はじめまして、わたしは
「本当によかった。君はもう目覚めないのかと…」
「僕はそんなに危なかったんですか?」
「ああ。重度のイデア化による自我消失に陥っていたんだ」
「自我消失?」
それとイデア化?
「そうか。君には3年分の記憶が無いんだったね」
「いえ。それどころか以前の記憶も半分くらい無いみたいで」
「そうなのか…。イデア化の弊害か、あるいは…」
「あのー」
「ん?なんだ?」
「そろそろ離してもらってもいいですか?」
「断る」
べったりくっついて離れない彼女は子供のように拒否をした。
あれから彼女はしばらく静かに泣いた。
今は落ち着いた様で、彼女は凛とした声で話し始めた。
しかし、彼女の抱擁からいまだに抜け出せずにいた。
こちらがベッドに横たわっている状況に彼女がハグをすればどうなるか。
当然、押し倒されているような状況になってしまう。
彼女の髪から香る不思議ないい香りと彼女の体温でどうにかなりそうだ。
このままでもいいと思う気持ちも無い訳ではないのだが、なぜかこのままではいけないという気持ちもある。
「ああっ!そういえばお名前を聞いていませんでしたね!さあそこの椅子に座りなおして自己紹介をしてください!」
「君は馬鹿だな。このままでも自己紹介は出来る」
ようやく顔を上げた彼女。
メガネの奥には涙で赤くなった目がこちらを真っ直ぐに捕らえる。
微かに笑みを浮かべる彼女に思わず見入ってしまい言葉に詰まる。
「私は雪花だ。空から降る雪に花で雪花。君の保護者という立場にある」
「保護者?」
「そう、保護者だよ」
顔を近づけ耳元で囁かれ、『保護者』という健全且つ潔白な単語がまるで秘密を隠しているかのような錯覚を覚える。
そうして『保護者』というワードに思いを巡らせている内に、雪花はマーキングをする猫のように体を密着させ手を絡ませてきた。
なんかないのか!
雪花の気を引くものはっ!
このままでは怒られてしまう!
だれに?
記憶が混濁しているせいか、今のシチュエーションに緊張しているせいか、心拍数が跳ね上がり脳内が混乱する。
「あっ!あれ、あれですあれ!あの猫は一体!?」
「猫?」
「ほら、後ろです。あそこ!」
「え?」
後ろを振り向いた彼女はその猫、エクスを見るなり目を見開いた。
そしてベッドから降り、エクスに近づく。
「これは…」
「ええと。『えいど』の『えーあいしー』だったかな?らしいです」
どうやら猫が好きらしく凝視している。
どうにか別のことに気を引かせることに成功したようだ。
心臓がどうにかなりそうだった…。
「なるほど、そういうことか」
雪花は一人納得するとエクスを抱え上げた。
まさしく借りてきた猫のようにおとなしいエクスを目の高さまで上げる。
「これはAXDEの初期化ミス。つまりバグで前の使用者のデータが残っているんだ。
本来であれば初期状態で起動した段階ではAICは出てこない。
このAICは君のものではないよ」
「へー。詳しいですね」
「まあ、AXDEの開発者は私だからな」
「へー。…えっ!?」
「第3世代OSRウェアラブルデバイス『AXDE』。
君の指にはまっているソレは私が作った物だ。
だからこそこんなバグが残ってるなんて悔しいのだが」
「あのー、さっきから腕が動かせなくて、そのAXDEってのが見れないんですが…」
正確には首から下が動かせない。
どうやら抱きかかえられているしゃべる猫は、現在毛布の下に埋まっている自分の手の位置に由来するらしい。
「ああ、忘れてた。麻酔パッドをはずしてなかったな。」
そういうとおもむろに掛け布団をめくられる。
布団の下から露になった体はなぜか上半身裸だった。
「なんで裸なんです?」
「医療的な理由だ。気にするな。何もしていない」
追求から逃れるように体に付着していた四角いシートのような物を4枚ほど剥がされた。
ゲルのような柔らかな素材でできていて、イチゴゼリーのような色合いでなんだかおいしそうだ。
「ん?おおー。動く」
なんだか痺れが残っているが、体が自由に動くようになった。
「君は麻酔ってどんなものだったか憶えているか?」
ええっと。
「なんか注射器で、こうグサッとすると痺れて動かないものでしたっけ」
どうやら知識の類は憶えているようだ。
だが、どうやら自分は博識ではなかったようで抽象的なことしか返答できなかった。
「そうだ、全身麻酔における静脈麻酔薬はその名の通り静脈注射することで、脳に作用し麻酔として機能する。もう一つの吸入麻酔薬は肺から吸収させるものだ。」
先程外されたゲル状のシートはどうやら麻酔の効果を持つようだ。
「この麻酔パッドはOSRの応用で麻酔として機能している。
詳しくは省くが、OS理論に基づくOSRによってここ3年で世界は技術的特異点を迎えた。
君の指にはめてあるそのリング、AXDEはその最たる例だ」
布団から露になった左手の親指に幅の広いリングがはめてあった。
紅く透き通ったガラスのような素材でできていて、内部には光のラインが刻一刻と変化しながら走っている。
「それが、現在における人類の英知だ。ネットへのアクセスからウェブマネーの利用、通話機能や個人の証明などさまざまな機能がそこに集約されている」
「これに?」
自分の記憶の中では、まだ手のひらからはみ出すような装置が主流だったはず。
それがたった3年で?
「疑っているようだが、本当だ。なにせ私が開発したんだからな」
得意げに語る雪花はまるで宝物を自慢する子供のように無邪気だった。
「あの…」
「なんだ?」
「本当に未来なんですね。自分が覚えてる情報と違いすぎて」
なんだか置き去りにされた気分になる。
取り残されて、見捨てられて、消えゆく感覚に陥る。
いつか物語で見たタイムトラベラーはこんな感傷を抱いていたのだろうか。
「言っただろう。OS理論によってOSRが生まれ、シンギュラリティ、つまりは技術的特異点を迎えたと。違って当たり前だ。ゆっくり追いつけばいい」
やさしいトーンで語る彼女の言葉に少し安心する。
「もう一度眠るといい。君は病み上がりなんだ、安静にしたまえ」
「そうですね。そうします」
さきほどから新しいことばかりで疲れた。
目覚めたばかりでもあるせいか、瞼が急に重くなってきた。
「おやすみ。良い夢を」
「おやすみなさい」
そうして猫のおはようから始まった世界は彼女のおやすみで続いていく。
「おかえりなさい、紫稀君」
寝静まった病室でパイプ椅子に座った彼女は彼の寝顔をずっと眺めていた。