病室と猫と彼女
目が覚めると無機質な白い天井が見えた。
春の匂いがする風で微かに揺れる天井と同色のカーテン。
仄かに暖かい日差しの匂い。
ガラスの水差しが陽光を反射させ、カーテンレールの影を疎らに描く。
〈夢…なのか?〉
曖昧で再び眠りに就きそうな意識のなか、『ピッ、ピッ、』と心電図の周期的な音が聞こえる。
消毒用のアルコールの香り、腕に繋がれた点滴の管。
どうやらここは病室で自分はいつの間にか入院していたらしい。
〈眠い…〉
寝返りを打とうとすると、体が氷漬けになったように動かない事に気が付いた。
辛うじて動かせるのは首から上で、それより下は感覚こそあれどもビクともしない。
〈麻酔でもされたのかな?〉
まあどうでもいいか。
寝返りを諦め、流れに身を任せる様に目を閉じ眠りにつこうとすると澄み渡る様な声がした。
〔おはようございます。現在の時刻は10時23分です〕
〈誰?〉
ボンヤリした頭で声の主を探し周りを見渡してみる。
幸いリクライニングベッドで頭が持ち上がっていたため、周りを見るのに苦労はしない。
どうやら相部屋らしく、自分のものを含め6つのベッドが等間隔で並んでいる。
といっても患者は僕だけのようだ。
風で微かに揺らめくカーテンがかかったベッドは皆一様に人気が無い。
ベッドの脇には花びんに活けられたどこか見覚えのある白い花が一輪ずつ。
自分のベッドの近くにはパイプ椅子が2つ。
しかし、そこには誰もいない。
いや、誰もいないが何かはいた。
パイプ椅子の内の一つに三毛猫が香箱座りで鎮座している。
陽だまりの中で茶色い毛が金色に輝いてどこか神々しく感じる。
こちらの視線に気が付いたのか、三毛猫がもぞもぞと動き出した。
耳をぴくぴくさせつつ、大きな伸びと欠伸をした。
そして姿勢を正しこちらを見て。
〔現在、IPIMとの連携が切れています。朝のニュースは視聴できません〕
滔々としゃべった。
「…?」
三毛猫がしゃべった?
しばらく猫を凝視するも、再びしゃべる様子はない。
それから周囲のベッドの上を見た。
ベッドの上には相変わらず人影が見えない。
備え付けのモニターには列車にのって旅をする男女が談笑していた。
どうやら声の主は画面の向こうらしい。
猫がしゃべったと勘違いするなんて、まだ寝ぼけているらしい。
「まさか…ね」
これでもかと脂が乗った香ばしそうな牛肉が敷き詰められた駅弁を食べる彼らを見ながら呟く。
もう一眠りするか。
〔挨拶をしたのは画面の向こうの彼らではありません〕
「えっ!?」
〔そんなに驚かないでください。ネズミが会話をする国だってあるのですから。ハハッ〕
あきらかに三毛猫のほうから声が聞こえた。
しかもなんだか声が妙にかわいらしい。
鈴の様な透明感があり、それでいてふわふわとしたどこか聞き覚えのある声だ。
最後の奇妙な裏声はなんだか分からなかったが…。
三毛猫はこちらをじっと見つめている。
品定めをしているような視線だ。
心を見透かすような瞳だ。
〔どうやら本当にお目覚めになったようですね〕
「ええ。今目が覚めました。おはようございます」
状況は掴めた。
何処だかわからない病院に入院していて、かわいい声の猫と会話している。
いまだに『ドッキリでした』なんてネタばらしも無い。
これは間違いない、夢だな。
〔夢ではありません〕
「ナチュラルに人の心を読まないで下さい。これは夢に違いないんです、間違いなく。
声が妙にかわいいのも自分の願望とか入ってるからでしょう」
〔褒められると照れますね〕
毛で覆われた額の狭い顔は感情が埋もれて読み取れない。
照れてるのか分かりづらいが、顔をしきりに洗っているから本当に照れているのかもしれない。
よく見ると瞳の色が左右で違う。
赤と黒のオッドアイ。
〔私はウェアラブルデバイスAXDEのAIC。
おはようからおやすみまであなたのサポートをするのが仕事です。
名前はエクスと申します〕
エクス
そう猫は名乗った。
〔現在非常モードで自律行動中。設定されたアバターはシェイクハンドリンクによる権限であなたの視覚野に磁気干渉し投影しております。実体はありません。実行中の優先タスクはあなたの生命活動維持と経過観察です。私の説明は以上です。不明な点はありませんか?〕
詳しく説明してくれるのはありがたいが、初めて聞く単語が多すぎてほとんど分からなかった。
ジキカンショウ?実体がない?優先タスク?
なんだか煙に巻かれたような気がする。
とりあえず、質問に答えてくれるようだ。
「えーっと。とりあえず質問いいですか?ここはどこで、なんで僕はここにいるんですか?」
言っておいてなんとも間抜けな質問だが、間髪いれずにエクスは答える。
〔あなたはイデア化から回復するため、3年前からこの病院に入院していました〕
「ハァッ!?3年前!?」
驚いて声を上げてしまった。
エクスも驚いたのか少し目を大きくした。
〔はい、3年前の2102年5月5日から今日まで、あなたは昏睡状態にありました。記憶喪失はその影響と考えられます〕
「…」
そうだ、これは夢だったんだ。
こんな悪夢早く覚めてしまえ。
そもそも、三年間も眠っていたなんて証拠は無いじゃないか。
早く目覚めていつもの日常に戻らなければ。
急いでいるんだ、あいつは僕が守らないと…。
あいつ?
誰だ?
その時、考え込む間もなく扉が開いた。
「あっ」
彼女は口をぽかんと開けて立ち尽くす。
一目見てサイズが合っていないと分かる黒のセーターに黒いチノパンツ、その上から白衣を羽織っている。
寝癖のままなのかボサボサのロングヘアー。
青いフレームのメガネがずれていて、いまにも落ちそうだ。
レンズ越しの目からは次第に涙がこぼれ、片手に持っていた赤い花を取り落とす。
花を落としたことを気にも留めずにこちらへ大股でずんずんと近づいてくる。
そしてそのままの勢いで抱きしめてきた。
「うっうぅっ。」
静かに嗚咽を漏らしながら強く抱きしめてくる。
この人は誰?
ぼさぼさの黒髪も、微かに香るハーブの香りも知らない。
そのくせ、彼女を知らない事に罪悪感のようなものを覚える。
しかし、彼女の気持ちは暖かい体温と共に痛いほど伝わってくる。
しばらくそうしていると、ようやく落ち着いたのか静かな声で。
「おかえり」
と言われた。
その瞬間に上代紫稀はこの世界が夢ではない現実だと強く認識した。