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メールって怖いね

作者: 彩杉 A

 電話を切ると、間もなくパソコンがメールの着信音を鳴らした。


 件名と差出人だけを確認する。


 案の定、桜井だった。私が契約している翻訳会社の若い男性スタッフだ。内容は電話で言っていた翻訳依頼のデータだろう。


 私は一旦メールソフトを閉じ、取りかかっている仕事に再び意識を向けた。フランスの農家が日本のフレンチレストランに送ってきた手紙を和訳するというものだ。


 天候不順が続きラディッシュやエシャロットなどの野菜が思うように生育していないから、期限までには要求された量を出荷できそうにない。ついては、期限か、量の調整をさせてほしい。だけど、精魂込めて作っているから、代金は1ユーロも安くはできない。


 簡単に言えばそういう内容なのだが、手紙はグダグダと回りくどい表現を用いた長文で構成されていた。フランス人らしい冗長で頑固でプライドの高さを感じさせる文面に少々うんざりしながらも、私は原文に忠実に一つの言い回しも省略せず訳した。少々読みにくいだろうが、クライアントに差出人の冗長さや頑固さまで肌で感じてもらうにはその方が良いという私なりの判断だ。


 最後の文まで訳し終わり、印刷を実行する。プリンターがカタカタ起動する音を聞きながら、私は背もたれに身を委ね髪を掻き上げた。瞼を閉じると、じんわり熱いような痛みが眼球全体に広がって眉間を揉む。ノートパソコンの隣のマグカップに手を伸ばす。冷めてまずいコーヒーに顔をしかめ、はぁーあ、と盛大にため息をつく。首を左右に傾げるとゴキゴキゴキとえげつない音が耳に響いた。


 オーバーワークなのは分かっている。しかし、誰にも不平は言えない。そうなるように自分で仕事を増やしたのだから。


 先ほどの電話で受けた依頼もいつもなら断っている。納期まで時間のない仕事が山積みだ。だけど、今は仕事に没頭したい。自分の自由になる時間を少しでも削りたかった。


 理由はいたってシンプルだ。そんなの失恋以外にありえない。三十歳を超えても私の場合それは変わらないようだ。


 結婚するから。他の女と。


 しまった。気を抜いていたら十日前に私の甘い恋愛を一撃で粉砕した男の言葉を頭の中でリフレインさせてしまっていた。


 結婚するから。他の女と。


 そんな馬鹿な。その数日前まで私の耳元で愛をささやき将来をほのめかしていたのと同じ口がそんなことを告げるとは思いもよらなかった。

 

 油断していた。


 振り返ってみれば、そう思わないでもない。


 伊集院隼人。そんな高貴にも安っぽくも見える名前の男と出会ったのはおよそ半年前。隼人は四十歳で、職業はフリーライターということだった。フリーライターと言えば格好良く聞こえるが、実態は無職と大差ない。よって、びっくりするほどお金を持っていなかった。そして、その反対に戸籍についているバツの数は私より一つ多く、二度の離婚歴を持つ。


 こんな男が私を捨てて、よその女とどうかなるなど考えもしていなかった私は心のどこかで彼を見下し、侮っていたのかもしれない。


 隼人とはとある高級スイーツ店のオープン記念セレモニーで出会った。


 その店舗はフランスで有名なパティシェ兼実業家の日本進出一号店だった。オープン前から様々な報道媒体で取り上げられていたこともあって、セレモニーは華やかで盛大で騒々しいものだった。店内は大勢の人が入り乱れており、マスコミと称すれば大したチェックもなく誰でも容易に潜り込むことができたようだ。


 開店決定時から注目されている店なので、隼人としてはとにかくセレモニーに紛れ込み、撮れるだけ写真を撮り、聞こえてくる話を全て記録しておけば、後々何かしら仕事につながるだろうという淡くて甘い考えがあったようだ。そして彼は通訳としてその場にいた私に目を付けた。フランス人パティシェと日本のマスコミを繋ぐのは通訳だからだ。彼はセレモニーの間ずっと私の傍から離れず、必死にやり取りに耳をそばだて、セレモニーがはねてからも帰路につく私を目ざとく見つけて、他に情報はないかとさらに食い下がってきた。


 私が隼人のしつこい誘いを受け容れてバーに入ってしまったのは、セレモニーでの仕事にほとほと疲れていて追い払うのが面倒になってしまっていたことと、あまりの空腹に一刻も早く何かを食べたかったことが重なっていたからだ。いや、もう一つある。実は彼の見てくれが周囲にあったおいしそうなスイーツよりも好みで、通訳の仕事も気もそぞろになるほど目で追ってしまっていたのだ。


 そういうことで私は彼と飲んだ。隼人が私の母校の大学の、しかもフランス文学科の先輩にあたることが分かると急に話が弾んだ。隼人がやる教授のものまねが私のツボに入り、深夜の講堂に入り込みセックスしたという武勇伝が私の想像力と子宮を鋭く刺激した。


 そして疲れとアルコールで脳がぶよぶよになってしまった私には彼の誘いを振りほどく力が残っておらず、いや、そういう口実に身を委ね、抗うことができないという格好でホテルにしけこんだのだ。


 彼は情事のあとの寝物語に、フランス人小説家サガンがいかに素晴らしい作品を遺したかということを、さっさと眠りたい私に延々と聞かせた。彼女のような人間の本質を鋭く描写する小説をいつか書きたいというありきたりでつまらない夢を私は眠りの淵で幾度も刷り込まれた。


 やはり油断していた。


 私自身が彼のその切れ長の目元の涼しさと、えくぼから漂う子犬のような愛らしさとのギャップに惹かれて金を貢いでいたのに、自分以外の女が彼の見てくれにコロッといってしまうことを考慮に入れていなかったとは。


 今さら考えても仕方のないことに、またいつの間にか思考が入り込んでしまっている。それだけ今回の出来事が私にとって痛手だったということなのだろうか。


 正直、いつまでも一緒にいるつもりはなかった。当然結婚する気など全くなかった。だけど、隼人との別れが付き合い出して半年足らず、同棲し始めて三か月余りで訪れるとは思わなかった。


 もう少し、あの思わず撫でたくなるような愛らしい笑顔を見ていたかった。傍に座って年齢の割には肉の付いていない腹周りに腕を回していたかった。


 少しずつ生活のすれ違いや性格の不一致を演出して、予定調和でありきたりな別れにソフトランディングしたかった。どちらかがきっかけにはなるのだが互いに結末を知っている、まるでジェンガを積み、そして崩すときのような予感と覚悟を胸に抱いてその日を迎えたかった。


 私はプリンターが印刷を終え、妙に静まり返ってしまった世界に音と温もりを求めてキッチンに向かった。


 電気ケトルに水を注ぎセットする。間もなくコポコポと音を立ててお湯が沸く。


 さて、どうしようか。


 時刻は午後二時を回ったところ。仕事に集中していたので昼ご飯を食べていない。このお湯でカップラーメンでも作ろうか。しかし、腹が満ちれば眠くなってしまうだろう。昨日、一昨日と仕事に追われてあまり寝ていない。だが、ここで眠ってしまうと納期までのスケジュールがさらに厳しくなってしまう。


 きゅるきゅる、と見事に腹が鳴った。


 とにかくこの空腹をやっつけよう。私はシンクの下を開き、買いだめしてあるカップラーメンを一つ取り出した。蓋を開き、火薬と粉末スープをセットしてお湯を注ぐ。蓋には五分必要と書いてある。


 待ち時間を使ってメールを確認しよう。桜井には急ぎの仕事と言われたが、どれぐらいの分量なのか確認しておかなくては。パソコンの前に戻りメールを開封する。目に飛び込んできた内容に私は……フリーズした。



 梶田様

 お世話になっております。

 先ほどの御依頼の件、翻訳の松浦さんにオッケーいただけました。

 この翻訳さんは33歳のおばさんですけど、女優で言えば米倉涼子に似ていて結構きれいで、いつもしっかりメイクされていて見た目にも若いですし、センスの良い方なので、ファンデーションなどの化粧品については、梶田様が仰っていたように商品を実際に使ってもらってからその実感とともにフランス語の宣伝文句をキャッチーに邦訳してもらうことが可能ではないかと思います。

 取りあえず、見積書と契約書の案を送付します。ご確認ください。

 桜井 和人



「何これ」


 それだけの言葉を発するのにたっぷり五分はかかった。全身はフリーズしていたが目だけはパチンコの玉のように激しく動き回り何度も文面を行ったり来たりしていた。


 カッと頭に血が上り、思わず天井を仰ぐ。


 どうやら桜井はクライアントの「梶田」に送信するメールを誤って「翻訳さん」である私に送り付けてきたようだった。


 この仕事をするようになってもう五年になるが、こんなことが起きたのは初めてだ。メールの誤送信は良くある話ではあるが、クライアントに送る大切なメールを軽々に他者に送ってしまうような杜撰な仕事をする人間とは付き合いを考えなくてはならない。


 私は仰ぎ見た天井に一人の男の顔を思い浮かべた。


 桜井和人。


 今年から契約翻訳者に仕事を割り振る担当になり、私に業務連絡をしてくるようになった若手スタッフだ。


 私の愛するあのミスチルの桜井和寿と一字違い。そういう意味で私は彼に悪い印象は持っていなかった。

桜井は私とは一世代ずれていて、調子が良いというか物言いの軽薄な今時の若者というように私の目には映っていたが、それでも彼とやり取りをしているとミスチルの名曲がBGMとして私の頭の中で自然と鳴り響き、少なからず私のテンションを高めてくれていた。


 しかし、ここではその軽薄さが悪い方に出たようだ。


 私はキッチンに戻り、レバーを上げてシンクに水を叩きつけた。


 動揺はなかなか鎮まらない。


 とにかく気分が悪い。カップラーメンからは豚骨のにおいが漂ってくるが、とても食べる気になれなかった。


 おばさん


 これだ。このひらがな四文字が私のテンプルにクリティカルヒットした。


 おばさん


 この言葉が耳慣れないわけではない。同世代の女友達とは「もう、おばさんだから」みたいなことを自虐的に言い合うことは良くある。幼い甥っ子に自ら「おばさんはね」と話しかけることもある。しかし、異性から、しかも文字にして眼前に突きつけられたことは今までなかったのかもしれない。


 確かに私は三十三歳。世間的にはもうおばさんかもしれない。だけどさ……。


 桜井は入社三年目なので二十五歳ぐらいだろう。私もその頃は三十三歳の女性を内心でおばさん扱いしていた気がする。桜井は間違ったことは言っていない。おばさんのことをおばさんと呼んだだけ。ただ、それだけだ。デリガシーがないとは思うけれど、だからと言って、そこに誇張があったり嘘があったりしたわけではない。しかし、それが分かるからこそ、心にこたえるのかもしれない。


 年齢には勝てないということなのか。それなりに値の張る美容器具を毎日駆使し、ストレッチやマッサージも欠かさず、化粧品選びにも時間をかけて外見に気を遣ってきたつもりなのに。私の努力って何なのだろう。


 私は水を止め、振り返って冷蔵庫を開けた。缶ビールを取り出し蓋を開けて口をつける。清冽な黄金の液体が喉の奥で痛いぐらいに強く弾ける。


 半分ほど飲んだところで、大きく息を吐き出す。


 窓にぽつぽつと何かが当たっている音がしてリビングのカーテンを開いた。


 果たして外は雨だった。春の嵐か、急に大粒の雨が降り出したらしく、スーパーの袋をぶら下げた女性が顔を雨から防ぐように片手をかざしながら小走りで駆けていく。


 雨は仕事をはかどらせる。そして私の場合、アルコールも仕事に対する意欲を高めてくれる。指が勝手に邦訳を進めていくような感覚になれる。だから、疲れてきたときや煮詰まったときなどはビールを飲んで自分にアクセルを掛けることがある。


 私はパソコンの前に戻り、桜井からの先ほどのメールを引用した返信メールを作成した。



 桜井様

 13:49に私に送信いただきました下記のメールは送信先を誤っておられませんでしょうか。ご確認いただきますようお願いいたします。

 松浦 奈央 拝

 


 これが大人の対応ってやつかな。


 矯めつすがめつ文章を眺め、私は一つ頷いた。


 私はエイッと送信ボタンを押し、缶に残ったビールを一気に飲み干した。


 雷鳴のようにチャイムが轟いて、ぼうっとしていた私は慌ててインターフォンに向かった。そして思わず「あっ」と声をあげてしまう。画面には桜井が映っていたのだ。


 桜井にメールを送信したのは三分ほど前。まさか、メールを見てすぐに駆けつけたというわけではないだろうが。


 雨に降られたのか、画面に映っている桜井の髪が濡れて顔に貼りついている。いつも陽気な桜井だが、今日はどことなく憔悴しているように見える。


「どうしたの?」

「お忙しいところすみません。ちょっと……お話がありまして」


 画面の向こうでペコペコ頭を下げる桜井はいつになく低姿勢だ。


 私は小首を傾げながら玄関に向かいサンダルをつっかけてドアを開けた。


 雨が世界を叩く音が部屋の中に入り込んできた。チェーンの長さ分だけ開いたドアの隙間から湿った風が強く吹き込んでくる。


「どうしたの?ずぶ濡れじゃない!」

「あの……」


 いつもは戸を立てたいぐらいによくしゃべる桜井の口が今はもごもご動くだけで、何を言っているのか聞き取れない。風に乗って雨の飛沫が私の顔にも降りかかる。


「とにかく、入って」


 私はチェーンを外して桜井の袖を引き玄関の中に入れた。


 桜井は髪から顎から指先から水を滴らせている。全身を絞れば水がバケツ一杯分ぐらい溜まりそうだ。


 私は、「ちょっと待ってて」と言い置いて浴室に入り、バスタオルを掴んで玄関に戻った。


 桜井は相変わらずのしょぼくれた顔で玄関に立ち尽くしている。「使いなさい」とバスタオルを放り投げると、桜井は私に言われるがままに緩慢な動きで顔と頭を拭う。


 私はそれを廊下の壁にもたれながら眺める。何だか安いドラマに出てきそうなシーンだな、と思いつつ。


「で?何?」


 訊ねると、桜井は顔を包んだタオルの隙間から覗く目を恐る恐るという感じで私に向けた。


「メールが……」


 やっぱりそうか。私をおばさん扱いしたメールを誤送信してしまったことに気付いて、謝罪のためにこの雨の中を走ってきたのか。


「いいのよ。別に、気にしてないから」


 私も甘いな、とは思うが、びしょ濡れで今にも泣きだしそうな大人の男を前に追い打ちをかけるようなことは言えなかった。


 しかし、私の意に反して桜井は「ああー」と断末魔のような声を上げて、鞄を放り投げ、その場に崩れ落ちた。


 私はその声に驚いて飛びずさる。


「え?何、何なの?」

「見たんですね?」

「さっきのメールでしょ?見たわよ。そりゃ、見るでしょ。届いてるんだもん」

「ああー」


 桜井はさらに大きな声を上げて頭を抱えた。


「ちょっと、何?大きな声出さないでよ」

「終わった。終わりました」


 何が終わったというのか。支離滅裂だ。私はブクブクと気泡のように心の底辺から怒りが湧き起ってくるのを感じた。


「そんなところでうずくまらないでよ。タオルが汚れるでしょ」

「見なかったことにはできませんか?」


 桜井は起こした顔がびしょびしょのぐしゃぐしゃだ。雨なのか涙なのか、よく分からない。


「でも、見ちゃったもん」


 おばさん扱いされたことは忘れられない。時間は二度と遡れない。


 しかし、また桜井が大げさに「ああー」と喚くので、私は面倒くさくなってきた。私は彼の傍にしゃがみ、その雨でぐっしょりしている肩を軽く叩く。


「だから、気にしてないって言ってるじゃん」

「松浦さんが気にしなくても、こっちが気にするんですよ」

「何でよ。私がいいって言ってるんだから、それでいいじゃないの」

「良くありませんよ。全然良くないです」


 桜井が少し険のある声を出す。


 それが私には気に食わない。それって逆ギレってやつじゃないか。


「大体、あんなこと書いたのは桜井君でしょ。私のせいじゃないわ」

「作ったのは僕じゃないですよ。大崎さんです」

「え?そうなの?」


 大崎は桜井の上司だ。私より一回り年上で、ダジャレと下ネタが大好きな、ガサツなおじさんだ。あの人におばさんと呼ばれたのか。そう思うと胸のあたりでもやもやしていたものがスッと晴れる。あの人になら何を言われても微動だにしない。おばさんだろうが年増だろうが好きに言ってくれ。そう思ったところで、別の疑問が浮かんだ。


「でも、桜井君のアドレスから送信されてきたし、最後に桜井って書いてあったけど?大崎さんが桜井君になりすましてたってこと?」


 わざわざそんなことをするのか。しかも、それを誤送信するなんて。大崎はガサツだが仕事はできる男だ。


「ですから、大崎さんが作ったのは査定ですって」

「査定?何それ」

「エクセルの添付ファイルですよ……あれ?見てないんですか?」


 桜井が絶望のどん底から微かに光明を見出したような瞳をこちらに向ける。


 エクセルのファイル?見ていない。何故なら、添付ファイルに意識が向く前に「おばさん」の四文字に打ちひしがれていたから。


「見てない」

「え?マジ?」


 桜井の言葉遣いが急に変わる。いつもの調子が微かに見える。


「うん。マジ」


 私がコクリと頷くと、桜井は「よっしゃー」と叫び、喜色満面で立ち上がり冷たく湿った手で私の手を取った。


「ありがとうございます。助かりました!」

「いや、まだ、助けてない」


 私は突き放すような目で桜井を冷ややかに見つめた。「何のファイルか、もう一回言ってごらん」


「えっ?」


 桜井は私の言葉に瞠目した。そして、ゆっくりと私の手から手を離す。「いやだなぁ。何でもないお遊びのガラクタファイルですよ」


 照れ隠しのように頭を掻いて笑う。


 私は目を細めて「さっき、査定って言ったよね?」と桜井を睨み付けた。


「え?そんなこと言いましたっけ?」


 桜井は私から視線を外し、「いやー、濡れた濡れた」とタオルで顔や首筋を拭う。


「見てこよっと」


 私は桜井を置き去りにして奥へ向かった。


 慌てたように桜井が「ちょ、ちょっと」と言いながら部屋に上がりドタバタ追いかけてくる。


「ちょっと!そんな濡れた靴下で上がってこないでよ!」


 私は桜井の足跡で濡れて光る廊下を指差す。


「あっ。すいません」


 桜井は慌てたように靴下を脱ぎ取る。


「ちょっとぉ。裸足で廊下を歩かないでくれる」

「えー。でも、もう上がっちゃったし」


 桜井は困惑顔でタオルで足の裏を拭く。


 私は額に手を当て脱力しながら言葉なくそれを眺めた。あのタオルはもう雑巾にしよう。桜井が足の裏を拭いたバスタオルで風呂上がりの身体を包む気がしない。


 私は仕事部屋の机に戻りパソコンの画面に桜井からのメールを表示させた。何度見ても「おばさん」の文字が私の胸にキリキリと突き刺さる。先ほどは添付ファイルにまで気が回らなかったが、確かに「登録翻訳者データ」というタイトルのファイルが付いている。


 桜井が私の隣にやって来て、「あちゃー」と声を上げる。


「これです。まさか、松浦さんに送っちゃうとはなぁ」

「でも、これって本来的にはこの梶田さんって人に送るつもりだったんでしょ?それはそれでまずかったんじゃないの?」

「そうなりますね。まずいっす」


 桜井は他人事のように軽い調子で言う。


「桜井君、分かってる?君は二つのミスをしているわけよ。添付すべきではないファイルを添付してしまい、梶田さんに送るはずのメールを間違って私に送った。これってもう桜井君個人の問題じゃなくなっちゃてるの。君の会社の信用に関わるのよ。会社にばれたらどうなると思う?」

「さぁ、どうなるんでしょ」

「私だったら桜井君はクビね」


 クビは少し大げさか。


 しかし、桜井は真に受けたのか、少し顔色を変えた。


「実は、もうばれてるんです」

「え?そうなの?大崎さんに?」


 桜井は力なく頷いた。


「もし、松浦さんがメールを開き、ファイルを見てたら、お前はクビだって言われました」


 大げさでも何でもなかった。大崎の言葉がどこまで本気か分からないが。


 私は嘆息して腕を組み、桜井と正対した。


「何のデータなの?」

「だから、何でもないですって。ただの……」

「見ちゃうわよ」


 私は桜井の言葉を遮って、カーソルを添付ファイルの上に置いた。


「ああ。言います、言います」

「じゃあ、早く言いなさいよ」

「言ったら、このままメールを削除してくれますか?」

「さあね」

「そんな殺生な」

「言わないなら、いいのよ。見ちゃうだけだから」


 私は桜井を威嚇するようにマウスをぐりぐり動かした。


「そんな……」


 桜井は項垂れてもごもごと言った。「うちの翻訳さん全員の評価と単価です。翻訳文字数あたりの報酬が分かります」


 つまり、これを見れば私の翻訳を会社がどのように評価しているかが分かるわけだ。その情報が私に使い道のあるものかは分からないが、少なくとも個人情報ではあり、それが漏えいしては会社にとって痛手ではあるだろう。


「そんな大事なものをメールに添付して送信しちゃうなんて、どういう神経してんのよ」

「返す言葉もございません」

「反省してんの?」

「はい。反省してます。申し訳ありませんでした」


 桜井は一歩下がり、私に向かって深々と頭を下げた。


 私はそれを見て不承不承メールを削除してやった。若いとは言え大人が真面目に頭を下げたのだ。それを目の当たりにして許してやらないようでは私の人間としての価値が下がる。


 桜井は「ありがとうございます。ありがとうございます」と大きな声で何度も私に礼を言った。


 それが鬱陶しくて私は桜井をシッシと仕事部屋から追い払った。びたびたに濡れた桜井のスーツの背中が体温で生温かくて気持ち悪いが、それを押しながら玄関へ向かう。


「でも、あれって話、盛ったつもりはないですから」


 押されながら桜井は首を捻ってこちらを見る。


「え?」

「あの、メールの文面のことですよ」


 桜井は私がメールを削除したことで浮かれているのか、ニタニタした顔で言った。


 桜井の言葉が再度私の怒りに火を点ける。せっかく忘れかけていたというのに。しかも、自分から言うか。こいつ、本当にどういう神経しているんだ。


「あんたね、本当のこというと、私、怒ってんだからね」

「そんなぁ。恥ずかしがらなくてもいいじゃないですかぁ」

「はぁ?何で私が恥ずかしがらなくちゃいけないのよ」

「僕はこう見えて根が正直なんで、嘘やおべっかは言わないんですよ」

「あんたねぇ……」


 私は奥歯を噛みしめた。こいつ今「本心であなたのことをおばさんだと思っています」って言いやがった。


「松浦さんって、本当に米倉涼子に似てますって。それにメイクとか服とか、いつもセンスいいなって思ってたんすよ。綺麗な人だなって」


 そう言えば、そんなことも書いてあったような気がする。「おばさん」の四文字ばかりが目に、心に痛かったのだが。男性に、綺麗な人、だなんて言われたのは、いつ以来だろう。


「ちょ、ちょっと。人のことおばさん扱いしたくせに、急に変なこと言わないでよ」

「いや。松浦さんってちょっととっつきにくいところあるけど、そういうところも含めて俺、結構、タイプな……」


 桜井は突然玄関で立ち止まり、「あー!」と大きな声を上げた。


「今度は何?」


 桜井の顔を覗き込むと、色づかなかった瓜のように土気色になっている。コロコロとよく表情を変える男だ。


 桜井はしゃがみこみ、鞄を持ち上げた。ぽたぽたと水が滴り落ちる。鞄を開いて取り出した封筒も下の方の一部を除きぐっしょり濡れて変色している。封筒の中の書類を持つ桜井の手が震えた。


 そこには大きく「契約書」と書かれていた。朱肉で印が押されているところからして、既に効力を発しているものなのだろう。大部分は雨を吸ってふにゃふにゃになっており、文字も滲んでいる。


「契約書が……」


 私はすぐに浴室に入り、新しいタオルを持ってきた。


「こっちにおいで!」


 呆然と立ち尽くしている桜井を叱りつけるようにダイニングに呼ぶと、テーブルの上にタオルを敷いた。桜井から契約書を奪うように取り、タオルで挟み込む。さらに分厚い辞書を仕事机から持ってきて、タオルの上に置いた。


「体重のせて少しでも水分取りなさい」


 言い残して私は寝室に向かった。部屋の隅にあるゴミ袋は努めて見ない。クローゼットの奥からアイロンを取り出し、アイロン台を小脇に抱えてダイニングに戻る。


 桜井が裸足のまま椅子に立ち、全体重をタオルの上に置いた辞書に集中させるようにテーブルに押し付けていた。


 体重をのせろとは言ったが、椅子の上に立たなくても……。後であの椅子もしっかり拭いて消毒しないと。


 私は全身に気だるさを感じながら、アイロンのプラグをコンセントに差し込んだ。何年も使っていなかったが、赤いランプがついて底の鉄が熱を持ち始める。


「契約書、こっちに持ってきて」


 桜井から契約書を受け取ると、アイロン台の上に置き、ハンカチを載せ、その上からアイロンを掛けた。水が焦げる熱く湿ったにおいが広がる。


 桜井が心配そうにのぞき込んでくる。その桜井のネクタイからぽたっと水滴がアイロン台の上に落ちて、私は思わず桜井を睨み付ける。


「す、すいません」


 桜井が顔をひきつらせてスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを外すのと同時に、チャイムが鳴った。


 誰だ、こんな時に。私は舌打ちをして立ち上がってインターフォンを見た。そして、硬直した。


 そこにいたのは十日前にここを出て行った男だった。


 どの面下げて、と思った。しかし、画面に映る隼人は平然とした緊張感のない表情だ。よそに女を作って出て行ったことに対する罪悪感は全く見られない。


 もう一度、インターフォンが鳴る。


 私の背後に桜井が立ち、怪訝そうにこちらを見つめているのが分かるが、私は動けないでいた。


 間もなく、ドアが開く音が玄関から聞こえてくる。


「俺、どうしましょう?」


 うろたえたような上ずった声で桜井に訊ねられても、私にも正解が分からない。


「奈央。いるのか?」


 久しぶりに聞く隼人の声。その声を私は思わず胸の中で反芻していた。


 声に媚はなかったか。私にいてほしいと願っていたか。それともいないことを期待していたのか。もしかしたら、よりを戻したいと言いに来たのかもしれない。だとすれば私はどう答えようか。


 玄関に男物の靴があって、廊下にバスタオルが転がっていて、ずぶぬれの若い男が部屋にいて、私がアイロンを掛けている。隼人はそれをどのように見るのだろうか。


 どう見られたって構わない。いつまで経ってもうだつの上がらないヒモ男。さっさと別れることができて運が良かったのだ。あんな男といつまでも一緒にいたら、余計な不幸を背負いこむだけだ。


 だけど……。この胸のドキドキの正体は何なのか。


 だらしない隼人には愛想が尽きはじめていた。「俺を信じろ。いつかベストセラーを書いて美味いもの食わせてやる」が口癖だったが、隼人が書いた文章を一行たりとも読んだことがない。いつかは別れるべきだと思っていた。きっとそれが今なのだ。一時の寂しさに負けてすがりつくような真似をすれば、本当に別れたいときに無駄な金と労力を使うことになるだろう。


 だけど……。人は変わることができるし、世の中にはチャンスはいくらでも転がっていると言う。隼人だって根っからのぐうたらではないのかもしれない。運さえ掴めば才能が開花しないとも限らない。それに、あの笑顔をもう二度も見ることができないと思うと正直つらい。


「上がるぞぉ」


 勝手に廊下をずかずかと歩いてくる男の足音が聞こえる。間もなく現れた隼人はダイニングに突っ立っている私を、そして桜井を見た。桜井にチラッと向けた隼人の視線に少し、ほんの少し不愉快さが宿っているように見えて、私は何故だか身体が軽くなったような感覚を味わった。


「俺の荷物は?」


 ぶっきらぼうな問いかけに私は無言で寝室を指差した。迂闊に声を出せば、心の動きがばれてしまいそうだ。自分でもどっちに振れているのか分からない心の振子。


 隼人は私と桜井の関係に興味なさそうに寝室に向かった。


 寝室には隼人が残していった下着や電気シェーバーなど身の周りの品をゴミ袋に入れて置いてある。そのうち捨てようと思っていた。だけど、捨てていなかった。だって、まだ出て行って十日しか経っていないのだ。


 私は餌のにおいにおびき寄せられる犬のように、ほとんど無意識に隼人を追って寝室に向かおうとした。だけど、身体が動かなかった。振り返ると、桜井が見たことのない真剣な表情で頬を紅潮させて私の手首を掴んでいた。私はその場で桜井と無言で見つめあった。


 すぐに寝室のドアの音がして隼人が戻ってくるのが分かった。


 桜井が私の手首をパッと放す。


 握られていた部分がひんやりして、男の熱い手を恋しくさせる。


 再び廊下に姿を現した隼人は銜え煙草で、ダイニングに突っ立つ二人を見た。


 何故かは分からないが、桜井が私の隣に並び立つ。


 隼人は見覚えのある赤い細身のライターで煙草に火を点け、余裕を醸し出すように片方の口の端を歪めて笑い、煙を吐き出した。


「これ、もらっとくわ。後は捨てといて」


 そう言ってライターを軽く空中に放り投げる隼人はテレビドラマのチンピラのような分かりやすい品の悪さを全身から発散させていた。


 それは私が隼人の誕生日にプレゼントしたデュポンのライターだ。今、思えば、その日が本当に彼の誕生日だったかも分からないのだが。


 じゃあな、と味も素っ気も未練も感じさせない乾いた声を残して隼人は去っていった。間もなくドアが閉まる音がして、私は糸が切れた操り人形のように座り込んだ。


 隼人は何をしに来たのだろうか。復縁を期待してきたが、知らない男が部屋にいて諦めたのか。それとも、デュポンのライターがどうにも惜しくて、のこのこ顔を出したのか。


「何だよ、お前。つけてきたのか?」


 雨音に混じって部屋の外から隼人の驚いたような声が聞こえてきた。


「だって、心配だったんだもん」


 すがりつくような若い女の声。私から隼人を奪った女だろう。


「俺を信じろって」


 出た。隼人の得意のやつだ。


 私は手がわなわなと震えるのを感じた。何だろう、これ。悔しさなのか。嫉妬なのか。あの「俺を信じろ」はもう二度と私に向かって言われることはない。


「松浦さん」


 頭上から桜井の声が降ってくる。


 まだそこにいたのか。顔を上げれば目が潤んでいるのがばれてしまう。私は床に目を落とし懸命に声の震えを抑えて「何?」と突き放すように言った。


「カラオケでも行きませんか?俺、松浦さんの好きな曲歌いますよ」


 何故私が桜井に歌ってもらわねばならないのか。私は鼻の奥がツンとするのをやり過ごしてから口を開いた。


「ミスチル、歌えんの?」

「ミスチルっすか。まあ、何とかなると思います」


 私は返事の代わりに乾いた契約書を桜井に投げつけた。


「何とかなる、で歌ってほしくないのよ、こっちは」


 桜井は契約書の表面を手で撫でるように確認した。


「乾いてる!ありがとうございます」


 桜井は喜色を浮かべて私に深々と頭を下げた。


 単純な男だ。嬉しかったら笑って、悲しかったら泣いて、困ったらすがりつく。世の中、そんなに自由に気持ちを露わにしても許されるものなのか。


「桜井君って悩みなんかないんでしょ」

「悩みがないのが、悩みなんですよねー」


 そう言って頭を掻きながら豪快に笑う桜井を見ていると、つられて笑いそうになる。


 私はアイロンを片づけながら、「用が済んだら帰れ」と玄関を指差した。


「お邪魔しました」


 桜井は「うわっ。びっちょびちょ」と言いながら上着を羽織ってダイニングを出て行った。


 あ、そう。ここは素直に帰っちゃうんだ。


 私は去っていく男の背中を横目で確認しつつ、胸に兆した寂しさを持て余し、「めんどくさい女」とぼそっと自分のことを非難した。そして、その場で硬いフローリングの床に寝転がる。ひんやりした感触が気持ち良くて思わず目を閉じる。


「ミスチル、練習しときますから、今度、カラオケ行きましょうね」


 廊下の向こうで桜井が声を張り上げている。


 私はそれを聞いて思わず頬を緩めた。しかし、返事はしなかった。


 ドアが開く音がする。


 このまま眠ってしまおうか。急に心地良いまどろみが身体に重くのしかかってきた。私は桜井に掴まれた手首をそっと撫でた。


「行きましょうね」


 雨の音に混じって桜井が念を押してくる声が響く。


 私は少し桜井のことが可愛らしく思えて、頬を緩めながらほんの少し甘いまどろみに全身を委ねた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 浮かんだイメージをそのまま文章に出来る、言葉を巧みに操る事の出来る作者さんだなと。久しぶりに内容の濃い紙の本を読んだような充実した気分です。 振られた女性が主人公だと重くなりすぎる場合もあ…
[良い点] 同じアラサー女性が主人公ということで、親近感を持って読み進めることができました。しょうもない自分語りの男にひっかかったり、「おばさん」扱いがそろそろプライドにぐさぐさ突き刺さったりと、リア…
[一言] なろうでアラサー女性の葛藤や恋愛事情を描いた作品を読めるとは思いませんでした。 文章も綺麗で読みやすく、場面ごとの心情を追いながらスラスラと読み終えることができました。 余韻の残る良い作品で…
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