3.グランディスタ
ナナが今どういう場所にいるのか、知るお話です。ぜひ、読んでいってください。
ナナは、ベッドに腰掛け、相も変わらず自分の事を、『ご主人様』と宣って憚らない男と対峙していた。
彼は今、ナナの前に片膝をついて、頭を垂れた状態で体全体の動きをピタリと止めていた。
この体勢が意味する事。それは、絶対的な服従。さすがに、彼女もそれには気づいていたが、どうして男がそのような態度を取るのか、全く心当たりが無かった。
「ねえねえ、あなた。どうして……そんな風にしてるの?」
ナナは彼が今取っている体勢をどう説明すべきなのかわからず、つい曖昧な表現をしてしまった。これでは、相手にこちらの意図が伝わらない。
彼女自身が心配した通り、顔を上げた彼の頭上には、疑問符が浮かんでいるように見えた。
「うーん。どうして膝を付いて、頭を下げて、そんなに遠慮してるの?」
割と上手く説明できたような気がして、ナナはほんの僅かだが満足感を得た。
しかし、相手に意図が伝わったとしても、満足のいく答えが帰ってくるかどうかは、全くの別問題だった。
彼はまっすぐにこちらを見て、生真面目な表情で、自信たっぷりに答えた。
「それは、あなたがご主人様だからです!」
間違ってはいない。だが、求めていた返事とも違う。
ナナは両手で頭を抱えて、小さく唸った。
すると彼は、心配そうにナナの顔を覗き込んで、言った。
「ご主人様?」
彼女の中で何かが控えめに爆ぜた。
「とりあえず、ご主人様って呼ぶのはやめて!」
思いの外大きな声が出て、微かに部屋の中を反響した。
男はほとんど顔を変える事無く、驚いた様子は見えなかった。それに対して、言葉を発したナナの方が、余程驚いている様子であたふたした。
彼は落ち着いた風に一度頭を下げた。
「わかりました。しかし、他の呼び方を、私は知らされていないのです」
男は顔を上げて、ナナを見上げた。
なるほどと、彼女は納得した。
「私の事はナナって呼んで」
すると、彼は目を細め、口を横に開いて笑顔を作ると、弾むような嬉々とした声色で彼女の名を呼んだ。
「はい。ナナ様」
彼女はがっくりと肩を落とし、絶望した。
その様に、男はまたしても頭上に疑問符を浮かべて、彼女の無力感に満ちた顔を、下方から覗き見た。
「あのさぁ、私はあなたの一体何なのぉ?」
「私がマスターに命じられているのは、ナナ様のお世話をする事と、ナナ様の安全をお護りする事。この二点です」
ナナはぽかんと口をと目を開けて、放心した。あまりにも現実から遠く離れてしまっている、と。
放たれた心が徐々に戻ってきた彼女は、最優先の疑問に辿り着いた。
「え、ちょっと待って。私って、今どういう状況なの? お世話はともかくとして、護られなくちゃいけないくらい、危険な場所にいるの? 一体、ここはどこなの?」
一気に吐露されたそれらの問いは、つまり不安の顕現したものだった。
男はそれら彼女の発した不安を、ただの質問と捉えたらしく、一つ一つ淡々と答えるだけだった。
「ナナ様は今、大変危険な状況です。拐かそうとする者、命を付け狙う者、おそらくどちらもあり得ます」
「そんな……」
当に、二の句が継げなかった。
「ご安心ください。ナナ様の事は、私がお護り致します」
真剣な口調で、彼はそう宣言したが、ナナにはその言葉が、まるで聞こえていなかった。
それ故に、同じような事を重ねて口にするだけだった。
「ここは一体どこなの? あなたは、誰?」
男は幼い子供をあやすように優しく、残酷な答えを告げた。
「ここはグランディスタ。私はあなたの守護者です。それ以上でも、以下でもありません」
その場所について、そこがどこなのか、ナナには全く心当たりがなかった。
「グラン……ディスタ」
彼女は惚けたように、今初めて聴いた地名を、ただ繰り返した。
「ナナ様がご存知無いのも、無理はありません」
彼はそう言って、音も無く立ち上がると、ベッドから離れて、一番近い壁の方へと歩いていく。
一体何をしようというのか、彼女は彼の行動に注視した。
何の特徴もないアイボリーの壁。それに、彼が手を触れた瞬間、壁は消失した。
正確には、壁は窓に変わったのだ。それも、触れた側の壁全体が。
窓に映し出された光景は、ナナの想像を容易に飛び越えたものだった。
まず、目に入ってきたのは、すぐ目前をかすめるように飛んで行った、流線型の飛行物体。多分、中に人がいる乗り物だろう。
そ乗り物は一つでなく、無数に『空』を飛んでいた。と、思ったが、どうやら、誤りだったようだ。
厳密に『空』は存在しておらず、上にあるのは雨雲のような色の天井だった。
上下の区別無く、高い塔のような鋭利な姿をした建物が、見渡す限りに林立していた。さながら、ハリネズミが地面と天井に張り付いているかのようだ。
どうやらここは、地下に造られた都市であるらしい。
ナナが、そんな風景に圧倒されながら呆然と眺めていると、異様というか異質な建物があるのに気が付いた。
大地から天井までを貫いているそれは、この都市を支えている大黒柱と言われれば、そのまま信じてしまいそうになる程大きい。
また、例の飛行物体が、すぐ近くを、今度はゆっくりと駆け抜けていった。
ナナは、予想外の度を超えた光景に、意識が遠くなっていくような感覚と、受け入れたくないという思いとが、交錯して、複雑な感情を脳内に作り出し、最後には、圧倒するような悲しみに帰結した。
「ゴメン、独りにしてくれる?」
彼は、俯いた彼女を気遣うような素振りをしたが、掛ける言葉が見つからなかったのか、躊躇いながらも、素直に部屋を出ていった。
いつの間にか、窓は仄白い壁に戻っていた。
(ここは、私の知ってる世界と違う)
ナナは心の中で呟くと、膝を抱いて、熱を帯び始めた目を思い切り当てながら、込み上げてくる想いにされるがまま、さめざめと涙を流した。
読んで頂き、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。