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ラ・メトリの書  作者: 柚田縁
第五章 エイス・クロッシング
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27.首都到着(ナナ)

 日没より間もなく。男が一人、巨人のてっぺんで佇んでいた。溜め息の後の、舌打ち。男の心中は焦りからくる苛立ちと、不安による緊張に埋め尽くされていた。


 闇を走る風が、彼の鳶色の翼を撫でるように吹き去っていくのとちょうど同時に、スプリンクラーが回り出した。屋上庭園は今、秋桜(コスモス)が咲き乱れ、揺れている。


 彼は重い口を開いて呟いた。


「上手くいっている筈だ。ここまでに落ち度はない」


口内は乾き、ねっとりとした唾液が、動かした舌にまとわりついてくる。


 無意識に再び溜め息を吐こうとして、大きく息を吸い込んだところで、背後に気配があった。

 彼が振り返ると、軍服を着た女が立っていた。彼女は、帽子を落とさないように敬礼すると、男の待ち望んでいた報を告げた。


「到着したようです」


「来たか!」


「はい。今は向かいのホテルで休んでいると思われます」


彼は満足げに頷くと、自然と緩む口の端を意図的に結び、大きく彼女に労いの言葉を掛けた。


「ご苦労だった。下がっていい」


敬礼の後、彼女は屋上を去った。

 彼以外誰もいなくなったその場で、男は遠慮なしに高々と笑った。


「もうすぐだ。これまで誰も成し得なかった事を、私は……」


ふと、彼は身震いをした。夜風が寒いからか、それとも武者震いか。


「まさか、恐怖ではあるまい。そうだ。この後に、一体何を恐れようというのか」


彼は一先ず安堵の息を吐くと、自分を戒めるように言った。


「ここからが本番なのだ。慎重に、確実に」


スプリンクラーは止まっていた。弱々しく、秋桜の影が揺れる中、彼はまた身を震わせた。


「冷えてきたな」


彼は踵を返し、屋上を後にした。




 目を開いた瞬間、彼女はおかしいと感じた。どこを見ても真っ暗で、何も見えない。

 もしかして、瞼が閉じられたままなのかもしれないと、おもむろに手を顔の辺りまで持ち上げると、沁みないようにそっと指先を目に触れさせる。

 瞼は閉ざされ、両目には鋭い痛みが残った。瞼にかけられた在らぬ疑いは晴れた。瞳は彼女の周囲のあらゆるものを捉えている。ただ、そこに一切の光が存在しないだけなのだ。


 けれども。彼女は考えた。本当に、そんな場所が存在するのだろうか、と。

 不意に思い出したのは、最初の記憶。真っ白な部屋の中で、唐突に目覚めた時の事だ。それは、今と全くの逆だ。目に入ってくる光が多すぎて、何も見えなかった。

 彼女はほんの僅かだけホッとしてから、そんな風に思える自分を微笑(わら)った。


 少しだけ心に余裕が出てきたナナは、自分のいる場所がどこなのか、調べようと上半身を起こそうとしたが、胸部に激痛が走って、また寝床に横たわる事となった。思わず、音にならない呻きが漏れた。

 気が付くと、全身が痛い。中でも、頭の痛さはその他の比ではなかった。恐る恐る手で触れると、自分の髪とは違う感触があり、微かに濡れたような気がした。

 彼女はその手に付いたものの匂いを嗅いだが、全くわからなかった為、躊躇いつつも舌先で舐めた。舌がピリッと痺れたようになって、鉄の味と生臭さが鼻腔を抜けていった。


 血だ。ただ、既に手当をされているらしいと、彼女は知った。他にも痛む所には、軒並み包帯やガーゼといった布が被せられている。ただ、それは熟練したプロの業とは程遠い。頭の包帯はゆるゆるで、今にも解けてしまいそうだし、ガーゼを固定するテープは片方剥がれてしまっていたりと、様々だ。

 ナナは一先ず安心した。少なくとも、彼女をここへ連れてきたヒトは、悪意を持っている訳ではないと、そう思ったからだ。


 彼女はそこで、はたと思い出した。ここに至る直前の事だ。

 翼を持った軍人に連れられて、首都へ移送されている途中、彼女を乗せた航空機は墜落した。


(私、生きてるんだよね)


押し寄せてくる波状の不安。

 ここは一体どこなのか。既に、敵の手に落ちてしまったのか。何より本当に生きているのか。

 それら疑心は限りなく恐怖に近く、彼女の心を粟立たせる。居ても立っても居られない状態だ。


 全身の痛みを押して、彼女はもう一度上体を起こそうとした。胸部だけではなく、背中や腹部にも少なからず痛みがあったが、彼女は耐えた。


(やった!)


起き上がる事に成功した後は、臀部を支点にして直角に体を動かす。地面に足が着いた時、ひんやりとした冷たさが、接触面から毛細管現象を再現したように上ってきた。


 意を決して、彼女は足全体を力一杯固くして、立ち上がった。ただし、ゆらゆら風に揺れるような脆弱さだ。続けて焦りからか、彼女は不用意に足を一歩前に出した。

 その歩行は、上手くいっているかのように思われた。だが、踏み出した一歩に、体がついていかなかった。結果、そのまま歩く方向を変える事なく、立ちはだかった何かに衝突して、膝から崩れた。


 さらさらと揺れる布地が、顔に触れてくすぐったい。


(これは……カーテン?)


手でカーテンを揺らすと、隙間から弱い光が漏れ出した。

 ナナがぶつかったのは、窓だったらしい。白く曇ったガラスの向こうには、ちょうど地平線から昇り来る朝日のぼやけた姿があった。


 何故なのかわからないが、それを見た彼女は目が離せなくなった。太陽が丸い全体を見せる頃、乾き切った目を一度閉じる。途端に頬を伝い始めた涙に自ら困惑しながらも、彼女は日の輝きを見つめ続けた。




 その後、乱暴に戸を開ける音がして、バタバタと足音を立てて、何も言わないまま少女が入ってきた。

 少女は泣いているナナの姿を見て、一瞬足を止めて仰け反ったが、すぐに何かを悟ったように儚げな微笑みを浮かべ、彼女の髪を撫でた。どう見ても年下の少女が、自分を慰めているという構図は、彼女にとっておかしいものだった。次第に、笑いがこみ上げてくる。涙は依然として溢れてくる為、泣き笑いという奇妙な状態が長く続く事となった。


 少女はずっと言葉を発しなかったが、表情が豊かで、意思の疎通はそれ程難しい事ではなかった。

 ナナは不思議だった。その少女と初めて会った気がしない。昔からの友人かそれこそ妹のような、そんな印象を持った。


 しばらくして、ナナの涙が乾いた頃、少女はどこからかスケッチ・ブックとペンを取り出した。


 何を始めるのか、ナナは何度か瞬きをして、真っ白な画用紙と少女を交互に見比べた。少女はスケッチ・ブックに何やら書き始めた。文字だ。


『私はレイナ。ごめんなさい。今、声を出せないの』


「名前があるの? 私はナナ。もしかして、レイナって……」


人間? そう聞こうと考えたが、言葉に詰まった。

 レイナはそれに続く言葉を先読みしたらしい。首を横に振って、さっきの文の下に書き出した。


『私は人間じゃないわ。ただのヒト。だけど、人間の知り合いはいる。レイナって名前は、その人が付けてくれた』


「それって、おじいさん?」


ナナは、アクエリールの湖水地方で出会った老人達を思い出していた。

 レイナはキョトンとして、否定した。


『ナナと同じくらいの歳で、男よ』


「ふーん、私以外に人間がこの世界に来てたのね」


ナナは単純に感心していた。

 レイナは、カーテンの隙間から外に目を遣った。その途端、彼女は血相を変えて、カーテンをしっかり隙間のできないように閉じた。また暗くなったが、ドアは開いていて、廊下の明かりによりお互いの顔くらいは見る事ができた。


「どうしたの? 急に」


レイナは急いでスケッチ・ブックに文字を連ねていった。

 焦りからか、その時は若干読みにくい。


『少し前から、私達を追いかけてくるヒト達がいるの』


「えっ。少し前からって……ひょっとして、私を?」


ナナにはいくらでも心当たりがあった。


(また、無関係な優しいヒトを巻き込んでしまうの?)


彼女は己を呪った。

 対して、レイナは勢いよく首を振った。

『わからない。けど、大丈夫、安心して。こう見えても、私、強いから』


 そう書いた後、彼女は胸を反らせて誇らしげな顔を作った。ナナを元気付けようという意図が見え見えだった。

 しかし、それは本当に作ったような表情で、目許に寂しさのようなものが残されていた。

 ナナはそれを認めながらも、触れてはいけないような気がして、目を逸らした。

読んでくださってありがとうございます!

またのお越しをお待ちしております。

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