ルール・ザ・ワールド ♭3
難読漢字等でルビを多用しています。
その為、読み辛いと思われる向きもあるかも知れませんが、ご容赦下さい。
皆が出社し、各々トラックに乗り込んで出発した頃を見計らって、俺は人目を気にしつつ会社の事務所に向かった。事務の小母さんは其の役職の通り、豪く事務的に手続きを処理していった。まるで俺に1mmの思い入れも無いかの様に。
でも、良く良く考えたら俺も、此の事務の小母さんの名字すら知らなかった。恐らく耳に入れた事は有ったのだろうが、今現在、覚えていない。思い出せない。二、三度談笑した記憶は有るのだが、俺がそんな感じなのだから、彼女も俺に対して然したる思い入れを持っていないのは当然と云えるかも知れない。
或いは、危機に瀕している会社の経営的には一人でも社員を削れば、其の分だけ人件費が浮き、経費削減に為るのだから、経営者に近い存在の事務職としては手早く手続きを完了させたいのかも知れない。若しくは、相当に穿った見方に為るが、俺が解雇される事で、少なくとも自分の首は繋がった、とでも考えているのかも知れない。孰れにせよ、斯うして対面し、顔を突き合わせたとしても、相手の思考が読める訳では無い。何をどう頑張ったとしても、他人の心理は完璧には分からないのだ。だからこその人間生活上の醍醐味も、有るのだろうが。
実際の所、ウチの会社は離職率が低い訳では無く、事務の小母さん的には手慣れた作業だから、事務的な進行に為ったのだろう。また、離職する人間に対して思い入れを持って対応しても意味が無いから、と云う、至極当然な理由も有る筈だ。
兎に角、俺は恐ろしい程の円滑さで会社を後にした。もう、此処へ来る事も二度と無いだろう。そう思うと、人目を気にしてはいたのだが、門を出て社名が刻まれた看板を眺めた時だけは、思わず感傷的に為り、警戒心が薄れてしまっていた。
「あれ? 寶生君?」
唐突に声を掛けられたので、反射的に身体が強張った。と同時に、抜かった、と直感した。
「……虹根さん」
彼女の名は虹根莉菜。俺より二つ年上の女子社員だ。背は男の俺とそう変わらないから、女性としては可成り高い方だろう。ジーンズに白いシャツと云う、飾りっ気皆無の服装は、間違い無く私服だ。此の会社は何故か制服である作業着を外出時に着てはいけない規則に為っていて、必然的に通勤時には私服を着て来る事に為る。
俺は不思議に思った。今現在、とっくに始業時刻は過ぎているのだ。
「……虹根さんこそ、今日どうしたんですか?」
彼女は俺の質問を聞き終わると、凛とした表情を崩し、苦笑しつつ答えた。
「いやぁ、寝過ごしちゃってさ。寝坊だよ。参ったな、25歳に為って」
男社会の此の業界で遣っていく為だろうか、将又生来の性格なのか、彼女は余り女性を感じさせない。故に俺も、然程年上の女性と云うのを意識せずに話せる。特に、半年に一回位の頻度で開催される会社の飲み会では、割と良く話していた記憶が有る。
「そう云う寶生君も、遅刻?」
「あー……」
俺は一刻も早く、此の場を去りたかった。出来れば、現場の同僚とは誰にも会わずに帰りたかったのだ。様々な感情が綯い交ぜに為って、自分でもどう云う反応をすれば良いのか判らなくなってしまうから。
どう話せって云うんだ? 職業運転者にあるまじき、人身事故を起こしてしまって、会社を解雇された俺に。現役の、今から仕事をする、少なくとも嫌いではない同僚に対して。
……どうでも良くなった。頭脳が思考を放棄した、と同義だ。此の瞬間、俺は単なる葦に為った。
「……お世話に為りました。もう、虹根さんと顔を合わせる事も無いと思います。此れからも頑張って下さい。……それじゃ」
俺は早口で捲し立てて、踵を返して歩いて行った。
「あ、え?! ちょ、どうしたの?!」
虹根さんが戸惑う声が、背後からはっきりと聞こえた。が、遅かれ早かれ、彼女の耳に入る事だ。早ければ、1分後にも。
俺は上を向いた。空は抜ける様に晴れ渡っていて、痛い程に青い。心做しか、突き刺さる蒼天が滲んでいるが、気の所為だろう。俺は歩く。
咄嗟に虹根さんの居ない方へ歩き出したので、俺の家は反対方向だ。
俺は一体、何処に向かって、いるんだろうか?
そう云えば此の先には、件の女子高生が入院している、と云う市立病院が在る。最低最悪な気分だが、見舞いは早いに越した事は無いだろう。
俺は青空と睨めっこし乍ら、病院へと歩を進めた。
本作は架空の創作物です。
文中に登場する人物名、団体名等は、現実のものとは関係ありません。
また、文中に実在する著名人名、企業名、商品名等が描写された場合も、其れ等を批評・誹謗する意図は一切ありません。