4.襲撃
舞台が例の部屋から移り、お話が動き出します。よろしければ、読んでいってください。
全く音の無い部屋に戻った。彼女自身の胸の鼓動が、すぐ側で聞こえてきそうな程、途方も無く静かだった。
ナナはゆっくりと顔を上げて、目の前の壁をじっと凝視した。
不意に、そうだ、と思った。あれは窓なんかじゃなくて、映画のスクリーンと同じなんだ。あの光景は偽物に違いない。
だけど、そう考えると、ここは本当にどこなんだろうか。
思考が、堂々巡りしてしまう。
「とにかく、外に出してもらおう。そうすれば、何もかもが解決するかもしれない。もしかしたら、外にでられれば、元の場所に戻れるかも」
元の場所というのがどこを差しているのか、具体的には考えないまま、すっくとナナは立ち上がった。
その時、もの凄い音と衝撃が、部屋全体を震わせた。
ナナの体は、まるで紙切れのように軽々と持ち上がり、そのまま壁に叩きつけられた。
目の前が真っ白に煙って、何が起こったのか全くわからなかった。
「ご主人様ー!」
扉が開かれ、そう呼ぶ声が聞こえた。
やがて、空間が元の透明さを取り戻し始めた。
さっきまでナナが腰掛けていたベッドの向こうには、先ほどスクリーンに映っていた、空飛ぶ乗り物が、潰れたフロント部分を、無様に晒した状態で横たわっていた。
もちろん、その乗り物の周囲では、崩れ落ちた壁の残骸が山となったり、散らばっていたりした。
乗り物が壁を突き破って入ってきたという、単純明快な事実よりも彼女に衝撃を与えたのは、突き破られてできた穴の向こうに見える光景が、先ほど見た都市の景色と寸分も違っていなかったという事だった。
映画みたいなスクリーンなどではなかったのだ。
ナナの思考は、束の間ではあったが停止した。
現実へと引き戻したのは、あの男の言葉だった。
「もうこの場所が? ご主人様を狙っている奴らです! 逃げましょう!」
「私を狙ってる? どうして?」
ナナを狙って現れたその奴らは、猫くらいの大きさで、虫に似た格好をしており、動きはまるでアシダカグモのように滑らかな、銀色の自律駆動する機械群だった。
彼女にとってその見た目は、生理的に受け付ける事の出来ない存在だった。
「質問は後にしてください」
そう言うと彼は、ひょいとナナを抱えた。またしても、お姫様抱っこで。
「ちょっ!」
悲鳴に似た抗議の声を上げたが、彼は、全く聞いていない様子だった。
扉を乱暴に開いて部屋を出ると、廊下をもの凄い速さで走っていく。自転車くらいなら、追い越せそうなスピードだ。
廊下に響くのは、背後から迫りくる機械達の音だけで、それ以外は誰もいない、静かなものだった。それだけに、追跡者の発する規則的な金属音は、彼女に恐怖を抱かせた。
廊下をどのように進んだのかわからないが、男は不意に立ち止まった。そして、呟いた。
「囲まれる」
「え?」
ギチギチという気分を悪くする機械音は、ますます大きくなっていく。もう反響のせいで、どの方向から聞こえてくるのかわからなくなった。
前方しかナナには見ることができないが、廊下の曲がり角を、あの虫のような刺客達が曲って、こちらに殺到してくるのがわかった。
すると、彼はナナを地面に立たせた。それから、左手をナナの背中に回し、短いながらも強い口調で言った。
「しっかり掴まってください」
ナナは少し躊躇したが、言われたように彼の体にしがみ付き、目をぎゅっと閉じた。
固く、冷たい感触があった。
体が浮遊する重力変化の後、風邪が感じられた。次の瞬間、もうナナは、彼の両腕に抱かれていた。
目を開くと、すぐ目の前に例の男が、しゃがんでいた。周囲は狭く、それ程長身の高くない彼女すら、普通に立つ事は出来ないくらい天井が低い。
「ここは?」
「通気口です」
二人が入ってきたと思しき穴から下方を見ると、あの機械達が積み重なるようにして、背を伸ばしていた。
「次期に奴らも、ここに到達します。さあ」
ナナは下を眺めながら、思った。
(こんなに高いのに、この人、跳んだの?)
ナナは、四つん這いで通気ダクト内を進みながら、前を行く男の事を考えていた。
彼が一体何者なのか。そこに尽きる。
彼女が今知り得ている情報は、男が自分の世話と護衛を兼ねているという事と、マスターという人に、それを命じられているという、この二点のみ。
マスターとは主人の事だが、彼は彼女の事を主人と呼んでいる。どうやら、主人が二人いるらしい。
「あともう少しです」
彼はナナに顔を向けて、励ますような口調でそう言った。
通気ダクトを数十分程彷徨った後、光の漏れだす穴から二人は降りた。
その部屋は、二人が入ればもういっぱいになるくらい狭い小部屋で、よく知りもしない男女二人が身を潜めるには、抵抗があった。
けれども、安全な場所である事は間違いなさそうだ。
壁は滑らかな手触りだが、コンクリートのように、頑丈そうな素材で出来ているようで、厚さも相当あるみたいだ。それに加えて、扉は重たげな金属で出来ているようで、天井の光源を受けて鈍く光っている。
「よく、こんな逃げ込むには、最適な場所に来れたわね」
少々皮肉混じりに、ナナは言った。
ナナがそんな事を口走ってしまったのは、彼についていくら考えても、思考が堂々巡りするだけなので、いい加減うんざりしていたのだ。
「はい。調べました」
さも当然の事のように、男はそう宣った。
「調べた? いつの間に?」
彼は、表情に困惑の色を浮かべた。
ナナは、真っ直ぐ彼の瞳を睨み付けた。
「ご主人様?」
「やめて」
彼女は、声を抑えて冷静さを強調した。
「私はあなたの主人なんかじゃない」
困り顔で彼は言う。
「しかし」
ナナはそれを遮り、尋ねた。
「あなたは一体誰?」
「私はマスターよりあなたのお世話と護衛を……」
「それはもう聞いた。そもそもあなた、何ていう名前なの?」
ナナは苛立ちを辛うじて隠しながら、そう尋ねた。
「名前?」
訊き返した彼は、押し黙った。
ナナは辛抱強く答えが返ってくるのを待った。
彼は何かを心の中で決めたらしく、意思の宿った目をして、こう言った。
「私を識別するものでしたら、SG-0710です」
彼女は初め、それが何で構成されているかさえわからず、僅かな間、無言で口を噤んでしまった。
それから、ようやく理解し、答えた。
「何それ? アルファベットと数字? 名前ってそういうものじゃないでしょう?」
「私には、わかりません」
そう言った彼は、明らかに消沈していた。
彼女は小さくため息をついた。
「私はナナ。私を私としているもの。あなたをあなたにしているものは?」
彼は困惑の表情を崩し、破顔して言った。
「それならわかります。私は、あなたを護るために存在を許されました」
ナナは惚けたように口をぽかんと開けて、またしても言葉を失った。
そして、自分とこの青年との間には、大きな隔たりがあるのだと悟った。
「いいわ。あなたは私じゃない。それもまた事実だもんね。取り敢えず、呼び名は必要だから。たしか、なんとか0710だっけ?」
「SG-0710です」
彼は嬉々として答えた。
「うーん……レイ、ナナ、イチ、レイ。レイナトウ……レナト、レナード。うん、レナード! ねえ、あなたの事、これからレナードって呼ぼう。いいでしょ?」
「それは、私のナマエですか?」
「うん、うん」
「ありがとうございます、ご主人様!」
ナナは苦虫を噛み潰したように顔をしかめると、レナードの口元に、人差し指を立てて言った。
「ストップ! 私の名前は、ナナ」
「ナナ、様!」
「うーん。様、はやめてくれる? まだ、鳥肌が……」
「それでは」
レナードはあからさまに難色を示した。
「じゃあ、主人からの命令って事でどう?」
ナナは、冗談めかして言った。
「わかりました。……ナナ」
「よろしい」
ナナは、口許に笑みを浮かべた。
考えてみれば、目覚めて以来、初めて笑った事になる。
しかし、その笑みも長くは続かなかった。
次の瞬間、二人の表情は良くない形で固まった。
読んで頂き、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。