1.棺
第二章の幕開けです。
もう一つの物語が始まります。
どんよりとした垂れ込めた黒色の雨雲から、大粒の雨が降っている。
ほんのさっきまで彼も、当たると痛いくらい強いあの雨の中を、全速力で走っていた。
雨なんか、ただの水でしかない。それなのに、どうして人は、そんなただの水を避ける為に、必死になるのか。
その末に人は、傘やレインコート、そして軒下等、雨を避ける目的で様々なものを生み出してきた。
今、彼がいるのは、軒下のようなもの。少し作りが無骨ではあるが、雨を避けるには十分だった。
彼が佇む軒下のようなものは、軒の部分がやけに長い。ずっと奥まで続いている。
途中で既に軒下ではなく、屋内と呼ぶべきなのかもしれないが、残念な事にその境界は曖昧だ。
それも当前の事だった。
人の手によるものではない。
先程から軒下のようなものと表現しているそれを、人は洞穴とか岩窟とか呼び、同様に認識する。
彼、ハジメはどうしようか迷っていた。その洞穴の奥に進んでみるべきかどうか。
雨を凌ぐ為であれば、その場にただ立っていればいい。
だが、彼の好奇心は抑えがたいものがあった。誰だって、一度は憧憬の念を抱かずにはいられない。洞窟と聞けば。
知らない物事を、自分の手で明らかにするという行為。
探究である。
それは人としての喜びであり、理性を超えた何かが突き動かす、崇高な行いである。
おそらく、脳の原始的な部分が、体と心の制御を一時的に奪い去ることによって起こるのだ。
そうこうしている間に、ハジメのつま先は、抗う事も無いままに、洞窟の奥へと向きを変えていた。
一層激しく降り出す雨が、何かを告げているような、または後ろ髪を引いている気がしたが、そんなあえかな思いも、脳の原始的な部分によって、呆気無く握り潰されたも同然だった。
そうして、ハジメはふらふらと暗がりの方へ歩き始めた。
一歩、二歩、三歩と、彼は歩数を数えながら歩いた。それは、何もする事のない時にやってしまう、彼の癖だった。何も歩数に限った事ではない。時間や、目の前を通った人の数など、数える気にさえなってしまえば、何でも構わなかった。
ハジメが二十二歩くらい数えた辺りで、洞窟はやや方向を右側に変えた。
一気に周囲は暗くなった。入口から差し込む日中の明かりが届かない死角、影になった為だ。
それまで、彼自身よりも少し先を進んでいた影法師が徐々に薄れ、次第に消えていった。
振り返っても、光は岩壁を明るくしているだけだ。
しかし、その僅かな光さえも、やがて消えてしまうだろう。
ハジメは、独りである事を強烈に感じた。
気が付くと、ハジメは雨に打たれて歩いていた。
それはとても不思議な事かもしれない。
それまで、彼はどこで何をして、雨に打たれていたのか。そんな当たり前な事でさえも、思い出せなかった。
彼が今まで歩んできた人生や環境。そういうのはもちろん覚えていた。
抜け落ちた記憶、それは境界だ。
その場所が、彼の生きていた場所とは決定的に違う事なら、直感的に理解出来ていた。
彼方から此方へと、どのようにしてやって来たのか、まさしく境界線がわからなくなっている。
当然のように、彼は混乱した。だが、その混乱は、比較的早い内に治まってしまった。
その理由は、彼の性格にある。
「まぁ、なるようにしかならないよな」
ハジメはそんな適当な言葉を、心の支え、信条としているくらいだ。
それにしても降り止まない雨。
ハジメは、ろくに効きもしない視界を頼って、雨宿りできそうな場所を探していた。
そして、好奇心をもれなく刺激してくれる洞穴付きの、軒下のようなものを見つけたのだった。
雨の音はもう聞こえなくなっていた。だからといって、雨が止んだ等とは考えない。単に、そんな音さえも届かなくなっただけだ。
来た方に目を遣っても、針穴程度の光すら見えない。
今は、洞窟の壁を両手で探りながら、横歩きで奥に進んでいる。この洞穴、一本道のようだが、存外道が蛇行しているらしく、脳天気に大手を振って歩いていたら、顔面を強打するくらいの事があっても不思議ではない。
さっきまで抗えない程だった彼の好奇心は、随分縮小されてしまっていて、代わりに恐怖心が拡大の一途を辿っている。
奥に何かあって欲しいというポジティブ寄りの思いと、あってもろくな物じゃない、あるいはただの行き止まりであればいいというネガティブ寄りの思いとが、胸の内でせめぎ合っている。
そんな葛藤が、後者の有利を決定付けるに至った頃、遠くの方に薄っすらと光が差しているのが目に飛び込んできた。
どうやら、洞窟の天井部に穴が空いているらしく、光の帯が差し込んでいた。
次第に、雨の振り込んでくる音も聞こえてきた。
ハジメは壁から手を離し、光に向かって走り出した。その行為はさながら、光に飛んでいく羽虫だ。
光というか、雨というかを浴びながら、彼は奥の暗がりに何かを見つけた。
全長二メートル程はあるだろうか。大きな直方体の箱のような物体だ。
少しの間でも光の中にいた所為か、瞳孔が狭まって、夜目が全くと言っていい程利かなくなっていた為、全く何も見えてこない。
少しずつ目が暗さに慣れて、ハジメは不用意にその箱に近付いた。
箱を上から覗き込む行為に及ぶ前に、彼は腰を抜かしそうになった。
そしてノーガードでハードなパンチを食らったボクサーよろしく、後ろに数歩よろめきながら退いた。
その箱は透明で、中のものが容易に窺える。
中には、目を閉ざし、微動だにしない人の姿があった。
洞窟の奥、隠されたように鎮座する箱は、棺だった。
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