五月雨は 空おぼれする
五月雨は 空おぼれする 時鳥
ときに鳴く音は 人もとがめず
爽やかですね。
直訳すれば『五月のホトトギスは、とぼけていますのよ。でも鳴く時期ですもの。誰も咎めたりしませんわ』と、背中を押すような励ましの歌にも読めてしまう。新古今和歌集より、馬内侍の作品です。
因みにこれは、返歌として残っています。
つまり手紙のお返事です。
そうと知れば、どんな手紙が届いたのか、知りたくなりますよね?
時は五月五日、馬内侍に贈るという前書きと共に、前大納言公任という男性が詠んでいました。
時鳥 いつかと待ちし 菖蒲草
今日はいかなる 音にかなくべき
ホトトギスの話題は、この方からのようです。歌の訳は『ホトトギスは何時鳴こうかと待っていたのに、菖蒲を飾る日になった。今日はどんなふうに鳴くべきだろう』と、不思議な終わり方をしています。まあ、どんなふうにって、ホトトギスの鳴き声はアレですよ。
トッキョ キョカキョク
舌を噛みそうな鳴き声ですね。平安の時代は、カッコウの事を言ったらしいですが。そこで少し深読みしましょう。
彼は菖蒲草と、植物そのものを読んでいるので、当然根っこがある訳です。つまり、ユーモアな歌だったのでは?
『ホトトギスの音を待っていたのに、根のある菖蒲を見せられた。私は泣くべきだろうか』
そのお返事が、泣いても誰も咎めない、なんて素敵じゃないですか!
いやむしろ、男に泣けって酷くない?
疑問を持ったら、更に深読みするしかありません。その結果が、情緒とはかけ離れてしまっても。
―――――――――――――――深読み篇
新古今和歌集 巻第十一 恋の歌一
五月五日 馬内侍に贈る 前大納言公任
時鳥 いつかと待ちし 菖蒲草
今日はいかなる 音にかなくべき
返し 馬内侍
五月雨は 空おぼれする 時鳥
ときに鳴く音は 人もとがめず
ホトトギスは、人恋しさを誘う鳥ともされていて、男女のアレな『ほと伽す』という、裏の意味も見え隠れ。また菖蒲は五月に美しく咲き、草は女性を示すキーでもあります。今日というのは、現在地の京都と取って良いでしょう。
つまり『今をときめく貴女に、いつか(性的な意味で)愛を伝えようとしたのだけれど、京都ではどう誘えば良いか分からない』という雲行きの怪しい歌になります。むしろ、どんな声で鳴くんだい、なんて読んでもいいかもしれない。変態め。
対して馬内侍は、二つの意味に取れる巧妙な歌を返しました。
五月雨を頭に持っていく事で公任と見立て、ジメジメした男と出だしからお怒りです。彼自身、時鳥を自分に喩える歌を詠んでいたので、すっとぼけて鳴いているのは時鳥でしょう、と容赦ない返しですね。そういう時期ですし誰も咎めませんよ、って突き放す方向に第一案。
ラブレターには厳しいお返事です。いいぞ、もっと言ってやれ!
五月雨を『早乱れ』と艶やかに取るならば、第二案。『乱れて空しく時鳥に溺れても、泣く私を誰も咎めたりはしないでしょう』
こんな男、オッケーするんかい!!
個人的には第一案を全力推しですが、どの道、爽やかさは消滅しましたね。短歌はオープンな手紙です。相手にしか分からないようにする、というテクニックが今も人を引き付けるのかもしれません。
生っぽく、人間らしく。
時にユーモアな古典名歌を愛する皆さまへ。