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ラ・メトリの書  作者: 柚田縁
第一章 セヴンス・エスケープ
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2.ご主人様

真っ白な部屋に、一人の男が入ってきます。ナナと彼のやり取りです。ぜひ、読んでいってください。

 痛みに閉じていた目を開けて見上げると、長身の若い男性が立っていた。

 雪のように白い肌に、葦毛色の髪をした端整な顔立ちの男だ。


 その人物は、童話の中から飛び出してきた王子様のようにも思われたが、ナナにはそんな事よりもむしろ、ドアで打ち倒された事からくる怒りの方が優先された。


 ナナは勢いよく立ち上がり、相手を睨みつけた。

 立ち上がってみて、尚更男の大きさが感じられた。完全に、見上げる体勢だ。

 怯みながらも、ナナが何かきつい一言でもと考えていると、不意に言葉が通じるのだろうかと、不安になった。


 彼女がそう思い悩んでいる間に、斜め上にあった筈の上半身が消えた。

 ゆっくりと、視線を下げていくと、男は腰から上半身を直角に折り曲げていた。

 そして。


「申し訳ありません!」


部屋中に反響するような、張りのある大きな声。

 ナナは、さっきまでの怒りもどこへやら、きょとんとしてしまった。いったい、自分の目の前で何がどうなっているのか。


 彼はいったん上体を起こし、流れる水のように優雅な所作で腰を落とし、片膝を付くと、今度はナナの顔を見上げてから、言葉を続けた。


「お怪我はございませんか?」


 本当に心配しているらしいという事は、ハの字に下がった眉尻と、まっすぐに向けられる目を見ればわかった。まるで、捨てられた子犬のような目だ。


 ナナは、なんだかいたたまれないような気持ちになって、どぎまぎしながら答えた。


「いや、その、痛かったけど大丈夫!」


彼女は、元気である事をアピールする為に、声に無駄とも思えるほどの抑揚を加えておいた。

 しかし、それでも男の表情は変わらず、下がった目尻には光るものさえ見えたような気がした。

 どうしてなのか、彼女の方が申し訳ないような気分になってしまう。


「だから、大丈夫だって! そんなに心配しないで、ね?」


「そうですか?」


彼は、少しほっとしたような、穏やかな笑みを浮かべた。


「うん。そうそう」


「それならば良かったです。ご主人様にお怪我を負わせるような事があっては、私の存在……」


「ちょっ、ちょっと待って!」


ナナは聞き捨てならない単語を耳にして、男の話を制した。


「何でしょうか?」


 くるくるとよく変わる表情。今は、頭の上に疑問符が浮かんでいるのが見えそうだが、それでいてどこか嬉しそうな顔をして、ナナを見つめていた。


「今、ご主人……様、とか言わなかった?」


彼女は震えるような声色で、彼に確認した。


「はい。それが何か?」


 全身に鳥肌が立った。

 それから彼女は、寒気を吹き飛ばす為、両腕を胸の前で交差し、それぞれ反対の二の腕から肩の辺りを何度もさすった。


 男は首を横に傾けると、眉根を寄せてから彼女に問いかけた。


「どうかされましたか?」


「寒気がしたの! あなたの所為で」


不用意にそう答えたのがいけなかった。


「それはいけません!」


そう言うと彼は、自分が着用していた真っ白な上着を脱いで、彼女の肩に掛けようとした。

 ナナは咄嗟に上着を避けようと、一歩右足を引いた。

 その途端、右足に力が入らず、再び尻もちをつく羽目になった。

 そこへ、ふんわりと、彼の上着が降りてくる。長身なだけあって、その上着の丈は彼女にとって、ちょっとした布団のような長さだった。

 俊敏な動きで駆け寄ってくる、男性。


「お足が悪いのですか?」


 ナナは床に足を伸ばし、右足をさすった。痛みは全く無いが、少し痺れているのか、手で触れる感触が鈍い。

 そういえば、ドアの前に来る時も、足運びがおぼつかず、転ばないよう慎重に歩いてきた事を思い出す。


「うーん、どうしたんだろう」


 独り言のつもりだったが、それに対して、男は言った。


「わかりました。お任せください」


「へ?」


そんな間の抜けた返事が、部屋の中空を漂っている間に、彼は音も無くさらに一歩近寄ってきた。

 ナナは何が始まるのかわからないまま、それを凝視していた。


 やがて、彼はナナの膝裏に右腕を、もう片方の腕を首の後ろに差し込むと、軽々と私を抱き上げた。

 いわゆる、お姫様抱っこだ。

 ナナの顔面は急速に熱を持ち始め、水平線ギリギリに浮かぶ夕日のように、真っ赤な色へと染まった。


「ちょっ……やめ、ああもう!」


彼女は激しく手足を闇雲に動かし、抵抗した。

 しかし、彼の顔や胸部他、至る所に手足が何度当たっても、彼はほとんど無反応で、金属で出来ているみたいに盤石そうな腕から逃れる事は、不可能だった。


 そして、とうとう彼女は、目の覚めた始まりの場所であるベッドの上に横たえられた。

 さっきは気づかなかったが、そのベッドはとても寝心地の良いものだった。スプリングのような機械的な仕掛けというよりは材質の特徴のようで、反発力は強すぎず弱すぎず、最高級のウォーター・ベッドのような感触だった。


 だが、今はそんな事どうでも良かった。

 ナナが額に汗を滲ませながら、呼吸を整えようと深呼吸していると、男はこんな事を言った。


「ご主人様、呼吸の回数が正常より多いようです。どうしました?」


もう、何も言い返す力は残っていなかった。


 その代わりに、心の中で呟いた。


(あんたの所為なんだから。お願いだから、放っておいてよぉ)


 男はまた、ついさっきこの世に生まれたばかりの赤ん坊のように、無垢な顔で首を傾げていた。

読んで頂き、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。

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