30.交渉の行方
眠っては目覚め、また眠るを何度か繰り返す。そんな断片的な眠りを貪りながらハジメは、高い天井に描かれた幾何学模様をぼんやり眺め、深い溜め息を吐いた後、呟いた。
「もう朝なのか」
部屋の中はカーテンの隙から入ってくる日差しに照らされて、仄明るくなっていた。
今夜の彼の寝床は、三人くらい座れそうなソファだった。ベッドは無人。彼がこのソファを選んだのは、ちょっとした気まぐれでしかない。
横たえられた体を起こし、ふらふらと立ち上がった彼は、すぐに立ちくらみに襲われて元のソファに倒れこむ。
「ちっとも眠れた気がしない」
思わず口を突いたのは、気弱な一語だった。
ハジメは片手で目を塞いだ。異様に冷たい手が、瞼を通して眼球の熱を吸い取っていく。
彼はまた溜め息を吐いた。
丁度その時、扉をノックする音が部屋の空気を揺らした。返事をするよりも早く、戸を叩いた者の声があった。
「まだ寝ているのか」
感情の込められていない冷ややかな声。
しかし、そういう物言いをされると、不思議とムキになって声に怒気が入ってしまう。
「もう起きてるよ!」
「それならいい」
何がいいんだ。そんな悪態を口内で押しとどめると、彼は立ち上がって扉の方へ向かった。足のふらつきはどうにもならなかったが、立ちくらみは起きなかった。
彼が出入り口の所まで到着しないうちに、扉の向こうで何やらカチャカチャ音がし始めたかと思うと、不愛想な女が戸を開けて入ってきてしまった。
「はぁ?」
思わず足を止め、ハジメは頓狂な声を上げた。
「あ、本当に起きてた」
「なんで嘘だと思ったんだ……っていうか、それ以上に鍵……」
「朝方のよくある光景だと思った。普通、あと五分……とか言うでしょう」
一時的に彼は閉口したが、彼女が拾わなかった話題を追求した。
「だから、鍵は!」
彼女は悪びれもせず、鍵を顔の前まで持ち上げてシャランと揺らし、「スペア」と言いのけた。
「スペア?」
「そう」
「そうか……」
何か言ってやらないと気が済まない。だが、言うよりも早く、彼女は自分のペースで勝手に話を進め出した。
「そんな事よりも、そろそろ出発するわ」
「……どこに?」
気は進まないが、彼は渋々聞き返した。もう、彼に主導権は降ってこないと知りつつ。
「昨夜、見たでしょう? 大統領府よ。そこで、あなたはあなたの役割を果たすの」
巨大な風車を頂きに掲げた、ウィンディア最大の建造物。それは皆に畏怖の念を込めて『巨人バロール』と呼ばれている。
ホテルから真向いの大統領府へ向かう道中、ハジメの頭の中にはずっとサイレント・ジャガーの放った言葉が巡っていた。
『あなたはあなたの役割を果たすの』
俺の役割。そんな事わかり切っていたし、割り切ってもいた。
捕虜にして交渉の鍵。
どの道、ウィンディア・マスターには会わなければならなかったのだから、別に利用されるとしてもお互い様だ。そう思い、流されるままここまでやってきたのだが、いざとなると、気が重い。
アガートラームと政府の交渉が、上手く行く保証はない。冷静に考えると、むしろ決裂する方がよりあり得るのではないだろうか。決裂したら、どうなるのか。
(嫌だ、考えたくない)
脳は本能的に考えるのを拒絶した。
いつの間にかハジメはホテルのエントランスまでやって来ていた。斜め前を行くサイレント・ジャガーが、一度振り返った。その唇は何か言いたげに一瞬開かれたが、結局何も口にせず前を向いて歩みを遅くした。
高まる緊張感に、心臓が早鐘を打つ。
遮光フィルムの貼られた褐色透明の自動扉が開かれて、眩しい光が迸ってきた。
ハジメは目を閉じ、ゆっくりとまた開いていくと、光の正体が大統領府の窓に反射した朝日だとわかった。
片手で庇を作り視線を降ろしていくと、車道の真ん中付近で威風堂々立つ男の背姿を見つけた。
「シルバー・クロウ」
彼女はその男の名を呼び、駆け寄っていった。
「連れてきた」
「ああ、ご苦労だった」
男の目は迷いなくハジメへと向けられた。少しだけ彼の表情が和らいだような気がした。
「君もよく来てくれた。礼を言う」
「礼なんて……」
様々な事で頭がいっぱいのハジメには、それだけ言うのがやっとだった。
シルバー・クロウは一つ頷き、言った。
「もう次期、約束の時間だ。ウィンディア・マスターが出てくるだろう」
三つの視線は、大統領府の入り口に集中する。
そのまま射るような眼差しで睨みつける事五分。ようやく扉が開かれた。現れたのは五人の黒服に囲まれた、一人の男。
(あれが、ウィンディア・マスターなのか)
ハジメがそう思って見ていると、突然咆哮のような声が飛んだ。
「どういうつもりだ、これは!」
音がするくらい歯を食いしばったシルバー・クロウは、数歩前に進んで続けた。彼が前進した事で、宰相と呼ばれた男の周囲の護衛達は警戒を強めた様子だ。
「宰相殿。マスターは如何なされた」
極限まで感情を抑えた声で、彼は問い質した。
「マスターは残念ながら、君達とお会いにならない。お体の調子が優れないようでな。それよりも、そこにいるのが『人間』という生き物なのか?」
シルバー・クロウは何も答えず、目ばかりを唯々鋭く研ぎ澄ましている。
「ああ、そうだ。俺が人間だ」
ハジメは彼の代わりに返答した。
途端に、宰相はその表情から余裕の笑みを消し、その代わりに侮蔑の瞳を向けた。
「実に耳障りな声だ。それに、苛立たしい。見ているだけで吐き気がする」
吐き捨てるようにそう言うと、宰相は目を背けた。
ハジメは少々笑ってしまった。ここまで嫌われると、単純な怒りなど湧いてこないものらしい。
(人間だからと、ここまで蔑まれたのは初めてだな)
「宰相殿、交渉するお気持ちはあるのでしょうな」
今度は落ち着き払った様子のシルバー・クロウ。もう、いつもの冷静な状態に戻ったようだ。
「一応、そこの人間は貰っておく。マスターのご所望だからな」
「では、こちらの要求も聞いてもらおうか」
「交渉だと?」
宰相はわざとらしく嘲笑を浮かべ、続けた。
「笑わせるな。何故、交渉などする必要がある。しかも、罪人などと、な」
罪人と呼ばれ、シルバー・クロウは感情の読めない顔で黙った。
(罪人。反政府組織を率いているからなのか?)
ハジメはそう考えたが、どうも違うらしい。それは、その後の宰相が言った事からわかった。
「よくもまあ、そんな輩の大義の下に集まったものだな、愚民どもは」
すると、それまで黙って俯いていたサイレント・ジャガーが、小さく呟いた。
「それ以上言うな」
「何か言ったか? 愚民」
「それ以上、言うなと言っている!」
激昂する彼女に、驚き唖然とするハジメ。
彼女が走り出そうとするのを、シルバー・クロウが制した。彼女は不満そうに彼の顔を見上げる。
「俺の事はいいんだ」
「しかし……」
「そんな事より、今の事態は最悪だ。プランCに切り替える」
そんな遣り取りが、ハジメには全部聞こえていたが、出来そうな事は何一つないように思われた。
「交渉決裂だ」
「決裂も何も、交渉自体したつもりはないが、そちらもその気なのだろう?」
(ああ、そうなるのか。やはり)
何を合図にしたのかわからないが、波の音のような大勢の足跡が響き、あっという間もなく周囲二十メートルを取り囲まれていた。全員見た事のある軍服に身を包んでいる。ウィンディアの正規軍のようだった。
シルバー・クロウは、大きく息を吸い込んだかと思うと、いつも着用していた真っ黒なコートを脱ぎ捨て、上空に向かって大声を発した。
「ラピッド・ラビット!」
すると、間もなくして、ホテルの屋上から花火が数発上がった。
遠くから下っ腹に響く重低音が聞こえ始めた。やがて地上に影が差し、空の高いところで大きな旅客機が飛んでいた。
旅客機からは小さく見えるが、ヒトが次々とパラシュートを背負って落下してくる。
「なるほど。その為にお前達はハイジャックを……!」
宰相はやや悔しそうに唇を噛んだが、すぐに口角を横に引き伸ばして笑みを作った。
「所詮、アガートラームなど寄せ集めの集団。正規軍の結束力を見せてやろう」
最早、正面衝突は避けられない。
ハジメは、数歩後退した。その背にカエデのような小さい手が当てられた。振り返ると、少年が立っていた。
「やぁ、僕はラピッド・ラビット。今から安全な場所までお連れしますよ」
「安全な場所だって? そういうのはもう御免だ!」
「駄々を捏ねないでください。あなたは、アガートラームの最後の切り札。ここで失くす訳にはいかないんです」
ハジメはものを言う事ができなくなった。
沈黙を受け入れたものと、ラピッド・ラビットは判断した。彼は、ハジメの手を取って強引に引っ張っていった。
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