夏草の 露わけ衣
夏草の 露わけ衣 きもせぬに
などわが袖の かわく時なし
情景の浮かぶ歌の作り方は、万葉集の流れを組んでいるから。美しいですね。表現の仕方がスマートです。
直訳は『夏草の、朝露をかき分けた衣を着ている訳でもないのに、どうして袖が乾かないのだろう』となります。
因みに露わけ衣とは、レインコートではありません。既に濡れている衣を意味します。
ご存知の通り、短歌には文字数制限があるのです。初句と二の句を使ってまで、衣が濡れた理由を歌うことに意図を感じますね。
そう感じさせるために、この歌は表現を改められたのです。もとは万葉集にあった一首で、巻十作者不明とされていました。
夏草乃 露別衣 不著尓
我衣手乃 干時毛名寸
直訳は『夏草の、朝露をかき分けた衣を着ている訳でもないのに、私の袖は乾かない』となります。袖がずっと濡れたままなんて、そんな不自然はありません。だからこの歌は、別の意味が込められたものだと思われました。
自分の服を濡らし続ける現象、透明な露の文字から連想できるもの――――つまり涙です。
深読みすると、作者の性別まで窺えるのですが、ここでは浅く読み解きます。青々とした夏の草。対比するように泣き暮らす様子。それは外と内であり、昼と夜でもあったのでしょう。こうなってくれば、泣き暮らす理由も見えてきますね。
女と男の違いです。
苦しい恋をしているのでしょう。それに気付いて欲しいのです。なにせ、夏の朝露はあっという間に乾いてしまう。もしかしたら、一目惚れだったのかもしれません。
万葉集における裏訳は『苦しい恋をしています』となりました。
―――――――――――――――深読み篇
新古今和歌集
巻第十五 恋の歌 五
人麿
夏草の 露わけ衣 きもせぬに
などわが袖の かわく時なし
全体的なウェット感、草とか露とかもう爽やかに感じない?
間違ってはいませんが、直接言わないところに雅があり、確実に伝えたい生々しさが良いところ。万葉集では作者不明となっていましたが、男性が詠んだことは明らかです。完成度から、歌聖とされた柿本人麻呂の作としたようですね。
まず、夏草から分解します。
時期が夏だったのか、それとも夏草と詠みたかったのかは定かにできません。草で「女性」を意味して、夏草で「深く繁る草」。繁るから「頻度が多い」としても二人の関係を想像できますし、野暮ではありますが、「毛深い女性」とするのも面白いところ。夏のように熱いと取れば、一気に情熱的になります。
露の字は、僧正遍昭の回で解説した通りです。
白露でなくても、女に対して露と言ったら純粋な露ではなくなります。ここが不思議なところですね。女性に対して、したたってるぜ、というアピールが恋文として成立するのですから。今やったら、間違いなく通報です。現代人は潔癖ですね。
そんな露を分けた「衣」と、濡れている「袖」。
だんだん状況が読めてきましたか?
ここで言う衣は「心身を包むもの」、そこから身体であったり、この場合は布団とも取れそうです。袖は衣服の端です。言い換えれば「身の端」です。とうとう涙ではなくなりました。
ざっくり裏を訳してみると『夏の貴女と情を交わしたわけでも無いのに、私の「端」は乾く時がありません』と、すごく元気な人の歌になります。これで誘うのですから、ある意味すごい。表側は女々しい男なのに、裏はギンギンって見事だと思いませんか?
歌い手を知らない人が読んだら、きっと表の意味にしか取られません。
しかし返歌がないので、きっとフラれたのでしょう。袖が乾くといいですね…………