10.崩れ去った塔
ハジメが唖然とした顔を凍りつかせて、未だ砂埃舞う中空に視線を向けている内に、周囲が騒がしくなった。野次馬達だ。突然の出来事に、驚きの声や悲鳴を聞くことが出来た。
その一方、歓声までもが響いてくるのに、ハジメは疑問を覚え、ざわめきの中に注意を向けた。
老若男女入り混じった声の中から、当てもなく手掛かりや答えを探し出すのは、難しい事だ。しかし、彼は割りかし容易に、一つの単語へと行き着いた。
(アガートラーム?)
それは、小さな囁きや豪快な喚き問わず、彼の耳が幾度も拾い上げた言葉。
ハジメは辺りを見回し、適当な男性に声を掛けた。
「なぁ、アガートラ……」
最後まで言い切る事なく、ハジメは口を噤んだ。背後で一発の銃声がしたのだ。
思わず振り返り、何が起きたのかを確かめる。憲兵の登場だ。
彼等は全部で四人。その内、先頭に立つ一人が放った一発目の銃弾は、空に向かって撃ち出されたもののようだったが、群衆にはそれでも十分効果的だったようだ。
「おい、貴様らには関係のない事だ! 散れ!」
怒号をきっかけに、辺りは急にしんとして、皆してそれぞれの日常に戻っていった。一様に、不満げな顔をしながら。
「お前も戻れ!」
ハジメは最初、それが自分に向けられたものだと気付く事なく、周囲をきょろきょろと見た。
誰もが去ったその場には、憲兵達と彼自身しかいなくなっていた。行く当てなどなかったが、ともかく彼は慌ててその場から走り去った。
幾つかの角を曲がり、憲兵の視線を逃れた彼は、路地裏で立ち止まった。
荒れた息を落ち着かせるように、深呼吸を繰り返した。それから、細長い四角に切り取られた高い青空を仰いで、一人呟いた。
「アガートラームか」
彼には心当たりのないものだったが、それが塔の崩壊に関わっているのは、自明の理と言えた。
(あの塔は爆弾か何かで破壊されたんだ。そうすると、アガートラームとやらは、その爆弾を仕掛けた者、もしくは者達)
脳裏には既に、二人の人物が浮かんでいた。あの無口な女性と大柄な男。
彼等が塔に爆弾を仕掛けた。そう考えるのが自然だった。
(確かあの女、俺を助ける時に『序で』だと言ったな。もし……)
ハジメは身震いした。
あの時、連れ出されていなければ、彼は今頃瓦礫の下だ。
「素直に……喜べないな」
走った影響か安堵の為か、今更ながら汗が吹き出してくる。
(何はともあれ、俺には関係ない事)
流れてくる汗を袖で拭いながら、彼は路地の細い道を進み始めた。
(本当に、そうなのか……?)
はたと立ち止まり、自問した。
(いやいや。関係ない、関係ない。俺には……)
懸命に片方の足を前へ出そうとするが、錘が括り付けられているみたいに、自由に動かす事が出来ない。
(俺が首を突っ込んだところで、何かがどうなる訳じゃない)
今度は自分に言い聞かせる作戦だ。だが、彼はもう後ろを振り返っていた。
(早く首都へ行かないとけないんだ。面倒事に拘っている場合じゃない)
どうしてなのか、そのまま立っているだけで、胸を締め付けられるように苦しかった。
やがて、彼は長めの息を吐いた。憑き物が落ちるように、苦しさから解放されていく。
「結局、こうなるんだ。ま、なるようになるだろう……」
自棄な半笑いで、彼は前に向かって歩き出した。それはつい今しがた、通って来た道だ。
「そろそろ、このいい加減な方針、止めようかな」
独り言は、狭い路地裏の淀んだ空気の中を漂い、次第に陰に埋もれていった。
建物の外壁の陰に隠れて、崩れ去った塔を遠目に捉える。変わらず吹き続ける風で巻き上げられた砂埃が、住宅地に届き始めていた。それと共に、微かな硝煙の匂いも。
憲兵達は数を増していて、今や十人を超えていた。その内の二人が並び立ち、近くを通るヒトビトを威嚇し、近付いて来る者でもあったなら噛み付きそうなくらい、殺伐とした空気感を持って、周囲に目を光らせていた。それ以外の憲兵達は、草原及び瓦礫の調査に当たっていた。
(また、随分と厳重だな)
おそらく、彼等も塔が崩れた原因を掴んでいる。大きく轟いた爆発音、塔のあった場所を中心に細かく飛び散った壁片、それに立ち込める火薬の香り。
ハジメは、知らぬ間に痛むくらい強く拳を握った。縁などないに等しいが、あの塔で顔を合わせた者、言葉を交わした者がいた。彼等も軍人として実直に働いていただけだ。けれども、今では、あの下にいる。
昂った気持ちから、彼は力の限り壁を殴りつけた。その痛みで我に返ると、彼の姿は既に物陰から出ていた。
(しくじったか!)
見張りの憲兵は、ハジメの方ではなく、正面で一般人と何事か会話していた。
危機一髪と、彼等の死角へ戻ろうとした時、見張りと話をしていたヒトと目が合ってしまった。男はハジメを指さすなり、叫んだ。
「あいつだ! 爆発するちょっと前の塔から出て来た奴だよ!」
(ああ、なるほど。そうなるのか。うん、確かにそうだな)
彼は不思議な程落ち着き払っていた。それは、余りにも正しくて、不条理な為に、自分の置かれた状況を推し量れていない、どこか哀れな反応だった。
それでも、憲兵等が彼の方へ走り出した時、その場から逃げようとする判断力くらいなら、辛うじて残されていた。
走りながら、彼は、誰へともなく訴え掛けていた。
(違うんだ、俺じゃない。確かに、塔から出て来たのは事実だ。でも、俺じゃないんだ)
それらを口に出さなかったのは、相手に伝わるとも思えなかったから。理解してもらえる筈がなかったから。
「止まれー! 止まらんと罪が更に重くなるぞ!」
追い掛ける憲兵は、そう言いながら拳銃を撃ち鳴らしてくる。単なる脅しではないようで、路地の壁や地面が削られる事も多々あった。
罪が重くなる云々と言いつつ、完全に射殺も辞さない構えだ。
ハジメにできる事と言ったら、狭い通路を蛇行しながら走り続けるか、複雑に入り組んだ角を片っ端から曲がっていく他ない。
無秩序に建造されたと思われる住居によって、迷路と化してしまった路地裏界隈。ハジメも当然、道の把握などしていない。その為、最後に行き着く結論は、こうだ。
「袋小路……」
前には壁、左右も壁。振り向くと、迫り来る銃声。
(そうだな。ここで抵抗して打たれて死ぬよりは、捕まって事情を話した方がマシか)
彼は覚悟を決め、両手を上げた。もう少ししたら、憲兵がそこの角を曲がってくる。
腹を決めたその時、爪の先くらいの小さな石が、彼の首の後ろに当たった。
後ろを向くと、そこには壁を伝うように、縄梯子が垂れていた。
彼の頭の中で、天秤が大きく傾いて揺れた。悩む間もなく、彼はその縄梯子に飛び付いた。
背後から銃弾が飛んで来ては、壁に当たって火花を散らす。それでも、彼は登り続けた。
やがて、彼はその梯子を登り切り、屋根の部分に立った。縄梯子は、屋根に突き刺された杭に引っ掛かって固定されていた。
当たり前のように、追跡者も縄梯子を登ってくるだろうと、ハジメは縄梯子を杭から外し、路地に向かって放った。
「良く出来ました」
よく通る低い声と、パラパラと鳴る寂しい二つの拍手。見紛う事なき、先ほど別れた二人だった。
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