43.光降る
しんとした室内。突き刺さるような視線を浴びながら、少年は一見無邪気な笑みでみんなに手を振っている。
ふと、彼は左右に振っていた手を止めた。その目は、壁に背を貼りつかせるみたいにして震えていた男に注がれていた。
男の歳姿は老人といっても間違いにはならないくらいで、服装にはどこか品のようなものがある。背にはやや黄色みがかった立派な羽が二対あることからもわかるが、この国における身分は高い方なのだろう。
そんな老人に、少年は言った。
「なんだ、お前そんなところにいたのかー」
彼の声は抑揚のない、それ故一層冷たくも厳しい口調に聞こえた。
「何故、あなたがここに!」
年上は敬え。そんな言葉を、ハジメはどこかで聞いたことがあった。この不可思議な世界に同様の概念が通用するかどうかはさておき、目の前では真逆のことが行われている。少年は老人に『お前』と言い、老人は少年を『あなた』と呼んだ。
ハジメは両者の顔を見比べ、最後に少年の顔、主に表情の推移をじっと見守った。
「お前が大事に大事に閉じ込めている僕……いや、僕の顔形をしているのは、ただの木偶人形だよ。それこそ、アニマすら入っていない」
老人は目をカッと見開き、少年の声に被せるような形で叫んだ。
「そんな……そんなこと出来る筈がない!」
「そうだよね。ふつうはそう考える。でもね、出来損ないのお前を騙すことくらいは出来たらしいよ」
「出来損ない……?」
「そうさ。お前はここで造物主である僕に反旗を翻したんだ。アニマが不純だったのかな?」
少し前からうすうす感じていたが、ハジメはやっと今、確信を持つことが出来た。さっきから共に行動している風変わりな少年こそが、この国を治めるウィンディア・マスターだと。
そのことがわかったとしても、ハジメの胸に驚きはわいてこなかった。ただ、ずっと感じていた歯車の齟齬にも似た薄っすら気持ち悪い感覚が、小気味良ささえ伴って消えただけ。
「出来損ない……出来損ない。私が……」
老人は頭を抱え、うわ言のようにそんなことを呟きつつ、崩れ去る砂像のように床へ座り込んでしまった。
ふと気が付くと、周囲が騒がしくなっていた。ずっと様子を見守っていたここの職員達にも、少年の身分がわかり始めていたのだろう。
そのうちの誰か一人が、ざわめきの中でこう言った。
「あのヒト……いや、あの方がウィンディア・マスター……?」
具体性を持ったその言葉を境に、波紋が広がっていく。個々の声量が大きくなり悲鳴すらが混じり出し、ざわめきはちょっとした混乱へと変わった。
おそらく、こんなことでもなければ生涯出会うことのなかった自らの主を前にして、どういう態度をとっていいのかわからずに戸惑っているのだろう。
「みんな、そんなに畏まらなくてもいいんだ。僕はダメなマスターだ。こんな大事になるまで気付くことさえできなかったんだから。本当に、言葉もない」
ウィンディア・マスターは深々と頭を下げた。
自分の非を見つめ、謝罪が出来る。そんな支配者の治める国。
ハジメは今までになく、ウィンディアとそのマスターに興味のようなものを持った。それから、マスターに何か声をかけようと一歩踏み出した時、背後に気配を感じた。
振り返るよりも早くハジメの首は強い力で締められ、一瞬にして意識が遠のくのを感じた。
辛うじて先ほどの老人に首を絞められているのだと分かるも、肺の中の空気が少なく、藻掻きようがない。
すぐ耳元でがなり立てるような声がして、今にも麻痺しそうな頭の中で幾度も反響した。
「動くんじゃない!」
「人質を取るとは、お前はいよいよ出来損ないだね」
ハジメは、自分が人質にされていることを、その時点で知った。
首に回された老人の腕に力が入った。
「出来損ないと言うな!」
(挑発するんじゃねー)
彼はそう言ってやりたかったが、声にすることは出来なかった。
「私はあなたの代わりにウィンディアの執政を行うため造られた。生まれながらのエリートじゃないか! 出来損ないなどではない!」
「そうだな。お前の言うとおりだ。しかし、僕は今、自らの過ちを目前にして心を痛めているところなんだ」
(早く……助けろ)
老人は興奮のあまり言葉を失ったらしく、獣のように唸り声を上げるだけ。その度に、首は締まったり緩んだりする。
その時、エレベーターの扉が開かれる音がして、数人の話し声がハジメの耳に届けられた。
「本当にここなの? レイナ」
「まさか、こんなに簡単にバロールへ入っていけるとはな」
ミレイ、サイレント・ジャガーの声、そしてレイナがいるらしい。ハジメは鈍くなった思考力でそう答えを導いた。
「何だか取り込み中のようね」
「ヒトがやたらいるな。ん?」
宰相は声の方へ振り返った。ハジメが見ていた視界は様変わりした。
「何者だ!」
その声と同時に、二枚の翼がグッと持ち上がった。
例の三人が目を丸くして見ていたのは、老人の片腕で首を絞められているハジメの姿だ。
彼は、ほんの数分前に別れただけの彼女達がひどく懐かしく思えて、少し眼前がぼやけてきた。
「ハジメ君! どうしたの!」
「ふむ。我々の客人にそのようなことを」
レイナは無言だが、憤っているのが雰囲気で伝わってきた。
「丁度いいところに来たね、みんな。でも、これは僕の失態。僕の責任なんだ。だから……!」
そう言い放ったウィンディア・マスターの背に、光をまとった翼が二対、合計四翼が現れた。同時に、マスターの体は上昇を始めた。
光る粒が雪のようにひらひらと降って来た。その粒の出所は、無論マスターの翼だ。
その場にいる誰もが、神々しい彼の姿に見惚れていた。宰相さえも例外ではなく、ハジメを捕らえていた腕から、少しずつ力が抜けてきていた。
やがて、ウィンディア・マスターの上昇は天井ぎりぎりで停止。そして、一度だけ翼がゆらり翻ってはためく。
室内だというのに、風がもの凄い勢いで吹き荒れ始めた。紙片等の軽いものは空中へ飛び出していく。
ハジメは目を閉じ、風をやり過ごした。その途中、老人の腕から解かれ、彼はその場に座り込んだ。
風が通り過ぎた後になって目を開くと、もうマスターは何事もなかったように床の上で立っていた。もう、あの綺麗な翼も見えない。
ハジメはゆっくりと立ち上がり、振り返った。
宰相が若干斜に立っていた。その表情は、恐怖に慄いたまま凍り付いたように動かない。その理由は、彼の足元に転がった両腕の件と関係があるだろうか。
そう考えつつ、じっとその腕を見つめていると、忘れていたみたいにアニマの青白い光が零れ出し、床に染み込んで消えていった。
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