46.悪鬼の微笑み
車内には微かな衣擦れの音と、二種類の寝息が響く。モーターの駆動音に至っては、高速で走らせている故に、ヒトが聞き取れる範囲を超えて、耳に届く事はなく、静かだ。
夜の闇の中、走り続ける事五時間。窓の外から見える景色は、うっすらと明るくなってきた。
特にこれといったきっかけもなしに、ミレイは起き出すと、両肘を曲げた状態のままで腕を上げ、こぢんまりと伸びをした。
その様子を、運転席からルームミラーで確認した青年は、やや抑え気味の声で、「おはようございます」と言った。
「おはよう。今、どの辺りを走ってるのかわかる?」
「ウィンディアの国境まで、ちょうど半分くらいです。お昼前には、国境を越えられると思います」
「そう」
(だけど、飛空艇に追いつくのは、どうやったって無理ね。それどころか、こうしている今も、距離は開いていく一方だわ)
ミレイは頭の中で考えると、横で眠っているレイナに目を遣った。時に、止まっているみたいにゆっくりした寝息を立て、口を僅かに開けている彼女の顔は、まるで何も知らない無垢なだけの子供のようだった。
ミレイは愛情や悲哀、羨望等の入り混じった複雑な視線を、レイナに一定の時間送り続けたあと、溜め息を吐いた。
ふいに、レイナは目を開いた。
思わずミレイは目を背け、たった今気が付いたみたいに接した。
「レイナ、起きたの?」
ところが、レイナの様子は少々おかしかった。
まず彼女は、さっき目覚めたばかりだというのに、目を丸く見開いて、銀の瞳にありったけの力を集めたような強さで灰色の天井を見つめ続けている。それに加えて、ミレイの発言をまるで聞いていないのか、目を合わせる事もしない。
ミレイは当惑しレイナの肩を軽く叩いた。
急に彼女は、口を開いて何か早口で口走った。
ミレイはそれを聞き取れなかったが、次の瞬間には、もう事が起こり始めていた。
最初に、運転席から悲鳴のような叫びが上がった。
「ああー!」
グランディスタの特異技術によって、ある程度軽減された慣性力が、乗っていた三人を前方へ引き寄せる。
そして、大きく切られたハンドルによって、車体は横向きに一回転しつつ、車道を逸れて雪原に乗り上げ、最終的に停車した。
前列シートで軽く頭を打ったミレイは、痛む箇所を手で押さえ、前に向かって呼びかけた。
「ちょっと、一体何があったの?」
返事は遅れてやって来た。
「突然、車道にヒトが……!」
「今度は誰を撥ねたの?」
「撥ねてはいませんよ。今回は避けられたと思います」
ミレイは急に寒さを感じ、目を横に向けた。
「あれ? レイナが……」
そこに彼女の姿はなく、ドアが開いていて、微かに揺れていた。つい今し方、開けられたのだ。
ミレイは考えなしに彼女を探そうと、ドアを開けて外へ出た。
ヘッドライトの照らす真っ白な平原に、レイナが立っている。彼女の向いている方には、もう一人誰かが立っているようだが、そこには光が届いておらず、詳細は不明だ。
「レイナー!」
彼女を呼びながら、ミレイは駆け寄ろうとした。
「こっちに来たらあかん!」
「え?」
ミレイは足を止めた。自ずと、彼女の意識はレイナが向かい合っている人物に向けられる。
彼女は、真っ黒な影を目を凝らして見続けた。やがて、その影はゆっくりと前に進み出し、ヘッドライトの当たる明るい舞台に上がった。
「何? なんであなたがいるの……?」
レイナが向かい合っていたヒト、それはサラマンダーの街でロストした、あのシローだった。
強く冷たい風が地吹雪を巻き起こし、ミレイの視界を悪化させたが、彼女の瞼の裏には、その男の姿が焼き付いていて、見紛う筈がなかった。
シローは唐突に言った。
「探していたよ、君を」
彼の目線は、真正面にいるレイナへと向けられている。彼にとって、ミレイなど付録にも満たないのか、一瞥もしない。
「やっと見つけた」
ニッと笑うその顔は、彼の本性さえ知らなければ、好感の持てる部類に分けられるだろう。
少しずつ距離を詰めていくシローに対してレイナは、ぞっとするくらいの怒りに満ちた表情を浮かべ、シローを睨み付けていた。
「僕、わかちゃったんだよね」
「何がや」
初めて、レイナは彼に言葉を返した。
「僕はさ、目覚めた時、自分の型番以外何も覚えていなかったんだ」
レイナと似通った境遇。それは、彼女の表情を僅かに崩した。
「何をしたらいいのかわからない。ずっと、満たされない虚無感に苛まれていた。唯一、心が穏やかになれるのは、何かを傷付けるその刹那だけ。終わってしまえば、またあの感じがやって来る。こんなこと言っても、その恐怖、君にはわからないだろうな」
「いいや。少しやけど、あたしにもわかるとこ、あるわ。あたしもな、自分の事何もわからんで、目ぇ覚めたからな」
シローは一度立ち止まると、レイナの視線と同じ高さになるよう背中を丸め、彼女の顔を伺い、言った。
「へぇ、それは奇遇だなぁ」
「奇遇……いうか、なんや仕組まれとるような気もするわ。そんなん、今はええねん。あたしはな、あんたみたいに最低やない」
「最低……か」そう言った彼は、背筋をピンと伸ばした。
「じゃあ、最低の僕と、君とでは何が違うというのかな」
レイナは目を閉じ、答えた。
「少なくとも、あたしは一人やないな」
そう彼女が言い終わらないうちから、彼は掠れた声でクックと笑い出した。
「それが、僕との違いだというのかい? 残念。僕も一人じゃないんだ」
「何やて?」
「僕には……君がいるからね」
レイナは一歩後退して、自分の肩を抱いて、叫び散らした。
「きっしょい事言うなや! 自惚れも大概にせえよ!」
「実際、僕は君のお陰で虚無感から解放された! 今思えば、最初に君と出会った夜から、僕は心の底から思っていたんだ!」
シローは大きく一歩前に出ると、裂けきった口から禍々しい事を口にした。
「君を破壊したい、とね」
ミレイは身震いをした。無論、寒さからではない。
レイナも、機能を停止したように固まっている。
シローはさらに訴えた。
「僕はね、なくしていた存在理由を見つけ出したんだよ」
「それが、あたしを破壊する事なんやな?」
「そうさ」
純粋に嬉しそうな顔をするシローに対して、レイナは俯いた状態で、周囲に聞こえる最低限度の声量で呟いた。
「それは、好都合やな」
二人の目は、レイナに向けられた。
彼女は素早く顔を上げて、キッと音がするくらいの鋭さを持った目を、シローに向けると、口を利いた。
「あたしもあんたを壊したい、思とったわ!」
水を打ったような静かな明け方。遠い山並みが少しずつはっきりと見えてきた。
ミレイの視界から、二人の姿が消える。
開戦の時。
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