32.再会の後先
何もかもがままならないと塞ぎ込んだハジメの足は、歩く事を半ば拒否していたが、ラピッド・ラビットが無理やり引っ張るものだから、倒れないようにと傾く方へ反射的に足を出す動作により、少しずつながらも歩く事になっていた。
ますます激しくなっていく喧騒の音は、後ろで扉が閉じた時を境に小さくなった。まるで争いそれ自体が小康状態になったか、或いは遠くなったみたいに思われた。
赤絨毯のロビーを、ゆっくりと進む二人の影。
「ちょっとハジメさん、もう少しきちんと歩いてください。進まないじゃないですかぁ」
「……ああ」
ハジメの返事はまるで上の空で、聞いてなどいないのだろう。彼の歩き方が改善される事はなかった。
ラピッド・ラビットは、思わず溜息を漏らした。しかし、息を吐き切る前に、ふと、彼は立ち止まって周囲を見回した。彼は、何か物音を聞いたのだ。
「誰かいるのかなぁ」
言いながら高い天井を仰ぎ見たところ、空中に通された渡り廊下から一人の青年がこちらを見下ろしていた。その瞬間、間違いなく彼と目が合った。
青年は、びっくりした様子で一瞬飛び上がったように見えた。その後彼は、一目散に廊下を渡って去ってしまった。
「一般人……だよね」
そう言ったすぐ後、背後で振動を伴う爆音が響いた。
少年はハッとして、自分が今すべき事を思い出し、進み始めた。
「もうすぐです。このホテルの二階に部屋をとっていますから……」
ラピッド・ラビットは振り返りざまにそう呼びかけた。
すると、ハジメの様子に変化が見られた。その場所から動こうとしないのは同じなのだが、どことなく生き生きとした目をして、遠くを見つめている。やがて、下顎が重力に引き寄せられるようにして、彼は口を開いた。
「なんで……ここに?」
ラピッド・ラビットはハジメの視線の先を追い掛けた。そこには、一人の少女が立っていた。
少女が一体何者なのか、この時ラピッド・ラビットはまだわからなかったが、ハジメが叫んだ呼び名で、愕然とした。
「レイナーーー!」
日頃からラピッド・ラビットの元へ集まってくる膨大な情報の中、確かにそういう名前があった。
「最悪だ……」
やや青ざめた彼の顔に、汗が泡立つように浮かび上がった。
走り出そうとするハジメの腕を引っ張り、彼は今後の方針を考えた。
「おいお前、手を離せー!」
「ちょっと、暴れないでください!」
レイナという少女は二人を見据えたまま、ゆっくり歩み寄ってくる。
ラピッド・ラビットが持つ、彼女の情報とは、街一つを崩壊させる程の力を持つ『最強最悪の重力使い』。先日も、ウィンディア・ポリス近郊で、派手な空中戦の末に、親衛隊級の力を持つ兵士を打ち破ったと聞いていた。
「戦って、勝てる相手じゃない。それなら……」
ラピッド・ラビットはそう漏らし、心を決めた。
「どうして何も言わないんだ、レイナ!」
暴れ叫ぶハジメの首筋に、ラピッド・ラビットは手のひら大の筒状になった注射器を刺し、親指で先端のボタンを押した。
カチッと音がしたと同時に、「痛!」と、ハジメが叫んだ。
「鎮静剤です。悪く思わないでくださいね」
瞬時にハジメの意識は、冷たい闇に包まれていった。
「レイナーーー!」
本当に、ハジメがいた。ついさっき、窓越しに見下ろしたのと、まるでそのままだった。その彼は、今、彼女の名を呼んでいる。
頭の中が空っぽになる。ただもう、引き付けられるように、よたよたとした不安定な足取りで、彼女は歩を進めた。
(ここまで、何の為に来たんやったっけ)
そんな思いが浮かんだが、この瞬間だけはどうでもいいとさえ感じた。
「どうして何も言わないんだ、レイナ!」
レイナはドキッとした。束の間だったが、彼女は声を出せなくなっているのを忘れていた。
彼女は慌てて筆談具をキャパから取り出そうとしたが、その前に、眼前でハジメの昏倒する瞬間を見てしまった。彼は、ぐったりとしたまま動かない。
しばしポカンとした後、不意に思ったのは、ハジメの傍にいる少年だった。その手には、黒い筒が握られている。
(誰やろか……)
若干、機能不全を起こしている思考回路でも、その光景は妙なものとして映った。
一つ言えるのは、その少年がハジメを害したという事だ。すなわち、ハジメと自分の敵なのだ。
彼女は走り出した。
前方では、少年が倒れたハジメを肩に担ごうとしている。
(そうはさせへん)
レイナは走る速度をさらに上げ、一定距離近づいた辺りで跳躍した。
けれども、寸でのところで彼は高く飛んだ。いや、跳んだのだ。飛距離が余りにも高かった為、飛翔していると錯覚した。
少年はロビーの上空を横切る渡り廊下へ着地すると、一瞬、目が追いつかない程の速さで走り去った。
レイナは自分がやって来た方にある階段を見遣ったが、追いつけないと、少年が去った渡り廊下を見上げた。
彼女は、内なる重力制御装置へと呼びかけた。すぐに、体が軽くなるような感覚がやって来た。足元の絨毯を右足で軽く蹴ると、すっと飛び上がっていった。重力の微調整は装置が勝手にやってくれたので、簡単だった。少々ぎこちない飛翔であったが、思った場所へ着地する事が出来た。
少年の後ろ姿は既になかったけれど、彼女は同じ廊下を走り始めた。
少し行くと、壁に張り付くようにして立ち尽くしているロミオがいた。レイナは彼に少年の行き先を、スケッチ・ブックを使って尋ねた。
「ああ、さっき走ってきたヒトですね。多分、2076号室じゃないですか?」
『どうしてわかるの?』
「そうぶつぶつ呟いていたんですよ」
レイナは両手を顔の前で合わせて、ロミオにお辞儀した。ありがとうと言う代わりだ。
2076号室は、角を右に曲がってしばらく行った場所にあった。ドアノブを回してみたが、案の定鍵が掛けられている。
彼女は慌てないように一度深呼吸をした後、ドアノブに指先を触れた。ドア自体が一度軋む音を出して揺れた。その後は、ゴトンと音を立てて、ノブと内部の鍵が床に落ちた。
一体何がどうなったのか、彼女はわからなかったが、視界の端で何やら黄色い明かりが点滅を繰り返していたのに気付いた。どうやら、それは重力制御装置が働いていた事を知らせる通知サインのようだ。
ドアノブが取れた事で空いた穴から室内を伺う。物音どころか、ヒトの気配がない。それ以前に、明かりも点けられておらず、薄暗い。
ドアは軽く手で押しただけで開き、彼女は部屋の中へ静々と足を踏み入れた。
照明のスイッチが壁際にある筈だと、壁に手を這わせそれらしい突起を押した。室内は明るく照らされたが、先程感じたようにヒトの姿はなかった。
代わりに、テーブルの上に紙切れが載せられていたので、それを手に取ってみる。
それはメッセージだった。
『残念でしたーwww』
彼女は無意識に紙切れをくしゃくしゃに丸め、近くのゴミ箱に放っていた。
どうやら、少年の仕掛けた罠に嵌められてしまったらしい。
レイナは退室し、途方にくれた。探す当てがなくなってしまった。
すごすごと廊下を歩いていると、足音が聞こえた。すぐ脇に階段があった。足音は、その上の階から近付いていた。
ぼんやりその階段を見ていると、最初にミレイ、その後ろにナナが続いて降りてきた。
「レイナ! ハジメ君とは会えたの?」
あれを会うと表していいのか迷い、レイナは躊躇ったものの、結局小さく頷いた。
彼女の微妙な態度に疑問を持ったのだろう、ミレイは首を傾げて見せた。
レイナは詳しく説明しようと、スケッチ・ブックとペンを手に取った。だが、どう説明していいのか迷っていると、ミレイの後ろにいたナナが前に出て、言った。
「ラピッド・ラビットが連れて行ってしまったのね?」
コトンとペンが床に落ちた。レイナはナナの両腕を掴んで、何度も頷いた。潤んだ瞳から、ひとしずく溢れた。
「ラピッド・ラビットって、さっき階段ですれ違った……あの?」
「うん。多分、屋上に向かってたのね」
その時点で、レイナの心は決まっていた。周囲を見回し、最速で屋上へ向かう道筋を考える。前方にはエレベーターがあるようだ。
その視線の先を、ミレイは見遣った。
「追いかけるのね、レイナ。でも、エレベーターは今、停止してるわ」
と、彼女は上り階段への道を譲った。
レイナは、微笑むミレイとナナに見送られ、階段を登りだした。
「行ってらっしゃーい」
空では航空機が幾重にも重なり、爆撃を繰り返し、地上では装甲車や戦車の類が走り回っている。
それらを遠目に見る一人の男がいた。
「まあ、随分と騒がしい所ですね。首都というのは」
そう独り言ちると、彼は風になびく髪を手のひらで押さえつけた。
風が吹き過ぎると、呆れたように息を吐き、彼は皮肉っぽく笑った。しかし、その目元は少しも笑っていない、真剣そのものだ。
「こんな物騒な場所にナナがいるんだとしたら、早急に確保しなければ……」
そして彼は、今や戦場となったウィンディア・ポリスに、最初の足跡を刻んだ。
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