表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夏に惑う

 嫌に蒸し暑い夏の日だった。私が九つの夏休みだったと思う。


 山の中にある祖母の家では、毎年の風習で親戚が集まってきていた。縁側まで響いてくる笑い声と、高校野球のアナウンス。

 すっかり飽きてしまった私は、先ほどまでスイカが冷やされていた金盥を見つめていた。

 水を切った金盥は年季が入っており、あちこちがひしゃげている。

 私はその金盥に、軒先で捕まえたカナヘビを入れて遊んでいたのだ。


 ちぎれた尻尾がいつまで動いているのか、そう思って。

 曇った金色の中に、錆びてはがれた灰色が鈍って、カナヘビの煌めく青が対照的に眩しかった。


 ジリジリと日の当たる首筋が不意に影って顔を上げる。


「山へ行こう。古いお墓を見つけた」


 声をかけてきたのは、同級生の従兄いとこだ。同級生といえど、春生まれの彼と、冬生まれの私では半年も年の差があって、私はまるで兄のように思っていた。

 私は頷いて立ち上がった。もう、ここには飽き飽きしていた。


 山に近い祖母の家では、孫たちは山へ遊びに行くのが常だった。砂防ダムも近くにあって、沢蟹を取りに行っては蛭に食われたりもした。


 私たちは小さい従弟を誘って、山へ出ることにした。酔っぱらった大人たちに、山へ行くとだけ告げる。いつものことだから、誰も関心を示さなかった。


 行き慣れた山道ではない、初めての山道。車の通るアスファルトの脇から、クネクネと曲がった人一人が歩けるだけの道へ入る。


 先頭を行くのは、山へと誘ってくれた最年長の男の子で十歳。その後ろには最年少は五つの子。六つの男の子と七つの女の子が続いて、しんがりは私だった。私の先を行く七つの娘は私の妹だ。


 両脇にそびえたつ杉の木は瑞々しく、郭公カッコウの鳴き声が響き渡っていた。

 あれほど煩かったアブラゼミの声も届かない。暑かった日差しは嘘のように遮られ、汗ばんでいた肌をひんやりと撫でる山の空気。

 先頭の男の子に続いて、私たちは陽気に山道をすすんだ。足元を濡らす草の雫。見慣れない一本の道。新しい何かが見つかるかもしれないという好奇心が、弾む息を勢いづけた。

 お墓に向かうのだからと、途中で花を摘みながら先へ進んでいく。青いつゆ草と白いサギソウ、フウセングサと呼んでいた花。


 ふと、左手に大きな窪みが開けて、息を飲む。真っ白な霧が溜まっていた。霧の合間には、蓮の葉が開いて見えて、夏らしくない白と黄色の蝶が、嘘みたいに沢山舞い踊っている。

 郭公が鳴く。嫌に鳴き声が響く。やまびこが居そうな静けさ。


 ああ、沼なのだと思った。初めて見つけた沼。この道は沼に落ちないように、斜面にそって続いていた。

 きっとこの先にお墓があるのだろう。


 もっと先へ行きたい。そう一歩踏み出した時。


「帰るぞ」


 先頭の子が言った。


「え? なんで」


 思わず問い返す。


「いいから!」

「だって、お墓がまだ」

「ない。だから戻る。戻れ!」


 必死な様子に私は黙って頷いた。彼は私にとっては、兄のようなもので、遊びの中の判断で彼が間違うことはなかったからだ。

 いつもと様子の違う彼に、幼い従弟たちは怯え怖がり、まろぶようにして山道をくだり、アスファルトの道へ出た。


 突然戻ってくるネットリとした風に、クマゼミのやかましい声。

 もう、あの熱い太陽は西に傾いていた。


 祖母の家に戻れば、血相を変えた母がいた。どこへ行っていたか問われ、山にいたと答えれば、いつもの山へ見に行ったけど見つからなかったと責められた。

 母に見てきたところを説明すれば、怪訝な顔をする。あそこには沼などないというのだ。

 必死に説明していれば、祖母が安堵のため息をついた。


「『つ』が付くうちは神のうちだからね」


 それを聞き、母は七つの妹をしっかりと抱いた。

 私はその言葉に不思議に思った。その時、意味は分からなかったが、なぜか記憶に刻み付けられた。


 金盥の中には、干からびた尻尾だけが残されていた。私はそれを畑のすみに埋め、形ばかりの石を置く。そして、あの山の中で摘んできた花を横に供えた。


 夕暮れ迫る家の門で、送り火が焚かれる。周りの家にもポツポツと入り口に煙が立ち上がる。天に伸びる。


 それはお盆の最後の日だった。

 



 その後、母ともう一度あの道へ入ったが、沼は見つからなかった。

 代わりに広い屋敷跡があり、道のわきに古いお墓が連なっていた。誰それの屋敷跡だと、新しいお墓はお寺にあるのだと、母が教えてはくれたが、幼い私には興味がなかった。

 あの沼がもう一度見たかった。





 今でも思う。


 あの時、あの先に行っていたら戻ってこれたのだろうかと。

 帰ろうと言ったのは、十の男の子だったのだ。


 それでももう一度、あの先に行ってみたいとも思う。「つ」を失った私には、きっとその資格はもうないけれど。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ