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ウィッチハンター

未成年の喫煙や不摂生、暴力などを推奨する意図はありません。

 ヨスケを待ちながら、ふっとあの言葉を思い出した。私が女王になったときの言葉だ。ヨスケは私を奴隷として扱うけれど、私はあの時から、確かに女王だ。

「やいやい、出てこい」

 あの日は通信制高校の週に一度の登校日だった。いつも通りヨスケに七個入りの菓子、ホワイトファイアを持たされた帰り道は、いつも通りカラスがゴミ箱を突っついてパッパヤパヤッパしている、くしゃみをこらえるほど晴れた日だった。

 ちなみにホワイトファイアとは『一目で本命と判るマシュマロ』という売り文句の脂肪の塊だ。ちなみついでに大嫌いだ。

 そいつはヨスケが毎週寄越すので、食べないと溜まっていく。言うなればタスクだ。ギアスだ。ドレサージュだ。なんだっていい。要するに食べたくない。私は背が低いのだから、こんな体重ではいけないのに、ヨスケはわかってくれない。ヨスケどころか、親も、友人も、かかりつけ医も、わかってくれない。

 そうだった、そんな日に私は「やいやい、出てこい」と言った。私の部屋は家の奥にあるけれど、それでもパパやママに聞こえ得る大きな声だったかもしれない。ヨスケと私の関係はパパもママも知っている、それは単なる純恋愛の恋人同士という小雨のアスファルトのミミズじみた解釈でそれは誤解に近いけれどとにかく知っている、そんなパパとママは私がそんな声を出したらヨスケを呼ぶかもしれなかった。それは嫌だったから聞こえなくて心底よかった。

 そいつは、私が食べるのを渋っていたその日のタスクを咥えていて、私と目が合った途端、げじげじのように消えた。私は電気をつけた。すぐにだ。けれどその一瞬で、そいつが変質者だったらお礼に適当に悦ばせてあげなくもないなと思っていた。それくらい私はそのタスクが嫌だった。

 けれど残念なことに、そいつは想像していた変質者とはだいぶ違った。小奇麗な身なりだったし、緑がかった黒の短い髪は指通りがよさそうで、申し訳なさそうな表情は愛嬌がある。びんたをして泣かせたいという衝動を煽るような奴だった。

 そいつは私の声のあと、個包装のホワイトファイアをひとつ袋ごと握りしめて、何の変哲もなく、床に正座をした。何の変哲もなかった。げじげじっぽさも変質者っぽさもなく、実に何の変哲もなく、呼吸をするように、いや呼吸は既にしているのだろうけれど、なんだろう、スーパーマーケットに鶏ムネ肉を買いに行くようにとでも言えばいいのだろうか、とにかくおかしいことなど一切ないと喚くように静かに現れて正座をした。

「……食べなよ」

 私の言葉にそいつはまんまるい目を瞬いた。驚いた風ではない。目が乾いたのだろう。その証拠に次の言葉は全く会話の交通標識を無視していた。

「僕は、ヤイ?」

「は?」

「今、呼んだでしょ。二回も、僕のこと」

「君、名前ないの?」

「ヤイ、なんでしょ?」

 物理的でなしに頭が痛くなって、ぶかぶかのスカートを一段折って短くした。スカートの丈と精神状態はリンクする。乱暴なことをしたくなって、鞄に詰めていた七個入りのホワイトファイアの紙の外装を引っ張って裂いた。鞄の中に散らばったホワイトファイアからひとつ取って、封を切ろうとする。

「あ」

 この際その名で呼んでやろう、ヤイが声を出した。

「なに」

「もうミユノは食べ物は食べられないよ」

「いきなり呼び捨て? 様づけで呼んで」

「もうミユノ様は食べ物は食べられないよ」

「やっぱいいや」

「もうミユノは食べ物は食べられ」

「わかったから」

 食欲があったわけじゃなかったし、マシュマロごときが乱暴な気持ちを穏やかにさせてくれるはずがない。それから何より太りたくない。せめて氷がいい。氷はいい、私にどこまでも忠誠を尽くしながら殺されてくれる、殺され方もいい、あの感触には頭蓋骨に遺書を刻まれるような快楽を感じる。

「なんで」

「だって、ミユノは魔女だから」

「魔女だと食べられないの?」

「うん。生き物を自分の手で殺そうとして殺さないと。魔女なんだから」

「殺すとおなかが膨れるの?」

「ミユノだって花を殺しておいしいって思ったんでしょ」

 そうだ、ああ、そうだった。それは事実だった。確かに最近、癪に障るほど可愛らしい花を枯らして遊んだ。家中の活け花がしおしおになるのを楽しんだ。

「じゃあ花があればいいの?」

 不思議なことに、花をしおしおにすると、氷を噛み砕くよりもずっと気持ちがよくなった。しおしおになった花が、手の上で、まるで十年着たベロアのように、完全な信頼のもとで体を委ねてくれているような感覚があった。

「ううん、僕から食べて、正しくは吸い取って。花なんかより、ずっと気持ちがいいよ。栄養も豊富だし、お金もかからない」

「君はクスリでも決めてるの?」

 ヤイは時間をかけて瞬いた。馬鹿らしくなって、私は肺をバラ鞭で叩くように深呼吸をしてスカートを一段長くした。よく計算したらお尻がかなりきわどいことになっていたことに気付いたけれど、割とどうでもいい。見たいなら見ればいいし触りたいなら触ればいい。ただし痛くしたら警察までおデートするオプションがつく、喜びなさい。

「女王様って呼ぶなら吸ってあげる」

「女王様」

「世界で一番」

「女王様」

 ヤイが頭の足りないインコのように言った。

「一一九二作ろう」

「女王様」

 それはまた立派な女王だ。

「一九一九」

「女王様」

 それはまた不埒な女王だ。

「香川のイチゴの」

「女王様」

「適当に言ってるでしょ。香川のイチゴの」

「あっあっわかった、女王蜂」

「良い子」

 何も良い子ではなかったけれど、ヤイが挙手して答えたのが気分がよかったので許した。ヤイがにょほーっとした笑顔で喜んでいる。私は笑いの琴線が変なところにあるので、この程度の言葉遊びで充分幸せになれる。もっとも、顔には出ないみたいだ、出さないようにもしている。十六にもなって、ダジャレに弱いなどとのたまえるわけがない。きっと馬鹿にされて、周りのひとがみんなみーんな、みぃぃぃんな、すべからくダジャレを交えた言葉で話しかけてくるようになるだろう。ダジャレは好きだけれど、そういった善意の悪ふざけは、好きではない。そういった善意の悪ふざけをされたら、私はにっこりと笑いながら拳銃を私自身の口に入れて発砲することをいとわないに違いない。人間はみんなもう少し真面目に生きるべきだ。そうすれば私だってもう少し真面目に生きられるのに、そうならない。全部全部周りが悪い。周りが悪い、なんて、小学生でも言わないようなことを言わせるのだって、周りのせいだ。

「ねえねえ、女王様」

「なに」

「食事をして?」

 一瞬空白があった。

 私は食事が大嫌いだ。氷以外のものを食べるとよく息が苦しくなる。家に居る間は、あとで吐くつもりでいれば食べられるけれど、学校に行く日はヨスケが一緒についてきて食べろ食べろと言うので、イチゴの種の気持ちになる。たとえだ。イチゴの種だ。それも、ヨスケの涙腺にどうにかして入ってしまって、ヨスケが苦しみ泣きわめくタイプのイチゴの種だ。うざったがられて、儚げで綺麗ともとれるしただ汚いともとれる液でぐじゅぐじゅにされて、目ヤニとなって芽を出すことがない最期だ。無論ヨスケはイチゴの種を涙腺に詰まらせたことはないけれど、ヨスケの泣き顔は想像に易い。

「ねえ、ミユノ、食事をして? 食べなくていい、言葉が気に入らないなら、吸収して。ミユノは、まだ意志を持ったものから食事をしていないね。今なら間に合う。魔女の食事は、純なものでなければならない。相手が死ぬまで吸うか、一定の相手から吸うかだ。ランボルギーニに軽油とハイオクを入れてはならないのと同じだ。僕が食材になろう。他の人から食事をしたら、ミユノは軽油入りランボルギーニになる。もしランボルギーニが気に入らなければメルセデス・ベンツでもいいしボルボでもアウディでもいい。最悪車じゃなくてもいい、納得できるのであればボットン便所と排泄物でもいい、ボットン便所にぽーいするのはとことん純粋に汚いものだけだからね。ミユノは便所側だというわけだ、僕が排泄物、うーん困った、ちょっと今の例はなかったことにして。まあそんなことはどうでもいい、大事だけれどどうでもいい。僕と一生一緒、仲良くしてね、女王ミユノ」

 想像のヨスケの泣き顔が、別な表情になった。そして、音を立てる程になっていた私の呼吸は肩が揺れる程度まで治まっていたし、ヤイはこう続けた。

「人間から食事をとると、大抵の魔女と大抵の人間は死んでしまうからね」




 そんなことまで思い出しているのに、ヨスケはなかなか教室から出てこない。

(私があのとき豚野郎と呼んでいたら、ヤイは豚野郎と名乗ったのだろうか)

 私は週一回登校の通信制高校の一般クラスで、ヨスケは個別指導クラスに通っている。

 通信制高校といっても、ヨスケは対人関係に不得手なわけではない。むしろ上手なほうだと思う。体だって丈夫だ。ヨスケは、親の意向に沿って通える範囲の高校が軒並み偏差値が低かったせいで、個別指導のあるこの高校を選ぶことになったらしい。

 口内炎を舌でなぞる。口内炎も花のようにしおしおにできると思ってわざわざガリッと音を立てて作った口内炎だったけれど、しおしおになることはなかった。痛いし、邪魔だ。いらいらして口内炎を上から更にかじった。実は、この味が好きだ。しょっぱくて、生きている味がする。二リットルくらいのペットボトルでこの味をサンプルにした飲み物があったら買ってしまうかもしれない。飲み物の名前はストレートに『KANDE』とかそんな感じでいいだろう、なんとなくおしゃれだ。しかしながらこの行為、かじっている間は痛みも気持ちいいのに、少しすると不快になるのだから、口内炎は試験前の恋人選びに似ている。

 エセ制服のカーディガンを引っ張って、手の甲を隠した。この高校は制服はないけれど、何を着たらいいかわからないので、制服っぽいコーディネートをして暮らしている。ヨスケはこのファッションを褒めてくれる。それは実はおまけでしかないけれど、女の子はそう言っていたほうが可愛いのでしょう? 実際は楽なだけだ。

(デブ)

 ヨスケの教室の覗き窓に、ストレートパーマがありありとわかる黒髪ロングの、皮膚と骨の間に二ミリメートルほどは肉がついているような太った女がうっすらと映っている。顔立ちから判断するに、私のようだった。

 ヤイから食事をとるようになって、確実に太った。ヨスケが怪しむのではないかと少し怖かったけれど、ヨスケは抱き心地がよくなったと喜んでいた、気楽なものだ、私のフラストレーションなんてわかってくれないのだ。パパもママも、先生も、良いことだ良いことだと言っている。でも、四十キログラムの体重は、私には重すぎる。不満で仕方ないというのに、誰もかれものんき過ぎる。私がどこまで苦しんでいるのかなんて、誰も、イルカも、サルも、スズメも、エレクトーンも、ペペロンチーノも、パン工場も、マッキントッシュも、ゴキブリの死骸さえも、わかってくれないに違いない。

(デブ)

 でも、ヤイが食事をしてほしいしてほしいと頼み込むから、慈悲深い女王は聞き入れてやっている。ヤイが望むのなら私は暴君にでもなるし、名君にもなろう。ヤイが大切だから、なんて歯の浮くようなことは言わない。単純に、主君というのは奴隷を支配しないといけないからだ。肉体的支配だけではただのいかがわしいプレイだ。精神的支配と精神的服従の関係が成り立った時、ようやっとそこに『支配』というものが成り立つのだ。

 私はヨスケの奴隷だけれど、彼は、そういえばなんで私の主人なのだろう。誰が言いだしたのだっけ。いつから始まったのだっけ。どうにせよ、私とヨスケの間には支配および被支配関係は成り立たないのかもしれない。私はヨスケに支配されるために学校へ行っているわけではないし、ヨスケのために何かしたくてホワイトファイアを受け取るわけでもない。私が一度不登校にさえなれば、すぐに霧散する支配関係だった。

 しかしながら、私は、なぜかその不完全な支配に甘んじている。なぜだろう。面倒くさいからだろうか。いやいや、支配されているほうがはるかに面倒くさいだろう。それはそうだけれど、私は、この支配がなくなったら、何に支配されて生きていけばいいのだろう。私は誰にも支配されないでいられるほど几帳面で頑丈で考えなしではないし、ヨスケからの支配がなくなったら、新興宗教でも立ち上げて神を作り出して崇め奉るしかないのかもしれない。

(食事)

 ヤイが言っていたことは本当で、ヤイから食事をすると、確かに快楽が伴った。全身の血管がゆんゆんして、ため息が出るくらい安らかな気持ちになる。そして何より、食事をした後のヤイを見るのが、気持ちいい。

 初めてヤイから食事をしたとき、自分の心臓が動いていることを実感した。食事によって生気を吸い取られ、気絶したヤイを見ると、あああ、となる。ああ、ああ、最高だ、人生におけるエクスタシーが今かもしれない、そんな感覚が、毎日毎日、ヤイから食事をとる度に訪れるのだ。だからその食事を嫌いになりきれない。

 そして、戯れに、食事の中盤に少し強めに吸い込んでみると、ヤイがもじもじして「変なことしないで」って顔を赤らめるのが楽しい。変な気持ちになる、と言っていた。そんなことを言ったら、私だって変な気持ちになる。それが気持ちいいのに、なにかやんごとない事情が、殿方にはあるのだろうか。

 『ヤイ、気絶した後、ぶっていい?』と、そんなことを訊いたこともあった。私は初めてヤイを見たときから、ヤイをぶちたくてぶちたくてたまらなかった。ヤイは『ほっぺにしてね』と言った。私は言われた通り、ヤイが気絶した後、ヤイの頬をぺちぺちと、ぶった。もちもちした肌は私に吸い取られた生気を補充しようと、私の手を吸い付けるようだった。ヤイの頬から手を離すと、糸を引くような感覚があって、それがまた気持ちいい。私はヤイをぶった。何度もぶった。ヤイが可愛くて仕方なかった。可愛い可愛い私の奴隷、今度は起きているときにぶってあげるから。私は気が触れたようにひとりでそうつぶやいて、部屋着のワンピースの上のレエスのカーディガンを脱いで、ヤイの胸のあたりにかけてやった。

 不思議なことに、どんなに勢いをつけてヤイから食事をしても、ヤイはしおしおにはならなかった。私がしおしおにできるのは花だけなのだろうか、とも思ったけれど、納得がいかない。やってみるつもりはないけれど、きっと私は、パパもママも、ヨスケも、しおしおにできる。しないだけだ。せっかく女王になったのだから、無意味な殺生はよくない。いい国作ろう女王様、イクイク女王様、とヤイも言っていた。

 そしてヤイは不眠症のようなものを患っているらしい。私は魔女になってから体がゆんゆんして眠らなくてよくなったけれど、ヤイは寝たい眠れない寝たいと、ぐずるのだ。勉強机に向かっている私のワンピースの裾を引っ張ってくる。平日、お風呂に入ってパジャマに着替えて、布団に入って、そのあとパパとママが寝静まったときにわざわざ私が着替えるそのワンピースは、

「ミユノ」

 ヨスケが担当の先生と一緒に教室から出てきて、何が楽しいのか、人のよさそうな整った顔を好印象以外の何物でもないニタニタで満たしていた。そのニタニタは、記憶をいじくることをくだらないものだと思わせた。

「ヨスケくん、さようなら、また来週。宿題多いけれど、君ならできるからがんばってね」

「はい。来週までに目を通しておきます」

「ははは、ヨスケくんが目を通すと一字一句ぜーんぶヨスケくんの脳のひだひだに書かれてしまうからなあ、教科書を作ったひとの責任は重大だなあ」

 ああ、ああ、そこの高級住宅街の天窓にかかと落としをして回りたい。私はこういうやりとりをされるほど先生に好かれていなくてよかった。

「ミユノ」

 自分が制服プロレスを繰り広げる想像を鮮明にしようと試みていたところで、ヨスケが私を呼んだ。

「帰ろう。これ、やる。おまえどうせ傘持ってないだろ」

「ヨスケくん? 外はスコールだよ、少し待ったら? きっとすぐにやむよ? その可愛い彼女さんと居たら待つ時間なんてあっという間じゃないか。あっはははははは」

「先生。ミユノに関しては、授業料を払っておりませんので、お話を伺うのは心が痛みます」

 ヨスケのひんやりした笑顔に先生が一瞬呆気にとられて、そのあと困った顔をして、ただ「そう」と残しながら去って行った。いいざまだ。ヨスケはこれでも私の主人だ。馬鹿にしないでほしい。馬鹿な主人に仕える奴隷は主人を更生させるために主人を支配する奴隷にならなくてはならない。面倒極まりない。迷惑だ。

「ミユノ、改めて、これ」

 ヨスケはテキストブックがみちみちに詰まった鞄の外ポケットから、大事にラッピングされたようでまったくよれていない、黒地に細いピンクのリボンがプリントされた小型のカプセル状のプラスチックを取り出した。いかがわしいグッズかと思ったが、開けてみると出てきたのは折り畳み傘のようだった。一般的に見れば、可愛い。

 いや、たぶん、たぶんだけれど、可愛いのだ。私は、可愛いとか、綺麗とか、そういうのには基本的かつ本格的に疎いのだけれど、きっと普通の女子は「わあ」と声をあげて喜ぶのだろう。私が「わあ」と言おうとした口は、なぜか「わあ」とは言わなかった。「わあ」という言葉がどうして「わあ」という言葉なのか、「わあ」とは何なのか、「わあ」と言えばヨスケが喜ぶとして、それがいったいなんになるのだろう、そんなことを考えてしまって、結局私は「わあ」とは言わなかった。

「暑い。濡れて帰りたい」

「いいから使え」

 ヨスケはこうやって、奴隷として扱ってくる。被支配は楽だ。

 防音の窓の外はスコールが降っているようで、薄暗い色の空気に白い引っ掻き傷が幾重にも走っては消え、走っては消えている。

「それとも、先生の仰ったとおり、雨がやむのを待とうか」

「私は帰りたい」

「うん、じゃあ、帰ろう」

 ヨスケが一歩踏み出した先に、運悪く不良で名の知れた、と言っても名はわからないのだけれど、とりあえず悪い方向に騒ぐことが好きな、あまり頭がよくなくて、派手で、パンダを極限までリスペクトした駄作のような目で、あんまり上品でないことで有名な、けれど名はわからない女子がいたのだった。

「いっったぁぁぁぁい!」

 その女子は大袈裟に大声を上げた。全然痛がっている表情ではない。暴れるいい言い訳を見つけた歓喜の表情だった。その大声に紛れさせられたのは、ヨスケの小さな悲鳴だった。その女子が、持っていた煙草をヨスケの右手の甲に押し付けたのだ。

 女子はぎゃはぎゃはと笑いながら、煙草を床に捨てて新しい煙草に火をつけた。そのまま歩き去る。煙たい。ヨスケは右手を押さえて、まだ煙を立てていた煙草を踏んで火を消した。

「ヨスケ、大丈夫?」

「うん。俺が不注意だった。ミユノはなんにもされていないか? ごめんな、心配かけたな」

 そうだった、と、思うくらいに、心配をしていなかった。

 ヨスケに何があっても、自分には関係がないとどこかで思っていた。むしろ、私に飛び火せずにヨスケで済んでよかったと、どこかで考えていた。

「ミユノ、早めに帰ろう。スコールもやむ頃だ」

 悲運の男を演じるヨスケに寒気がした。寒気と言えば聞こえがややましだけれど、正直、どんなアザレアもヨスケのこの声を聞いたら二秒でしおれ切るだろう。

「よぉうヨスケくーん」

「オイコラァ! ヨスケェ!」

 さっきの女子とお相手の男子、二体のゾンビがのしのしと奥の教室から廊下に出てくるのが見えた。奴らは生きてなんかいない。ゾンビだ。けれど、私だって、生きてなんかいない。ヨスケへの扱いが、奴らとあまり変わらない、いや、奴らよりも、ひどい。奴らが悪臭とうめき声のゾンビなら、私は吐瀉物と腐敗のゾンビだ。あら、たとえ話で見目良く格好良くする予定だったのだけれど、おかしいな、ちょっとよくないな。

「ミユノ、帰れ、早く」

 慌てたヨスケが私の背を押して、私は階段の踊り場に押し出された。ゾンビゾンビと言ったが、ヨスケは私を奴隷にしてくれる。ゾンビよりもずっと麗しい。私はヨスケの奴隷扱いが嫌いではない。奴隷は大人しく命令につき従うことにした。私は生粋の奴隷だから命令されると弱いし、生粋の女王だから慈悲深い、ヨスケはひとりでゾンビの相手をしたいだろう、私はヨスケほど頭がよくないけれど、『足手まとい』という言葉くらいは知っている。




 奴隷は記憶が飛んでいることに、家に着いてから気付いた。ヨスケに追い出されたのは覚えているけれど、帰ってくる間の記憶がない。けれど問題もないような気がする。よくあることだ。

 玄関、ローファーを蹴り飛ばすように脱いで、紺のハイソックスをむしるように投げ捨てる。シャツのボタンは何度も私が繰り返したこの慣習によって、引っ張れば外れるくらい緩くなっている。スカートは何度まくってもぶかぶかで、引っ張れば腰骨を通り抜ける。

私は下着姿で振り返って、歩いたとおりに服が散らばっているのに、しばし見惚れた。私が居た証だ。親に怒られたって構わない、どうせ何をしたって怒られるのだ。どんなにいい子でも、悪い子でも、普通の子でも、怒られるのだ。

 そしてハンガーにかけていた真っ黒のワンピースを着た。ただのプレーンなワンピースの癖に、四万八千円もした。でも、これを着ている間は、私は女王だ。このワンピースを着ている私は女王なのだ。そうに決まっている。

 部屋に入ると、奴隷、ヤイが床に正座してホワイトファイアを口いっぱいに頬張っていた。

「おはえい、いうお!」

「ただいま」

 ヤイはもごもごとホワイトファイアを噛み切り、飲み込んだようだった。

「ヤイ、ぶっていい?」

「いいよ」

 いつからか、帰宅したらヤイをぶつのが日課になっていた。ヤイは最初から嫌がらなかった。喜びもしないけれど、私のほうはヤイをぶつと、浮き上がるような幸福に襲われる。

 ヤイの向かいに正座して、ヤイの頬をぺちんと叩く。叩くのが目的なのでそんなに強くはぶたない。ヤイの首も衝撃に曲がることはない。音も派手には立たない。ただ、ぺちんと肌と肌が触れる音がするだけだ。

「痛い?」

「あんまり」

 もう一度、ぶつ。反対側の頬だ。ヤイの頬は、先程彼が食べていたホワイトファイアのように白くて、ぶったときに薄紅に染まるのが美しいのだ。どんな高級なチークだってこの紅色には敵わない。ヤイ、おまえは世界で一番美しい。

「ミユノ、遠慮しないでぶっていいんだよ」

「してない」

「いつも軽くしかぶたないじゃないか」

「ぶつことが目的なんだもの。痛がらせたくない」

「ミユノは不思議なことを言うなあ」

 私は不思議なのだろうか。麗しいものを麗しくさせたいと思うのは不思議だと、ヤイは言うのだろうか。

「ヤイ、私のこと、ぶってみる?」

「ええ! 嫌だよ」

「どんなふうにぶってほしいのか、やって見せて」

「えええ」

 ヤイはしばらくためらっていたが、目が左右に四往復するくらいした後に、私の頬にそっと手をあてた。

「じゃあ、ミユノ、ぶつよ」

「うん、ぶって」

 私は目を閉じて、喜びの瞬間を待った。どう来る。平手か。げんこつはヤイっぽくない。私がやる風に指先でぺちんとくるか、それとも手のひら全体でばっちんと来るだろうか。変わり種で手からトゲトゲが出てきてぷすんと行くだろうか。

 ぺいん! そんな感じの音がした。ぺいんという発音が丁度良い感じだったけれど、私にペインはなかった。

 私はゆっくりと目を開ける。ヤイがうずくまっていた。

「……ヤイ?」

「ミユノ、痛い」

 がたがたと震えはじめたヤイが顔をあげた。ヤイの右頬にモミジがくっきりと生えていた。

「なにしてるの」

「僕は思った、僕はミユノをぶとうと思った、僕がミユノをぶてばミユノは僕をぶってくれる、けれどできない、僕はミユノをぶてない、でも僕はミユノにぶってほしくて、それなのにミユノはなにもしてくれない、僕がぶつまでなんにもしてくれない、だから僕は自分で自分をぶってみた、全然だめ、ミユノ、ぶって、早く僕をぶって、我慢できないミユノミユノどうしたらぶってくれるぶってよお願いぶって僕はミユノにぶたれないとこんなにおかしくなってしまう、ミユノ早く」

 ヤイが震えながら私との距離をにじりにじりと詰めながらそんなことを言った。私はヤイの頬を指の先でぺちんとぶった。ヤイは大人しくなって、その場に静かに、先程のようにきちんと正座した。静かな幸福だった。

「ヤイ、今日はお仕事は?」

 ヤイはどうやらおとぎ話のような仕事をしているらしい。夜になると、窓から出ていくのだ。

「丑三つ時に集合だって。丑三つ時って何? 何時何分? そもそも何時ってものは何? 季節によって地球と太陽の関係は変わっているから朝が来る時刻も月が昇る時刻も違うのに、よくわからない概念だなあ。でもねえ、不思議と人間の皆様は丑三つ時に僕らを呼ぶんだよ。こればかりは千年以上変わっていない慣習だ。特に日本。怨念の国のように思えるね。僕はいずれ彼らの呪いによって命を落とすだろうけれど、不思議なことに、なんとなく、『それが起こる時刻は何時何分なんだろう』という疑問を持てないんだよ、いつなんだろうとは思うのにさ。それから」

 ああ。ヤイはこうなったらだめだ。ずっと話し続ける。

 ヤイは誰かの呪いの気持ちを落ち着かせる仕事に就いているらしい。この能天気がなんだってまたそんな格好のいい仕事に就いているのか不思議だけれど、それを言ったら、なんで私は私なのだろうという気の狂いそうな疑問に触れなければならなくなる。仕事と自分というものを分けることは、歳を重ねるごとに難しくなっていく。私は、女子高生でない私を想像できないもの。女王でない私を想像できないもの。奴隷でない私を想像できないもの。人間でない私を想像できないもの。

「であるからして、丑三つ時っていつなんだい、ミユノ」

 ちなみに、ここで無視をしてもヤイの話は続く。面白いくらい話すやつだ。中身はよくわからないものばかりなのだけれど、サルがシンバルを鳴らすおもちゃを見ているような愉快な気分になる。あれはいいものだ。癒される。だって放っておけば止まるでしょう。

「まあ二十一時半から翌朝五時くらいまで張ってれば来るんじゃないの」

「ミユノはこの上なく聡明だね! そうか、ずっと張っていればそれはまあ来るよね! さすが僕の女王は違うなあ」

 ヤイがやいのやいのと喜んだ。可愛い奴隷を持てたものだ。ヨスケも私にこうなってほしいのだろうか。私が? シンバルを鳴らすサルになるというの? なんとなく、気が進まないなあ。

 そういえば、今日はヨスケからホワイトファイアをもらい損ねた。あのパンパンの鞄に入っていたはずだった。ヤイに申し訳なくなって、言う。

「ヤイ、今日はホワイトファイアはないの」

「ふうん。なんで? ミユノはあれが好きなんじゃないの?」

「好きなんかじゃないよ。私が一回でも食べたことがあった?」

「なかった」

「そうでしょう」

「食べたことある? おいしいよ?」

「おいしくない。太るだけの味しかしないじゃない」

「ならなんでミユノ=ホワイトファイアなの?」

 なんだそのファミリーネームは。

「もらうの」

「誰から?」

「彼氏」

「……彼氏?」

 ヤイが見たことのない眼光を放った。ヤイ。どうしたの。初めてだ。怖い。ヤイが、怖い。

「魔女に伴侶がいるはずがない。僕はきちんと調べた。……ミユノ、そいつの名前は」

「よ、ヨスケ」

「ヨスケ。わかった。ミユノ、少し待ってて」

 ヤイは、げじげじのように消えた。ミニテーブルにホワイトファイアの包装紙が丁寧に折り畳まれて置いてあった。

 数秒して、部屋のドアがノックされる。狭い部屋、ドアのすぐ前にいた私は「お帰り、ヤイ」と、可愛い奴隷のためにドアを開けてやる。

 けれど、そこに居たのは、目を丸くしているヨスケだった。

「ミユノ……?」

 新宿二丁目でスラックスごとボクサーパンツを引っ張り下ろされた男の気持ちがわかる気がした。

「ヨスケ、なんで、鍵は」

「親御さんに合鍵をもらっていたんだ。……ミユノ、これ、渡し忘れた。ちゃんと食べるんだよ」

 ヨスケは、先程の煙草の痕に包帯を巻いた手で、私に七個入りのホワイトファイアをくれた。

「ヨスケ、大丈夫だった?」

「うん。俺は大丈夫。ミユノは? 帰り道はどうだった?」

「覚えていないの」

「そっか、覚えていないのか。少しゆっくり休むといい。甘いものは緊張しているときにはいいらしいから、ちゃんとマシュマロを食べなさい」

「はい」

「期間限定のイチゴ味もあったんだけれど、普通のとどっちがいい?」

「期間限定」

「わかった、来週買って来るよ」

 ヨスケはぎこちなく笑った。笑うのが得意なヨスケには珍しい現象だった。

 ヨスケはこう見えて頭がいいので、喧嘩もできるだけ穏便に済ませたのだろう。ついでに言うとヨスケは私と際限なくいちゃつきたがるので、不快に思う人も多い。今回のような未遂を含めれば、喧嘩の回数も、高校生男子としては中の上くらいはあるようだった。怪我をすることはめったにない。激情をあしらう仕事にでもつけば安泰だろう。まあ、ヨスケのことだ、どこでどういった仕事に就いても安泰なのだろう。

 けれど、ヨスケ、あなたは、何も、訊かないのだろうか。

「ヨスケ離れて!」

 私の声ではなかった。

 衝撃があって、私もヨスケも、尻餅をついた。ヨスケに覆い被さるようにヤイが四つに這っている。

「ヨスケ、危ない、離れて、早く」

 ヤイは何やらひどく慌てている。

「ヤイ、ヨスケがどうしたの」

「ヨスケ、ミユノは魔女だ、魔女は人間から生気を吸い取る、吸い取られた人間は死ぬ、僕は昔そういう魔女を狩ったからわかる、魔女は危険だ、魔女を弱体化させるのが僕の務めだ、魔女は何かを呪っていてそれゆえ孤独で強かだ、孤独であればあるほど強かだし強かであればあるほど人を愛することはできない、そこで仮初の愛を生むことで呪う気持ちを紛れさせるけれどその役割はヨスケには無理だ、魔女が呪いゆえに罪を犯さないよう導くのが僕だ、ミユノの呪いは強い、狩らないといけない、弱った人間ほど上手に人を頼る、魔女は決して人を頼らない、健康な人間がせっつかれなければ病院に行かないのと同じことだ、つまりミユノは決して人を頼らない、ヨスケ、人間にはこの仕事は無理だ、危険だ、逃げてくれ、ミユノが呪っているのは世界だ、その中でも特に」

「ヤイ、黙って」

 私に構わずよくわからないことをつらつらと話すのに耐えかねて、ヤイをひっつかんで少し早い夕食をとった。ヤイがへなへなとヨスケの上に倒れる。気絶まで三秒ほどだった。

 ヤイの口が、私かヨスケか、どちらかを呼ぼうとしたようだった。私だといいな、可愛いヤイのことだからきっと私なのだろうな、となんとなく思いながら、言葉を選ぶ。

「ヨスケ、あのね」

「ミユノ」

 ヨスケは私の言葉を遮った。

「こいつが何を言ったか俺にはよくわからない。こいつは、ミユノのなんなんだ? 俺とするようなことはしたのか? 俺にしないことまでしたのか?」

「あのね、ヤイからは食事をとるだけで」

「その食事っていうのは、どういうのなんだ?」

 私は初めて、あからさまな食欲に気付いた。

 目の前のヨスケは若く、瑞々しい。この生気を、喰らいたい。

「ちょっとしてみる……?」

 私はヤイをずいとどかし、尻餅をついたままのヨスケにまたがって、顔を近付けヨスケの表情を伺った。ヨスケは戸惑いの中で、頬なんか染めたりして、控えめに頷いた。ああ、おいしそうだ。

 す、と私の唇がヨスケの生気に触れ、瞬間、私は息が苦しくなってヨスケの上に転がり、音を立てて息をする。今までのどんな過呼吸よりも苦しい。息ができないのではない。息が意味をなさないのだ。

「ミユノ、ミユノ……?」

 ヨスケはしばらく呆然として私を呼んでいたが、少しすると「ヤイさん、ヤイさん」と騒ぎ始めた。

 私は目がちかちかし始めて目を閉じた。苦痛のまどろみの中で、ヤイが起き上がったのが判る。

「あ、あ……ヨスケ、ミユノは」

「ヤイさん、ミユノの様子がおかしいんです、俺から食事をしたら、突然」

「食事?」

 ヤイは引き金を引かれたように覚醒したようだ。

「生気が混じってしまったなら、非常にまずい。ガビキラーと漂白剤を混ぜるようなものだ。ミユノの中で混ざった生気は有毒ガスのように吸い取られる前の持ち主にも影響する。手段はなくはないけれど、ミユノは助からないかもしれない、もしかしたら僕たちも」

「中和することはできないんですか」

「あんまりそういう問題でもない」

「では、ミユノが死んだら、その混ざったものはどうなるんですか」

「死ぬというのは、生気がゼロになる特殊なケースだ。ミユノが死んだら、もしかしたら僕もヨスケも引っ張られてゼロになる、即ち死ぬかもしれない」

「では、俺が死んだら、ミユノの中の俺の生気がゼロになって、ミユノもヤイさんも助かるんですか、それとも、三人、誰が欠けても、全員死ぬんですか」

 私は驚いて、目を開けた。けれどもう私の目は光を処理できなくなっていて、ヨスケがどんな表情をしているかまではわからなかった。

 けれど、初めて、ヨスケを、いいな、と思った。

「ミユノの中が純になりさえすれば助かる。だから、僕か、ヨスケか、どちらかがゼロになれば、ほかは助かる」

 私はするすると体が楽になっていくのが分かった。私は、魔女ではなくなったのだ、孤独でもなくなったのだ、胸が高鳴っている、体が楽になったことへの生理的な反応かもしれなかった、けれどどうでもよかった、いま、私は、きっとヨスケが好きなのだ、あんなにくだらなく思えた恋愛というものは、こんなにも悦ばしいことだったのか、ああ、ああ、気持ちがいい、気持ちがいい!

 私はしばし快楽を味わった。そうだというのに、滑稽なほど体は動かない。それこそ、軽油を入れられた車のようだ。

 軽油を入れられた車は、助かるのだろうか。一度入った軽油は、ゼロになることがあるのだろうか。

 ヤイが私を見ているようだった。ヨスケが不安そうにヤイを呼んだ。

「ヨスケ。ミユノは、もう魔女ではないよ。だけれど、不純物が絡まって、うまく動けないみたい。ヨスケ、ミユノを大事にしてあげて。ミユノが、これから何をどう呪おうとしても、止めてあげて。今までミユノが呪っていたのはヨスケだった。正確にはさっき言った通り、世界だった。ミユノにとって、ヨスケだけが、世界との接点だったんだ。その世界に、ミユノは、惚れてしまったみたいだね」

 とん、とマネキンを突き飛ばすような衣擦れの音がして、体に緩やかな衝撃と温かい重さを感じた。制汗剤のにおいだ、私のおなかに尻餅をついているのはヨスケだろうか。

「じゃあね、女王。ミユノはもう女王なんかじゃなく、普通の、ふっつうーの、女の子になっていいんだよ。あとごはん食べてね、ヨスケと一緒に、ホワイトファイア食べて、あれ、おいしいよ」

 ヤイ、おまえはもしかして、我々の恋愛を護ろうとしているのではないかい?

 その意味を考えつかないほどの具合の悪さはとうに抜けていた。けれど私はかつてなく勝手だった。ヤイには申し訳ないと思う。でも、私はヨスケと少しでも長く生きていたかった。ヨスケが死ぬかもしれないのなら、ヤイ、私はおまえを殺してでも私はヨスケと生きていたい。

 温かな重さが強張った。直後、空気が軽くなるような感覚があって、体が動くようにもなって、私は目を開けて飛び起きようとした。しかしながらヨスケの重さにまた横になる羽目になった。不思議と、邪魔だとは思わなかった。むしろ、ヨスケの重さと温かさに安心したみたいだった。なんというか、無性にヨスケに「ごめんなさい」と千回繰り返して、舌を噛むたびに、あるいは息が足りなくなるたびに一回目からやり直して、許してもらいたくなった。

「ヨスケ……?」

「ミユノ、ヤイさんが……」

 ヤイを探す。ヤイは、窓の逆光の中、ぐったりと動かないで、髪を散らばして横になっている。

 ヨスケが私の上から体をどかし、果敢にも立ち上がった。そこで私は、ヨスケを、何と言うのだろう、これがあれだろうか、いわゆる、好き、というものになってしまったことに、もう一度気付いた。体が、かつてなくゆんゆんする。

「ヨスケ、何があったの」

「わからない、急に動かなくなったんだ」

 ヤイの体が、腹から折れるように窓際に引っ張られていくように動いている。ヨスケと私は状況を一生懸命咀嚼していた。いつ飲み込めるだろう。

「ヤイ……?」

 私は、ヤイがゼロになっていることに気付いた。

「ミユノ、ヤイさん、動いてない?」

 ヨスケが、ヤイの向かう窓側を見ながら言った。

「ヤイは、もうゼロだよ。向こうに何かいるんだ。ヨスケ、ちゃんといろいろが終わったら、改めて謝るね。まずは、ゼロになったヤイに謝るね」

「ゼロって、ヤイさんは、死んだのか?」

「縁起の悪いことを言わないで」

「ごめん」

「その通り死んでいるのだけれど」

「……ごめん」

 ヤイはゼロになっているけれど、ゼロでない者が、ヨスケの示した窓の外にいる。

 私は、八百万の神様に、ごめんなさいをした。十字も切ったし手のひらも合わせた。何をしたってヤイが戻ってこないのは知っていた。私はヤイを悼むという行為をしたかった。ヤイはどんな思いでゼロになったのだろう。私とヨスケを応援すると言うのなら、私はヨスケと幸せになろう。

 その一方で、私は軽率な行動をしたと後悔していた。いっときの欲求に負けて、知らされていたリスクを知りながら、安直な食欲に浅はかにもつられて手を出してしまった。どんな愚者よりも愚かだろう。ヤイを殺してしまうくらいなら、苦しくても動いて窓から飛び降りればよかった。私がヤイを殺したのだ。何をのうのうと謝っているのか。それで済むとでも思うのか。

 どちらの思考が先に結論にたどり着くかのレースだった。ヨスケとの幸せと、ヤイへの後悔だ。三秒に満たないレース、世界一速く勝敗のわかる競技に勝ったのは後悔のほうで、勝者はヨスケとの幸せをも、その勝者自身の一部にしてしまった。後悔するのなら幸せなどを受け取るべきではない、そんなばかみたいで見当違いで誰に教えられたわけでもない、けれどなぜか付き従うのが義務のように感じられるその行き場のなくなった思いは、呪いとなったようだった。

「ヤイ、ごめん、私はまだごはんは食べられないみたいだ」

 私は、自分を呪う魔女だ。

「やいやい、出てこい」

 私の声にヨスケが驚いた。私は魔女なので、真っ黒いワンピースの裾を直して窓に歩み寄る。魔女の黒いワンピースは喪服なのかもしれない。

 ふっと思いついて、私は振り返ってヨスケに言った。

「ごめんね、ヨスケ、私、ホワイトファイアは嫌いなの。私じゃなくこの子が食べるのでもいいなら、今度は期間限定のを買ってきて」

 新たな奴隷が、窓越しに女王を睨んでいた。

 ぶったらその仏頂面はどんなふうに鳴くだろうか。

この作品は読み切りです。どうもありがとうございました。愉快なお話でなくてごめんなさい。

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