19.モナドの海
深く深く落ちていくナナの意識。そこで待っていたのは、かつてヒトであった者達の意識。
沈んでいる。
初めはその感覚だけがあった。
視界は真っ暗。何も聞こえない。
匂い。そう言えば、微かにだが、消毒液のような、オゾンのような、そんな鼻にツンとくる匂いがする。
まだ沈んでいる。
どこまで降りていくのだろうか。
底まで?
底なんてものが、果たしてあるのだろうか?
光?
下の方が僅かに光っている。
誰?
耳元で、ざわざわ声が聞こえる。
沈んでいく感覚が薄れてきた。誰かにフワリと支えられているように。
突然、ナナの感覚が研ぎ澄まされたように鋭くなり、ぼんやりとしか認識できなかった周囲の状況が、末梢神経を通す事無く、直接頭へと入ってきた。
気が付くと彼女は、人の姿のまま、一糸もまとわぬ姿で、青い世界の中に、たった一人存在していた。
「誰だ?」
「ここにいる?」
「違う!」
「何故だ!」
断片的に聞こえてくる声。
ナナには、その声が何を言っているのか、まるでわからなかった。
目から入ってくる光が、青白く澄み切っている。何かに似ていると思った。
(そうだ、ここはアニマの中なんだ)
ナナはそのように理解した。
青く輝きを放つアニマの世界。そこには、さらさらとした細かな粒子が漂っていた。
それは、アニマを構成する最小の単位、単子だ。
単子の海で聞こえてくるそれらの声は、意識を持ったままアニマの中に溶け出した、何者かのものだ。
ナナは、もう一度彼らの声に注意を向けた。
「ヒトではないな?」
「では、何者だ?」
今度は、彼らの言わんとする事がわかった。
ナナは、彼らに答えることにした。
(私はヒトではないわ。人間なの)
ひっきりなしに聞こえてくるノイズまみれの声が、ピタリと一斉に止まり、空間がひっそりと静まり返った。
ナナはどこか不安な気持ちになってきた。
やがて、何を言っているのかは理解できないが、とにかく何かを囁くような声が、再び周囲を包み込んだ。
ナナは少しホッとして、さらに、ここにいる目的を伝えようと、強く頭の中で言葉を思い描いた。
(私は、レナードという意識を探してるの! 誰か知らない?)
次の瞬間、囁き声がはっきりとした言葉に変わった。
「人間?」
「人間だと?」
「人間がいる?」
「本当に人間か?」
満足のいく返答は返ってこなかった。
ナナはもう一度、彼等に尋ねた。
(あのね、レナードを知らない?)
「何故人間がここにいる!」
「人間めが!」
「人間が憎い!」
「人間など出て行け!」
ナナは心臓を掴み取られたように、驚いた。
彼らは、何故か人間を敵対視している。
(え? どうしてそんな……。キャッ!)
何かわからないが、物理的な衝撃が、彼女を襲った。
見ると、周囲を満たしている単子が集まって、青色の濃い部分が生じていた。それが物理的な衝撃を与えたようだ。
おそらく、意識体そのものだろう。
意識体は辺りにいくらでも散らばっていた。それらが今、ナナのもとに集まってきている。
「妬ましい人間」
「不完全な存在のくせに!」
「命を持つに値しない!」
「それなのに何故」
「何故、我々はお前らの姿をしているのか」
「解せぬ」
「この世界に、二つの種は必要ない!」
一気に捲し立ててくる様々な意識に、ナナは怯んだ。
弱気な心で、彼女は言葉を返した。
(わからない、私にはわからないわ)
「ふん、それでこそ人間」
「無知なる者よ」
「役立たずの人間」
「その様な存在、消えてしまえ」
「消えてしまえ!」
「消えてしまえ!」
「消えてしまえ!」
「消えてしまえ!」
「消えてしまえ! ……」
一斉に青い意識体が、ブルブルと震え出し、動き始めた。
近くを漂っていた者が、まず彼女の方へぶつかってきた。
(うっ、痛い……)
衝撃は矢継ぎ早に襲って来る。
その度に、ナナは唸り声を上げた。
ひとしきり彼らの攻撃が済み、少し静かになった。
とは言っても、耳元では絶えず呪詛のような声が、聞こえ続けていた。
アニマの中にいる彼女は、肉体を伴わない精神体。それでも、普通に痛みを感じている。精神体も傷ついたりするのだろうか?
ナナは、自分の体がどうなっているのか、確認してみた。
ここへ降りてきたときと比べ、随分と薄くなって、向こう側が透けて見える。
このまま、敵対している意識体の攻撃を受け続ければ、彼女の存在はどんどん薄くなって、最後には単子の一部として、四散して消えてしまうだろう。
ナナは、視覚を前方に向けた。何故か、攻撃が止んでいる。濃い青の意識体は見えなくなっていた。
(もう終わったの?)
そう思った瞬間、彼女の視界の端を、何かが通り抜けた。それを目で追った。
その意識体は、ナナの背後に回り込み、吸い込まれる様に、青い巨大な塊へと入っていき、一体となった。
(何? あれ)
それは、複数の意識体が合体して巨大化した単子の塊。まるで、青空のように、濃い青色をしていた。
それらが凄まじい存在量を持っているのは、明らかだった。
やがて、塊は、ゆっくりと動き始めた。
さながら、青の濁流といった風だ。
「人間は消してくれる!」
複数の重なり合った、叫ぶような声が、単子の海全体を大きく震わせて、響き渡った。
不意に立ち上がった波が、彼女を見下ろす。
(飲み込まれる)
そう、ナナは確信した。
粘性のある物体が落下するように、ボタッボタッと降りてきたかと思うと、彼女の体にまとわり付いて、最後に顔面を覆う。青い燐光すら見えなくなった。
直後、途方もない質量がのしかかってきて、呆気無く彼女は潰されてしまった。
逃げようと藻掻いても、彼女自体に動く力はなかった。
ここへも、半自動的に沈んでやって来ただけなのだから。
ナナという存在は、今にも消えてしまいそうだった。
(意識が死んだら、どうなるんだろう)
多分、イドの周りで積み重なったヒトの残骸に、珍しい人間の屍が一つ加わるだけだ。
恐怖すら感じない。ただ、これから起こる事を受け入れるだけ。
(ああ、ここまでなんだ)
ナナの最後の呟きは、無力感に包まれていた。
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