37.クロッシング Part 2
外では強くなる一方の風だが、巨人の体内はガラス瓶の中に組み立てられた帆船の如き盤石さだ。ぬるま湯に浸かったような安心しきった顔で、その男は独り言を漏らした。
「ふん、アガートラームめ。小癪なことをしてくれる。しかし、私の邪魔はさせぬ。誰にも。たとえ、あの男であっても……な。今、この国の実権を掌握しているのが誰なのか、奴にも思い知らせてやる!」
一方、吹き荒ぶその風を身に浴びながら、煮え湯を滾らせる烈火のように怒りを顕にする大柄な男は、天に向かって叫ぶ。
「おのれ、宰相。どこまでも性根の腐った奴め! この状況で竜巻を発生させるとは! 敵兵の中にもまだ生存している者達がいるというのに!」
そんな彼の元を目指して、一陣の疾風となった少年が涙声で言う。
「ああぁぁぁぁ、最悪だ最悪だ。こんなことになるなんて情報、なかったよね。早くみんなと合流しないとぉ……」
自分に向かって飛んでくる岩石を避けたり打ち落としたりしながら、男は呟く。
「こんなことしている場合ではないのですが。せめてナナがこの近くにいないことを願います」
少女は愕然と立ち尽くし、無意識に言葉を発した。
「この真っ黒な雲。あの時、見たやつと同じだ。スーパー……なんとかって言ってたけど」
隣でその独り言を聞いて、男が言った。
「スーパーセルのことだよな。これはいよいよやべーぞ。どう見たって、竜巻じゃねーか。しかもこっちに来てる」
普段の冷静さを忘れ、慌てふためく彼女は誰へともなく尋ねる。
「大変! 早く安全な所に避難……って、安全な所なんてあるの?」
涙目の若者はこんなことを呻いた。
「こんな時、グランディスタの自動車があれば……」
そして、寡黙な女は一人だけ我が道を行く問いを放つ。
「ねぇ。そんなことより、何故フィレスタ・マスターが? 取引って何? 説明して」
それぞれが、それぞれの立場で、その時が来るのを迎えようとしていた。
強まる風に、ギシギシと不安を掻き立てる音ばかりが響き、浮き足立つ皆々。
ここで混乱に任せて右往左往するだけでは、竜巻に呑まれてしまうのを待つことに等しい。
ミレイは上ずった声で、その場の全員に提案した。
「とにかく、このアーケードを抜けましょう! あの竜巻から離れなくちゃ!」
「そ、そ、そうしましょう!」
臆病風を吹かせたロミオが、真っ先にそう賛同する。
ナナは「うん」と答えると、やや迷いながら振り返り、アーケードの奥へ続く長い道を見据えた。
「それはいいから、フィレスタ・マスターとの取引について……」
サイレント・ジャガーは、竜巻を目視した後にもかかわらず、相も変わらず同じことを聞いてくる。
ハジメは半ば呆れ、「しつこいな」と一笑に付した。
けれど、彼は一人同意し兼ねていた。本能的なものなのか、いくら考えてもその理由が見つからない。例えるなら、何か忘れ物をしているようなそんな気持ちに、後ろ髪を引かれている。
そういった彼の判断の遅延が、皆を巻き込むことになった。
「ハジメ君、どうしたの?」
「いや……」
彼はそう言って、天井を見上げると首を左右に動かして何か、自分の気持ちを知る手掛かりを見つけようとした。
急に風がアーケード街に入り込んできた。それは、立っているのもやっとなくらいの突風で、何人かはその場にしゃがんでやり過ごした。
そして、吹き抜けた風は薄く簡素なアーケードの天井を軽々と突き破り、プラスチック製の板を数枚落下させた。
それが終わりではない。むしろ、始まりだった。
連鎖的に屋根はバラバラと落ち、左右のビルの窓ガラスは割れ、破片が霰のように降り注ぐ。
幸い、怪我をした者はいなかったが、各々の足は根を生やしたように動きを止めた。こうしている今も風がアーケード内に入り込んで、暴虐の限りを尽くしている。
もう、アーケードの奥へ逃げ込むのは、かえって危険だということが、誰の目にも明らかとなった。
「ごめん、俺がもたついていたから……」
ハジメは眼を伏せ、謝罪の言葉を発したが、誰も彼を責めようとはしなかった。
「そんことないよ。あのまま奥へ行っていたら、私達も巻き込まれてた」
そう慰めたのは、ナナ。他の面々も、頷くことでハジメを擁護した。
一区切りついた頃、皆はこれからどうすべきかを考え始めた。けれども、凄まじい音を轟かせ迫りくる竜巻に注意を取られて、熟考しようとするも上手くいかなかった。
誰かが深い溜め息を吐くも、顔を上げて、誰なのかを確認しようとする者はいない。
絶望。そんな言葉が皆の頭の中でその巨大な姿をもたげ出した時、不意に竜巻の轟音を切り裂いて爆音が響いた。
全員の視線が、一ヶ所に集中する。猛烈な横風に煽られることもなく、一人の少女が砂煙の中から出現した。
「レイナ!」
ハジメが叫んだものの、声は彼女のもとに届かなかったらしい。
レイナは寒気がするくらい冷徹な顔で、注意深く周囲を見回している。何か、もしくは誰かを探しているのだ。
「レイナー!」
今度はミレイが声の限りに呼んだ。その甲高い声は、重低音に包まれたこの空間を走り抜けて、彼女の鼓膜を振わせた。
レイナの目はまず、声の主を捉えた。ほんの僅かに表情を崩し、安心したみたい目尻を下げた。それから、その場に集まっていた全員を、一人一人確認していく。その度に、厳しかった顔が、柔和になっていった。
最後、ハジメの姿を捉えると、彼女は何もかもを忘れたように顔色を失い、固まった。それから、ゆっくり口が開き、何か言いたげに動いた。
ハジメは柄にもなく口許を綻ばせて、大きく手を振った。
彼女は表情の希薄だった顔をくしゃくしゃにして、今にも泣き出しそうにしながら走り出した。
しかし、次の瞬間、彼女はつんのめって前に倒れた。何かに躓いたのではなかった。よく見ると、レイナの右足にワイヤーのようなものが絡まっていた。
「大丈夫か、レイナ!」
もうもうと立ち込めていた砂煙りが、風によって連れ去られていくと、その向こうからもう一人の影姿が浮かび上がった。
ハジメはそれをきちんと確認するよりも早く、彼女のもとへ駆け出した。
「レナード?」
「何?」
ハジメは足を止め、声のした背後を振り返る。ナナだ。彼女も走り寄ってくる。
彼女が自分の横を通り過ぎて行った後、ハジメはその背を追うように元の方へ向き直る。砂煙りの向こうでワイヤーを握り、こちらを睨みつける男が一人。その顔を見て、ハジメは戦慄した。
「嘘だろ……?」
「どうしたの? レナード……」
ナナはそう言って、背中に突き刺さる視線に気が付いたのか、振り返る。ミレイ、ロミオが胡乱な目でレナードとナナを代わるがわる見ていた。
レイナは立ち上がり、ワイヤーの根を持つレナードを睨み返した。そこにいるのが、不倶戴天の敵と言わんばかりに。
ハジメは力なく両腕を下に垂らし、二、三歩後ずさって、レナードを指差した。しかし、言いたいことは言葉とならない。
ただ、彼が前にしているその男の相貌は、レイナの敵に他ならない。彼女を破壊する目的で作られた、あの二人と同じ顔をしているのだから。
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