フロース・ドルミート
「アンタがフロースか」
「はい…あの、お隣宜しいですか?」
「あぁ」
そう返事をすると、フロースはヒールを鳴らしてゼノの隣に並んだ。
暫しの沈黙の後、フロースは柔らかな声で言った。
「苦手なんですか?こういう席」
「…まぁね。賑やかなのは良いが、臭いがダメなんだ」
「香水が苦手なのですね。男性の方に多く見られますが…女性にもいらっしゃるんですね」
そう笑みを湛えて言う彼女に、ゼノは言った。
「アンタ、軍の試験を受けたそうだな」
「え?」
フロースは驚いたようにゼノを見た。
この話題を取り上げられるとは思っていなかったからだ。
「何故、それを?」
あぁ…とゼノは思った。
どうやら、フロースは自分が軍の人間だとは思っていないようだ。
彼女は自分を、あくまで軍の親戚だと思っている。
「私はダンドリア国軍所属、ゼノ・クウァエダム准佐だ」
「えっ…准佐?貴女が?」
驚きに目を見開くフロースに、ゼノは笑いかけた。
「驚いたか?」
「驚いたも何も、ゼノ・クウァエダムって、死刑執行官じゃ…あっ」
フロースはしまったと口を塞いだ。
ゼノは、そっちで有名なのか…と苦笑した。
「あぁ、執行官兼准佐をしている。…まぁ、私のことはどうでも良いんだ。私はアンタの事が知りたいのさ」
「私の…こと?」
「そうだ…フロース・ドルミート。アンタは何故、伯爵の一人娘でありながら軍に志願した」
*
「その理由なら、ちょいと色々ありましてね…」
ネムスはグラウィスのグラスに赤ワインを注ぎながら応えた。
「はじめに、私は養子を貰う予定でした。見ての通り、私には男の子供がいない。なので、婿を貰おうと考えていたのです。しかし、娘は結婚を拒みました。自分はドルミート家を継ぐ気はない、と。そして娘は言ったのです。…母と同じ、医療の道を辿りたいと」
フロースの母…つまりネムスの妻は貴族伯爵位の娘ながら医療研究所の出である。
「その答えまでなら、私も妻も許そうと考えていました。医療研究ならば、妻と同じように事が落ち着いてからでも結婚できますから…。しかし、フロースは軍の医療班へ行きたいと言ったのです」
「軍の医療班は研究所とは違う。戦場にて負傷した兵を連れて帰る役や死を看取る役でもある。かなりの覚悟がない限り、進むのは危うい」
医療班に入るには、まず軍へ入るための訓練課程をすべて終了させ、更にそれと同時に医療三級を取らねばならない。
医療三級というのは、医者の補助医になる為の資格でもあり、医療班に入ることは出来るが、負傷した兵を連れて帰る任をさせられることが多い。
医療班に入り、最初から手当要員として入りたいのであれば、二級は取らないと厳しい。
訓練と共に医学の勉強をし、資格を取らねばならない…それが医療班へ入る唯一の道なのだ。
「私も妻も猛反対しました。なにせ一人娘ですから…、しかしフロースは絶対に医療班に入ると言って聞かず…」
「して、その理由は?」
「…自分は今、とても幸せだ。でも、戦場に走る人はいつだって一人。最期の時は、手を握ってあげたい…と」
*
ゼノは話を聞いて唖然とした。同時に冷めた感情がフロースに対して沸き起こった。
「甘いな。軍に志願した者は皆、決死の覚悟で戦場へと赴く。確かに、個々の思いはあるさ。家族を守るため、国の安泰を願うため…でもな、孤独に死ぬことを恐れていたら、人を殺すための武器を持って戦場へなんか行けない。お前のその感情は、戦死していった者たちを愚弄していると同じだ」
「貴方のような人は皆そう言います。自分は孤独なんて恐れない、恐れてはならないと――。しかし」
フロースはゼノの前に立ち、凛と言い放った。
「そういう人こそ、孤独を人一倍恐れている人なんです」
「っ!」
ゼノはフロースを睨み、歯軋りをした。同時に昔のことが頭に蘇った。
鎖、枷、溢れる血の匂い。
蜘蛛の巣、顔の見えぬ男、蛇、一人。
孤独――。
それは一層ゼノを怒りに染め上げた。
「私が孤独を恐れている?笑わせてくれるな」
途端、フロースはゼノから溢れ出る怒り・狂気を察し、たじろいだ。
ゼノの目が赤く光っているように見え、ゼノの存在こそが怒りと狂気そのものだと感じた。
「なぜ私が、今更孤独を恐れなければならない?ならば問おう。平和を願うのなら、なぜ人を殺す?なぜ孤独と共に人が死んでいく?味方の兵を助けるだけでは、平和はもたらせないぞッ!」
ゼノは荒声をたててフロースに言い寄った。
フロースにはその様子がまるで、蛇が鎌首をもたげてこちらを威嚇しているように見えていた。
フロースはこれ以上彼女を怒らしてはならないと感じ取り、それ以上何も言わなかった。
二人がにらみ合う中、足音がこちらへ近づいてきたのに気づいたフロースはハッとして後ろを振り向いた。
「そこまでだ、ゼノ」
先ほどゼノと共に話していた男性だと気づいたフロースは、自ら席を外した。
それをゼノはいらぬ気遣いだと鼻を鳴らした。
「熱くなりすぎだ、落ち着け」
「何が落ち着けだ!」
「ゼノッ!!」
今度はサフィラスの諭すような声に、ゼノは苛立ちを感じ舌打ちをした。
「…グラウィス将官の話が済み次第、帰るぞ。このままここにいても、お前が暴走しかねない」
「人選を誤ったな、レグルス…グラウィス。私にフロースを諭せなど無理な話だ」
「いや…、お前の言葉は少なくとも考えるにはいい材料となっただろう。あとは、彼女の気持ち次第だ」
*
グラウィスはネムスと共に広間に戻ってくると、バルコニーにいたゼノとサフィラスを連れてドルミート邸を出た。
執事の一礼を受け、門を潜ろうとしたとき、背後から己を呼ぶ声にゼノは絶望した。
「…ゼノ、行ってこい」
「…マジで?」
「ゼノ」
「…はぁ」
ゼノは渋々と踵を返し、己を呼んだ男の元へと歩いて行った。
男はゼノが近寄ってくるのを見るや歓喜に溢れた顔で迎えた。
その顔を見て、更に機嫌を悪くしたゼノは「諦めの悪やつめ」と呟いた。
「お久しぶりです!またあえて嬉しいです!」
「…そうか、アンタは上等兵に昇級したんだったな」
そう言うと、目の前にいる男……ミーレスは、ぱぁっと明るく笑顔を作った。
「覚えていて下さったんですね!光栄です」
「まぁな」
上等兵なんぞ、俗に言う三年生学校の最上級生の位だ。
それでも、選ばれた人材なのだから使いようはあるのだろう。
少なくとも、一等兵よりはマシだ。
「訓練時は、新米兵を見るんだろう?」
「そうなんです。でも、私はどうも面倒を見るというのが苦手でして…」
「面倒なんぞ、適当にやっておけばいいさ。結果的には、新米兵がどれだけ自分で動けるかだ」
「はいっ」
そんな適当な意見にも返事をするミーレスは、ゼノへ偉大な絶大な憧れや信頼を抱いていた。
かつて、ミーレスが二等兵だったころ、戦場に出た彼は敵方の束縛魔法にかかってしまった。
捕虜として捕まりそうになったところを偶然馬で先陣を切っていたゼノに見つかり、助けてもらったのだ。
ちなみに、その時の男がミーレスだということを、ゼノは気づいてはいない。
「それで……ゼノ大尉は准佐に就かれたと聞いておりますが」
「あぁ。前の作戦で暴れすぎて怒られてね。お陰で監視の目が着いて、プラスして仕事を増やされたよ」
「それは…お疲れさまです」
祝おうとでも思っていたのだろうか。
ゼノの言葉を聞いたミーレスは複雑な顔をしている。
「……で、私を呼び止めたのはそれだけか?」
「い、いえ。その…もうお帰りに?」
「そうだが…そういうアンタは、また私に頭突きを喰らいに来たのか?」
「とんでもない!もし、まだここにいらっしゃるのでしたら、私と一曲お願いしたかったのですが…」
目をキラキラと輝かせる彼に、ゼノは面倒くさそうに言った。
「あー、悪いな。今日は踊る気分じゃないんだ。やることはやったし、先に帰らせてもらうよ」
それじゃ、と言って踵を返そうとするゼノに、ミーレスは再び呼び止めた。
「あの!その、今日ゼノ准佐をエスコートしていた男性はフィアンセの方ですか……?」
その言葉にゼノは呆れを通り越して、笑いかけた。
「いーや。アレは私の…なんだ?お目付役だ」
「お目付役でしたか!遠くからでしたので、一体どなたかと」
「でもまぁ、あんたも名前は知ってるんじゃないか?サフィラス・シレークスっていう名前なんだが……」
途端、ミーレスの顔はだんだんと蒼白へと変わっていった。
*
ミーレスが顔を蒼白にした理由は車の中で、サフィラスが直々に話してくれた。
なんでも、サフィラスをゼノのフィアンセだと勘違いした彼は
「私の分まで、幸せにしてください!」
と、広間で言ったらしい。
彼が大佐で、サフィラスということまでは良かった。
しかし、彼をフィアンセと勘違いしたのは、痛い勘違いだ。
しかも広間で言ったとのことだから、今頃噂好きのお貴族様の良いネタになっているだろう。
「ミーレスのやつ、俺が否定しようにも話を聞かなくてだな……困った奴だ。しかも貴族の噂になれば、そのうち俺の親父にも入るだろう。ミーレス…絶対飛ばしてやる……」
そう言って拳をわなわなと震わすサフィラスはお怒りモードだということを見て取れた。
こうなれば、サフィラスの父・スマラグドも黙ってはいないだろう。
尊敬する自分の上司の娘と結婚すると言ったら、喜ぶに決まっている。
先を見据えたサフィラスはミーレスを飛ばす飛ばすと呪いのように唱えている。
「落ち着け二人共。レグルスには私から言っておく。それよりだ、フロースの方はどうだった」
グラウィスの問いに、ゼノは肩を落とした。
「ダメだね。あいつ、本気で軍に入ろうとしている」
「そうか……、ネムスからも話を聞いたがそんなに言うなら、仕方がないのかもしれないな。それで、他には?サフィラスからは、何かあったか」
「……後ほど、申し上げます」
ゼノはサフィラスを睨んだ。
恐らく、フロースとの間であった出来事を告げるのだろう。
確かにあれは自分も熱くなりすぎた。
しかし、それを凛として言うフロースもどうかと思う。
聡い彼女のことだ。
そのようなことを言えば、ゼノが怒るのも言わずもわかったであろう。
「そうか……二人共お疲れだな。ゼノ、お前は先に屋敷に戻っていなさい。サフィラスは私と共にレグルスの元へ行く、いいな?」
二人はグラウィスの命に従い、それぞれの一日を終えた。