがいいのは、感謝を受けることができるというただの精神論――文字通り、気持ちだけの話に過ぎないと実感しているからだ。
現実は違う。
見て見ぬふりをする方が、普通。
実際、もし弓田が困っているおばあちゃんを見て見ぬふりして、そのまま帰っていたとしたら。
今ごろ、弓田は雨に濡れずにすんだのだ。
おばあちゃんを助けなければ受けずにすんだはずの被害を受けている。
感謝を受けた喜びも、現実の体の寒気に相殺される。
「……寒い……」
初めて弓田は、小声だが、おばあちゃんの前で弱音を吐いた。
この寒気は、雨で体が濡れてるだけのせいではない。
弓田はさみしいのだ。
自分以外、おばあちゃんを助けにいく人がいないのがつらいのだ。
周りの人間は、子供はおろか大人も、誰一人としておばあちゃんを助けに来ない。
自分が正しいことをしているという、弓田の自信が揺らいでいく。
自分の方が普通じゃないと、異端だと、おかしいと、毒々しいマイナスの感情が弓田の心を蝕んでいく。
こんなことを思いたくないのに、嫌な考えが湧いてきて。
考えないようにしようと、弓田は食材を拾うことだけに意識を傾け――
「あっ……」
ふと、弓田は拾おうとしたポン酢のビンを掴みそこねた。風で転がったのだ。
赤信号の横断歩道めがけてビンが転がっていくのを見て。
ビンが車にひかれて割れる光景を想像して。
考えないようにしていた嫌な考えが急に強くなって、止められなくて。
――こんな目に遭うくらいなら、助けに行かなければ
心が毒に支配されかけた、そのとき。
「よっと……」
ころがっていったポン酢のビンが、誰かに拾われた。
弓田でもおばあちゃんでもない、第三者の少年の手によって。
* * *
「随分たくさん買ったな、おばあちゃん」
男の子だと実感させる、低い声だった。
身長からして、おそらく弓田と同い年。
男の子としてはやや長めの、全体的に尖った黒髪。
生きるもの全てを見透かすような赤い眼光。
笑顔を作るのに苦労しそうな鋭い眼つき。
全体的に見て、少年は近寄りがたい外見をしていた。特に彼の目つきが鋭くて、チリチリとした険悪な印象があった。
だが外見の険しさとは対照的に、少年の行動は紳士的だ。
彼は大きめの黒い傘を、弓田とおばあちゃんを雨から守る様に持っていた。
実際、弓田は少年の傘のおかげで濡れなくなった。
少年の鋭い外見と優しい行動の対比にあっけに取られ、弓田は数秒間、時間を忘れる。
「はいこれ、ポン酢」
「ああ、ありがとねえ、すまないねえ」
「あんまり無理はしない方がいい。今日はポイント10倍の日だから、まとめ買いしたくなる気持ちはわかるけど」
ポン酢をおばあちゃんに渡す少年を見て、ぼんやりしていた弓田は正気に戻った。
「いけない、いけない……!」
まだ手伝いは終わっていない。
* * *
とはいえ――少年が来た頃には、こぼれおちた食材はもう7割ほど片付け終えていた。
ゆえに、あとはそこまで時間はかからなかったわけで。
それでも、人手というものは偉大だ。無いより在るほうが良い。
残り3割の食材はかなり楽に片づけが終わった。
特に、一番重い2Lペットボトルを楽にビニール袋に詰められたのは、少年が手伝ってくれたことが大きい。
さらに、食材を3人でビニール袋に入れなおしている間、少年は器用に傘を持って弓田とおばあちゃんが雨で濡れないよう配慮した。
弓田にとっては、これが地味に嬉しかった。
「この人は、良い人だ……!」
弓田が少年にそう思うまで、さして時間はかからなかった。
全ての手伝いを終えると、弓田と少年の二人はおばあちゃんを見送る流れになった。
「二人とも~、ありがとねぇ~」
「お元気でー!」
ビニール袋と傘を持ち直したおばあちゃんが去って行くのを、弓田は手を振って見送っていく。
「…………」
一方、少年も無言ながら手を振っていた。大きい傘の下に弓田を入れたまま。
「さようならー!」
「…………」
これにて、おばあちゃんの手伝いは一件落着だ。
少年があたしを傘の下に入れる理由は、もう無い。
「ありがとう、もう傘は大丈夫だから」
あたしは自分のボロ傘を開いて、少年の傘から出た。
「……お前の傘は壊れているみたいだが?」
「え、わかるの?」
「やっぱりそうか」
「んっ……!?」
ものの見事にカマをかけられたことを悟り、弓田は顔をしかめる。
「おかしいと思ったんだ。あのおばあちゃんを手伝っている間、お前は傘を使ってなかったし。傘の持ち方も変だしな」
そう言うと少年は――
「はいこれ」
あろうことか、自分の傘を差しだしてきた。
「え、いやそんな、さすがに悪いよ!」
丁重に断る以外に、弓田は返事を考えられなかった。
弓田より少年の方が、濡れ方がひどいからだ。
おばあちゃんを手伝う間、少年は自分の傘の中に弓田とおばあちゃんを入れていた。その一方で、持ち主の少年自身は傘に入らなかったのだ。そのせいで今、少年はかなり濡れている。
この大きな傘は自分より少年の方が必要だ。
そう確信する弓田だったが、まだ少年は引き下がるつもりは無いらしい。
「遠慮するな。あと、返さなくていい。おばあちゃんを手伝う時に、オレだけ遅れて来たことの落とし前だ」
「そんなことを気にしてたの!?」
確かに少年がおばあちゃんを手伝ったのは途中からではあったが。
弓田は、別に気にする事じゃないと思っている。
自分一人でおばあちゃんを手伝っている孤独な戦いの中、自分以外に手伝う人がいてくれたことが弓田は嬉しかった。
だから弓田にとって、少年が遅れたことは問題にならない。
本当に気にしていないのだ。
「いいって、君が雨で濡れちゃうし!」
「なにを今更。けどまあ……無理強いはしないが」
ここでようよく、少年は傘を差しだす手を引っ込めた。
これ以上迷惑をかけずに済むと、弓田はホッとする。
「けど、君はどうして手伝ってくれたの? あたし以外手伝う人もいなかったのに」
これは弓田にとって、口をついて出た質問だ。
遅れたとはいえ、周りの人間に流されずに手伝いにきた少年の心境に、なんとなく興味がわいたのだ。
ただ、この質問は少年にとって答えにくいものだったのか、困ったように目をそらして、答えるのをためらっていた。
それでも、わずかな逡巡の後、最終的に少年は答えた。
「オレは、最初は手伝う気は無かった」
「えっ」
「だけど、何の迷いも無くおばあちゃんを手伝いにいくお前を見て、見て見ぬ振りをしている自分にムカついたんだ。それだけだ」
「………………」
じ~んと、弓田の胸が熱くなった。
おばあちゃんを手伝いに行った時の自分が、他人からどう映ったかを聞いて、恥ずかしくなる。
周りの人が自分以外誰も手伝いに来ないことに、モヤモヤしていたのは自分だけじゃないと知って、嬉しくなる。
おばあちゃんを手伝ったことは決して間違いじゃなかったと実感して、不思議な満足感が胸中を染め上げていく。
「それじゃあな」
用は済んだと判断したのか、少年は歩き去ろうとする。
「あ……じゃあ」
反射的にさよならを返そうとして、弓田は口をつぐむ。
このまま少年との縁が切れるのは、なんだか惜しい気がするのだ。
「ねえ、待って! 名前、名前聞いてもいい!?」
歩き去る少年の手をつかんで、振り返る彼の顔を見る。
「……?」
なんだコイツ、と思ってることが目から伝わってくる。
こんなことを聞く意味がわからないと、表情が物語る。
だが、知ったことか。
弓田は自分の普段の行いには自信がある。
それこそ、名前くらい聞いても罰が当たらない程度には!
「あたしは唐竹第一小学校の弓田美優っていうの。あなたは?」
「…………」
少年は困った顔をして、なにも言わない。
名乗りやすいよう先に自分が名乗った弓田の作戦にも、乗らない。
やはり通りがかりの赤の他人に、名前を言うのはキツイのだろうか。
「同じく、唐竹第一小学校の赤川桂一。これでいいか?」
赤川桂一。
あかがわ、けいいち。
その響きが鼓膜を揺らした時、弓田のなにかが爆発した。
いじめから自分を庇って仕返しを受けた黒木綾香のために、いじめっ子4人にSNS上で告発したという噂話。
1年C組でずっと探していて、結局見つけられなかった男の子。
赤川桂一。
この人が、この人が、この人が!!
「あーーーーーーーーー!!」
「な、なんだ! なんだ一体」
「赤川桂一君、赤川桂一君!! ずっとあなたを学校で探してたのよ! 会いたかったのよ!」
「ちょ!? 離せ、手を離せ! なんなんだお前は!」
「んへへ、イチ君って呼んでいい? というか呼ぶ!! イチ君、今日からあなたはイチ君!! あたしの友達30号のイチ君!!」
「愛人2号みたいなノリで言うな、というか勝手に決めるな、騒ぐな、抱きつくな!」
この通り、弓田は赤川桂一・通称イチとの初対面で、雨の日とは思えないくらいテンションが燃え上がった。めちゃくちゃに暴走して、思いっきり風邪を引いて寝込んだ。
「けど、仕方ないもん! あの時のあたしに、あたしが嬉しいのを止めるなんてできっこない!」
なぜならイチは、良い人だったからだ。
それも、想像以上に。
自分以外の誰かのために怒ることができる優しさがあって、その優しさを行動で示す芯の強さもある。
ぶっぎらぼうな口調も、つんけんとした外見も、イチの性格を知れば良い愛嬌だ。
弓田はイチのことが好きになった。
仲良くなりたいと心底願った。
この時を境に、弓田はイチに夢中になっていったのだ。
* * *
2年生になってから、弓田は他のクラスの生徒とも積極的に交流していった。
特にイチには積極的に会いに行った。
イチのクラスに行って遊びに誘ったり、話をしにいったり。合同授業で2人組を作るときは、できるだけイチと組んだ。
3年の時のクラス替えでは、ついに弓田はイチと同じクラスになった。
というか、そうなるよう弓田は仕組んだ。
あらかじめ先生に、イチと同じクラスになりたいと希望を伝えたのだ。
同じクラスになってからはイチへのアタックも激化した。
恋愛の噂話にならないよう気を使いつつも、休み時間に話したり、部活の応援をしたり、お弁当のおかずを交換したり、林間学校で同じ班に誘ったり。
6年生になると運も弓田に味方した。
席替えの時にイチと隣の席になることができたのだ。
授業中までもイチと話せるチャンスが増えて、弓田はどれだけ嬉しかったことか!
だが……イチと一緒にいることは、弓田にとって必ずしも喜ばしいことばかりというわけではなかった。
その一つが、イチが誰に対しても心の壁を作っていると直感的に痛感させられることだ。
基本的に弓田とイチの会話は弓田から始まる。
イチの方から弓田を誘ったことは、5年間で一度も無い。
あからさまな拒否こそしないが、イチが人間関係に愛想が尽きていると弓田が実感させられる場面は一度や二度ではなかった。何度も、何度もあった。
そしてもう一つ……黒木綾香の存在。
人間関係を煩わしく思うイチの、唯一の例外が彼女だ。
薄々、弓田は気付いていた。
自分が、イチの一番にはなれないことを。
イチが一番好きなのは、いじめからイチを庇ってくれた綾香だ。
それ以外の結論など、導き出しようがない。
それでも弓田はイチの事が、どうしようもなく好きになってしまっていて。
もしかしたらという想いが心のどこかで燻って、ずっとイチにアタックを続けてきて。
だが、あの日――
* * *
弓田は見てしまった。
こっそり隠れて、盗み見てしまった。
イチが大声で、綾香の名前を聞いている光景を。
綾香と名前を呼び合って、照れくさそうに顔を赤らめているのを。
弓田には一切見せてこなかった顔を、イチは綾香に対しては見せている。
その光景を見て、弓田の中にドス黒いなにかが渦巻いた。
これに名前があるとすれば――多分、いや間違いなく、「嫉妬」だ。
そんな黒い感情を抱え込んだせいか。
翌日、弓田は血迷ってしまう。
* * *
「イチ君ってさ……綾香ちゃんの事が好きなの?」
放課後の教室にて、弓田はイチに問いただしてしまった。
恋愛の噂話を嫌うイチに、なんのデリカシーも無く、綾香との関係を聞いてしまった。
当然、イチは怒った。
だが弓田にとって意外なことに、怒りすぎた事を謝った。
それでも最終的には、綾香との関係に軽々しく踏み込むなと、イチは弓田に釘をさして拒絶してしまう。
「……イチ君、すごく怒ってたな……」
弓田は落ち込んだ。すごくショックだった。
だが、気持ちの切り替えができないほどの深刻なダメージでもなかった。
なぜなら弓田は、イチの触れてはいけない部分に土足で踏み込んだ自分のミスを自覚できていたから。
そしてなにより――この後、西村と狩村先生が話している場面を聞いて、弓田の心はそれどころではなくなるからだ。
* * *
宿題に使うはずのノートを、自分の机の中に忘れた。
その事に気づいた弓田は下校途中の友達に別れを告げ、学校の6-A教室に向かっていた。
その道中のことだ。
6-Cの教室を通りすぎようとして。
「…………イチを……」
小さい話し声が聞こえて、ふと、弓田は止まった。
「イチ」という赤川桂一のあだ名は、主に弓田が広めたものだ。
同学年生徒はおろか、先生にも広まっている。
だから、イチと聞いた弓田は赤川桂一を連想して、声がした方向を見た。
その視線の先には、西村唯と、狩村先生が話をしている光景があった。
見られたら嫌なムードになりそうだと、弓田はドアの陰に隠れた。
この後すぐ、その判断が正解だったと知ることになる。
「まず最初に…………黒木綾香を……」
「ええ、……適当に痛めつけて…………」
「……悲鳴を利用……電話でイチを誘き出す……」
「綾香……体のいいエサ……イチには効果抜群って……」
「ドアの陰から……マイクスタンドでも使って……」
「……教師のクセに……下手したら殺しちゃう……」
「生徒と取引してる時点で…………いじめはこれが最後……」
「……わかってるって…………綾香は好きなように料理……」
「……イチは俺が殺す」
間近にある猛烈な悪意にあてられ、弓田は戦慄する。
かつてない恐怖に身震いが止まらない。
話し声が小さくて部分的にしか聞こえなかったが、狩村先生の最後の一言ははっきりと聞き取れた。
イチは俺が殺す、と。
西村さんが狩村先生と組んで、いじめの計画を立てている。
いや、これはいじめなんてスケールで語れるものじゃない。
殺人計画を立てている!
かつてイチを苦しめた、いじめグループのリーダー・西村唯。
標的を綾香に変えていじめを続けている、と弓田は噂程度には聞いていた。
だが、しょせん噂は噂だと、西村の悪意を甘く見ていた。
まさか本当にいじめを続けてたなどと、弓田は夢にも思わなかったのだ。
そして、狩村先生。
1年時代のイチ君の担任。
彼が西村と手を組むという話も十分に奇想天外なのに、最後の一言はあまりにも強烈なインパクトがあった。
狩村先生は最後、なんて言った?
イチは俺が殺す、と言った。
「イチ君が、危ない……!」
狩村先生に、イチが殺される。
――イチ君が、殺される!!!
「…………ッッッ!!」
隠れるという行為も忘れ、弓田は衝動的にこの場を走り去った。
大好きな人が殺されるかもしれないという恐怖に、突き動かされる。
足音を聞かれている以上、弓田が――少なくとも誰かが、殺人計画の内緒話を聞いていたことはバレているだろう。
これをきっかけに、狩村先生が殺しを思いとどまるならそれでいい。
だが、人を殺人に駆り立てるほどの強烈な悪意が、多少の誤算で止まるとは弓田には思えなかった。
なにより、イチが心配だ。
西村と狩村先生の話から察するに、彼らは綾香の悲鳴を利用して、電話でイチをおびき出す予定なのだろう。
綾香を大切に思っているイチ君なら、罠だとわかっていても、間違いなく来る。
「そんなの、ダメ……。イチ君を行かせちゃ、ダメだ!!」
学校でいつも起こるいじめと、今回の件ではわけが違う。
これは殺人計画だ。
学校の教師をも巻き込んだ、周到な殺人計画。
イチを行かせたら最後――イチは殺される。
「――――んっ!!」
あたしは震える体を拳で殴りつけて、ムリヤリ震えを止める。
イチを行かせないこと。
イチを死なせないこと。
ただひたすら、それだけを考える。
それ以外に気を配る余裕など、弓田には無かった。
ゆえに、見落とした。
イチと一緒に協力して、綾香を助けるという可能性を見落とした。
綾香を助けるという発想が、そもそも無かったからだ。
イチの命を優先するあまり、綾香の犠牲を許容したからだ。
なぜなら弓田は、綾香に嫉妬していたから。
この危機的状況に及んでなお、弓田の心には、イチを巡る綾香への嫉妬が根強く残っていたのだ。
「あたしよりイチ君に好かれる綾香ちゃんなんて、ひどい目に遭って泣いちゃえばいい」
心のどこかで思ってしまった弓田の願いは、皮肉なことに、叶ってしまった。
イチは綾香を助ける為に、身一つで西村たちに挑んでいったのに。
綾香のために、自分の限界以上の力を引き出したのに。
土壇場で弓田は、自分の事しか考えていなかった。
綾香への嫉妬を抱えた中途半端な気持ちのまま首を突っ込み、結果的に弓田はイチの足を引っ張ってしまった。
「あたしが気絶して何もできないでいる間、なにが起こった?」
綾香が左目を刺された。
「イチ君が西村さんたちに止めを刺すのをあたしが止めたせいで、なにが起こった?」
綾香がカッターナイフで西村たちを滅多刺しにした。
「綾香ちゃんが左目を失ったのは、あたしのせいだ。綾香ちゃんが殺しに手を染めたのは、あたしのせいだ」
――あたし以外の、誰のせいだというんだ。
* * *
イチは期待していた。
病室の椅子に座る弓田に、いつもの元気な笑顔を見たいと。活気あふれる声を聞きたいと。
どんな話題でもいいから弓田と話をして、いつも通りの日常の空気を取り戻させてほしかった。
「イチ君、あたしね! あた……」
しかし、話し始めてすぐ、弓田の表情に異変が起きた。
「あた……し……は……ああ……」
涙声に唇が歪む。
明るい声を出せない。
悲しみに眉が歪む。
まぶしい笑顔を作れない。
「待って……ごめん、ちょっと……んっ……」
眼を手で押さえ、頭を下げ、弓田は感情を隠そうとする。
だが、全く隠せていない。泣きたいのを我慢しているのが見え見えだ。
彼女の中でせき止めていた何かが今、溢れて、決壊しようとしている。
無理もない。弓田も放送室の一件で心身共に傷ついたのだ。
「……弓田、無理をするな」
「!」
「別にお前が泣いても、オレはお前を軽蔑しない。むしろオレの方が、今まで色々ひどい事をしてきて、すまなかった」
深く頭を下げて、イチは敬意と謝罪を示す。
涙混じりの弓田の瞳に、驚きの色が出る。
殊勝な言葉を並べるイチを弓田は意外に思っているようだが、イチにとっては別に不思議なことではない。
確かにイチは人間関係にほとんど愛想が尽きている。
今でもイチは、孤独好きを撤回する気にはなれない。
だが……物事には例外というものがつきものだ。
「あと、助けにきてくれてありがとう。……嬉しかった」
その例外に今、ようやく弓田が加わった。
それだけの話である。
「……うう……う、うう……イチ君……」
イチが感謝の言葉を述べた後、弓田の目が……えらいことになった。
泣くのを我慢しなくなったからか、涙がぽろぽろ出るわ出るわ。
眉がハの字を描いて、頬が紅潮して、目が潤みで輝いている。
弓田は女の子としてのか弱い部分を完全にさらけ出そうとしていた。
「えーと、弓田……? あ、タオルやティッシュが必要なら、病室の……」
「んあああーーー!!」
がばっと、弓田がイチにいきなり抱きついてきた!!
「イチ君、ごめん、あたし、あたし……うう、うううーー!!」
「いだだだだだ、ちょ、顔は痛いからやめて、体重かけるのやめて、ギブギブ、痛い痛い!!」
しばらくの間、弓田は泣き止まなかった。
弓田の抱擁の感想は……発言から分かる通り、イチには痛みで感触に浸る余裕なんて無かった。
間近で見る弓田の、本来なら愛らしいはずの顔も涙まみれで、こう言ったら申し訳ないが、ぶっちゃけ汚かった。




