33.早耳兎の企て
ほんの少し冷気を帯びた秋風が、天を貫くような建造物の頂で、巨大な風車を回し続けている。それと同じ風を全身に浴び、少年は呼吸を整える為に深呼吸を何度か繰り返していた。もう、何回めなのかわからなくなるくらい、ずっと。
彼は一心に屋内へと通じる唯一の扉を見つめ続けていた。多少の時間稼ぎ工作は施していたが、いずれこの屋上へやって来る者がいるだろう。
下の方で爆音が響く度、少年は打ち震え、そこから逃げ出したい衝動に駆られたが、彼には彼の譲れない覚悟があった。
この国を変える。具体的に何をどうしたいか、それを考えるのは彼の仕事ではない。誰かの理想に乗っかっている身でしかないかもしれないが、同志達は今もこうして政府軍と戦っている。それだけでも、彼には十分意味があった。
今度は揺れを伴った爆発。
「ぅうっ」
傍で横たわる人間が、音に反応して呻いた。まだ、目をさます時間ではない。これこそが、アガートラームの、引いてはシルバー・クロウの最後の切り札だ。
ラピッド・ラビットは、今現在、戦況がどうなっているのか本能的に知りたかったが、その場を動く事は出来ないでいた。
彼の高感度性能を誇る耳は、既に階段を駆け上がってくる足音を拾っていた。それは急速に大きくなり、やがては扉が勢い良く開かれた。
現れたのは彼と同じくらいの背丈をしている、一見するとただの少女でしかないのだが、実態は最強最悪の重力使い。まともに戦って勝てる相手ではない。
レイナと呼ばれているらしいその少女は、何も言わずに近づいてくる。彼女は、怒りと悲しみの混じり合った複雑な表情を顔に浮かべている。それなのに、口を開こうとはしない。
一体何故なのか。
ラピッド・ラビットが考える事にタスクを割いている間に、レイナは立ち止まっていた。その距離、約五メートル。
彼女は力なく垂らした両腕をゆっくりと持ち上げて、胸の前で止めた。その手のひらは、上の方に向いている。
心なし、ラピッド・ラビットは片足を後退させた。
しかし、現れたのはスケッチ・ブックとペンの、筆談セットだった。彼はその時初めて、彼女が口を利けないと知った。てっきり、何らかの武器が出てくると思っていた為、やや拍子抜けした感はあったが、油断はしてないつもりだ。
しばらくして、レイナが最初に訴えたのは、『ハジメを返して!』というものだった。
彼は答えた。無論、口頭で。
「そういう訳にはいかない」
『どうして? ハジメをどうするつもりなの?』
「別にどうもしないよ。ただ、彼には役割があるんだ」
彼女は眉間に皺を寄せて、目尻を下げた。瞳は潤んでいる。本当に、そういう部分だけを見れば、普通に可愛らしいだけの女の子でしかない。
レイナはまたスケッチ・ブックに、何か言いたい事を書き始めた。それを、遮るように彼は言った。
「言っておくけど、その役割、彼にきちんと了承をもらっているんだ。彼も協力してくれているんだよ」
彼女は顔を上げて、素直に驚きを表現した。そして、整然とした文字列を、白紙の上に並べた。
『そんな筈ない』
「いや、事実だよ」
『だったら、どうしてハジメを眠らせたの』
「暴れたからさ」
ラピッド・ラビットの脳裏に、ハジメが彼女と会った時の事が蘇った。確か、彼が暴れ出したのは、レイナをその目に捉えた瞬間だった。
風に吹き寄せられた雲に太陽が遮られ、日差しが弱くなった。ラピッド・ラビットは空を仰ぎ、太陽の位置を確認すると心の中で呟いた。
(まだ、時間が必要だ)
と。
レイナは、もどかしさのあまり頭の中の回路がショートしたように、何も考える事ができなくなった。もどかしいのは、相手との交渉がうまく行かない事に対してもそうだが、何よりも自分の声が出ない為にスムーズな会話が出来ない事だ。
ハジメはさっき言っていた。
『どうして何も言わないんだ、レイナ!』
何も言えなかった事で、彼を何か誤解させてしまったかもしれない。レイナはそれが気になり出していた。
今、ハジメは眠らされている状態だ。仮に目が覚めたとして、話が出来なくなった彼女の事をどうするだろう。なんだかんだと言っても、結局優しい彼の事だから、何とかしようと頑張ってくれるかもしれない。
そこまで考えて、レイナの気持ちは一気に冷え始めた。如何ともし難い事実が、浮上したからだ。何においても、全ては傍に彼を取り戻さなければ、始まらない。
濃度の濃くなった唾液を、無理やり喉の奥に追いやって嚥下すると、彼女は少年を見据えた。彼は一歩足を下げ、横たわるハジメを一瞬見やると、首を横に何度か振った。まっすぐ見返してくる少年は、どこか決然とした様子だ。
レイナは息を吐くと、跳ぶように駆け出した。同時に動いた少年の方が、僅かに俊敏だったようで、彼の繰り出す跳び蹴りを、彼女は防御の姿勢で防ぐ。直接触れた腕には、想像していたよりもずっと強力な衝撃があった。彼女の小さな身体は、後方へと大きく飛ばされる。
思えば、彼はハジメを抱えた状態でもの凄い跳躍を見せて、ロビーから空中の渡り廊下へ飛び移った事実があった。そこから、彼の脚力を推し量るべきだった。
それ程広くない屋上だ。そのままの勢いでいたら、フェンスを飛び越えてしまい兼ねない。けれど、重力制御装置が自動的に勢いを殺して、屋上に着地させてくれた。
両者、暫しの間凍りついたように動かなくなった。互いが互いに少なからず驚いたのだ。
少年はぽかんと開けられた口を閉じ、渋い顔をしてレイナに視線を向けた。
一方、レイナは表情をなくし、対峙する相手との距離を一跳躍で詰めた。着地する瞬間、彼女は眩惑に襲われたものの、また次の瞬間には元に戻ったので、すぐにその感覚は忘却の滝壺へと沈んでしまった。
どの方角から吹いてきたのか、湿り気を帯びた風が一度纏わり付くようにして、どこかへ過ぎていく。音が遠くなったような気がして耳を澄ますと、静けさとは程遠い事がわかった。
そんな折、少年が口を開いた。
「さすがだね。重力使いだと聞いていたけど、さっきみたいに勢いを殺すみたいな使い方もあるんだ」
何か答えねばいけないだろうか。そう考えたが、筆談セットを取り出すのも何だか鬱陶しい。
だが、彼はまだお喋りを続けたいらしい。
「それにしてもどうしてグランディスタからこのウィンディアまでやって来たんだい? 存在理由は何なの?」
何が狙いなのか。
尚も口を閉ざそうとしない少年。
彼の話を聞き流し、レイナはこの状況の不自然さを考えた。
どうして逃げたのが屋上なのか。いくら慌てていたとしても、最終的に行き止まりに行き当たってしまう事は、少し頭を使えばわかるものだ。大体、罠を仕掛けておいたくらいなのだから、多少の冷静さは持っていた筈。
そして何より、今この瞬間にでも、ハジメを担いで隣の建物に跳んで逃げる事くらい、彼の脚力を使えば朝飯前だろう。
答えは、今以て続けられている、この時間稼ぎ工作にある。
「君が話す事出来ないのはわかってるけど、少しくらい答えてくれてもいいんじゃない? スケッチ・ブックとペンがあるじゃないか」
きっと、この屋上で、何か起死回生の事態が起こるのだ。
レイナは改めて屋上を見回してみたが、殺風景なもので、出入り口とフェンスがあるだけ。
「うっ! 頭が……」
突如、眠っていたハジメが、絞り出すような声を発した。
「こんな時に……」
悔しそうに、少年がそう漏らした。
レイナは目覚めたハジメの方へ駆け出した。
「そうはさせないよ!」
彼女は少年の蹴りを警戒し、足元に視線を落とした。
「くらえ、キーック!」
そう言いながら、彼はレイナの後頭部に拳を振り降ろした。
余り痛くはなかったが、その場にうずくまるレイナ。精神的に負ったダメージが大きかった。
「ちゃんと前を見てなくちゃねー。それじゃ、ほんの少し早い時間だけどバイバイ」
立ち上がると、ハジメとあの少年はその場から消えていた。
周囲の建物を見ると、ちょうど逆光になる方に、黒い人影がノミのようにピョンピョン飛び跳ねていた。
それを見つけたと同時に、連続する爆発音とともに、足元が大きく揺らぎだした。
レイナは逃げる序でに追い掛けようと、重力制御装置を稼働させようとした。が、急に目の前が真っ暗になり、身体に力が入らなくなってきた。それから、口が強制的に開かれ、大きく息を吸い込んで吐く。
それは、大きな欠伸だった。
彼女は、睡魔に襲われていた。
周囲が揺れているのか、自分一人の感覚なのか、もうそれがわからない。
レイナは、真っ暗な視界の端に赤字のアラートを発見した。
そこには、『エネルギー残量2%』と記されていた。
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