夏に惑う
嫌に蒸し暑い夏の日だった。私が九つの夏休みだったと思う。
山の中にある祖母の家では、毎年の風習で親戚が集まってきていた。縁側まで響いてくる笑い声と、高校野球のアナウンス。
すっかり飽きてしまった私は、先ほどまでスイカが冷やされていた金盥を見つめていた。
水を切った金盥は年季が入っており、あちこちがひしゃげている。
私はその金盥に、軒先で捕まえたカナヘビを入れて遊んでいたのだ。
ちぎれた尻尾がいつまで動いているのか、そう思って。
曇った金色の中に、錆びてはがれた灰色が鈍って、カナヘビの煌めく青が対照的に眩しかった。
ジリジリと日の当たる首筋が不意に影って顔を上げる。
「山へ行こう。古いお墓を見つけた」
声をかけてきたのは、同級生の従兄だ。同級生といえど、春生まれの彼と、冬生まれの私では半年も年の差があって、私はまるで兄のように思っていた。
私は頷いて立ち上がった。もう、ここには飽き飽きしていた。
山に近い祖母の家では、孫たちは山へ遊びに行くのが常だった。砂防ダムも近くにあって、沢蟹を取りに行っては蛭に食われたりもした。
私たちは小さい従弟を誘って、山へ出ることにした。酔っぱらった大人たちに、山へ行くとだけ告げる。いつものことだから、誰も関心を示さなかった。
行き慣れた山道ではない、初めての山道。車の通るアスファルトの脇から、クネクネと曲がった人一人が歩けるだけの道へ入る。
先頭を行くのは、山へと誘ってくれた最年長の男の子で十歳。その後ろには最年少は五つの子。六つの男の子と七つの女の子が続いて、しんがりは私だった。私の先を行く七つの娘は私の妹だ。
両脇にそびえたつ杉の木は瑞々しく、郭公の鳴き声が響き渡っていた。
あれほど煩かったアブラゼミの声も届かない。暑かった日差しは嘘のように遮られ、汗ばんでいた肌をひんやりと撫でる山の空気。
先頭の男の子に続いて、私たちは陽気に山道をすすんだ。足元を濡らす草の雫。見慣れない一本の道。新しい何かが見つかるかもしれないという好奇心が、弾む息を勢いづけた。
お墓に向かうのだからと、途中で花を摘みながら先へ進んでいく。青いつゆ草と白いサギソウ、フウセングサと呼んでいた花。
ふと、左手に大きな窪みが開けて、息を飲む。真っ白な霧が溜まっていた。霧の合間には、蓮の葉が開いて見えて、夏らしくない白と黄色の蝶が、嘘みたいに沢山舞い踊っている。
郭公が鳴く。嫌に鳴き声が響く。やまびこが居そうな静けさ。
ああ、沼なのだと思った。初めて見つけた沼。この道は沼に落ちないように、斜面にそって続いていた。
きっとこの先にお墓があるのだろう。
もっと先へ行きたい。そう一歩踏み出した時。
「帰るぞ」
先頭の子が言った。
「え? なんで」
思わず問い返す。
「いいから!」
「だって、お墓がまだ」
「ない。だから戻る。戻れ!」
必死な様子に私は黙って頷いた。彼は私にとっては、兄のようなもので、遊びの中の判断で彼が間違うことはなかったからだ。
いつもと様子の違う彼に、幼い従弟たちは怯え怖がり、まろぶようにして山道をくだり、アスファルトの道へ出た。
突然戻ってくるネットリとした風に、クマゼミのやかましい声。
もう、あの熱い太陽は西に傾いていた。
祖母の家に戻れば、血相を変えた母がいた。どこへ行っていたか問われ、山にいたと答えれば、いつもの山へ見に行ったけど見つからなかったと責められた。
母に見てきたところを説明すれば、怪訝な顔をする。あそこには沼などないというのだ。
必死に説明していれば、祖母が安堵のため息をついた。
「『つ』が付くうちは神のうちだからね」
それを聞き、母は七つの妹をしっかりと抱いた。
私はその言葉に不思議に思った。その時、意味は分からなかったが、なぜか記憶に刻み付けられた。
金盥の中には、干からびた尻尾だけが残されていた。私はそれを畑のすみに埋め、形ばかりの石を置く。そして、あの山の中で摘んできた花を横に供えた。
夕暮れ迫る家の門で、送り火が焚かれる。周りの家にもポツポツと入り口に煙が立ち上がる。天に伸びる。
それはお盆の最後の日だった。
その後、母ともう一度あの道へ入ったが、沼は見つからなかった。
代わりに広い屋敷跡があり、道のわきに古いお墓が連なっていた。誰それの屋敷跡だと、新しいお墓はお寺にあるのだと、母が教えてはくれたが、幼い私には興味がなかった。
あの沼がもう一度見たかった。
今でも思う。
あの時、あの先に行っていたら戻ってこれたのだろうかと。
帰ろうと言ったのは、十の男の子だったのだ。
それでももう一度、あの先に行ってみたいとも思う。「つ」を失った私には、きっとその資格はもうないけれど。