44.奇跡の感情
ふっと我に返った時、ミレイは地下の駐車場にいた。護衛だと言っていたあの黒服の姿は既になく、ここへやって来た時と何も変わらない状況がある。
夢だったらいいのに。祈りとも願いともつかない、ただ無気力な心から生じた、弱々しい考え。
世界大戦の様相を呈し始めた今の危機的な情勢に、自分達が関わっているという現実は、変えようがない。
(どんな綺麗事を言ったって、結局私達が作っているのは兵器なんだ)
それを忘れたりする事はなくても、いつも考えないようにして日々を過ごしてきたのもまた事実だ。
アニマの汚染が発覚して、廃棄処分から逃れた先に得た居場所。その代償が、この身を苛む罪悪であるのなら。
(私達の存在はやはり、罪なんだ)
「どうしたんですか?」
邪気のない目を向けてきたのは、この場所まで連れてきてくれた運転手の青年だ。
どうして、そんな心から心配そうな顔が出来るのか、今のミレイには不思議だった。彼にも、罪の意識のようなものがあるのだろうか。
彼女は何の脈絡もないが、青年に尋ねた。
「あなたは、組織に入ってどれくらい?」
彼は何故そう訊かれたのかわからず、キョトンとしながらも、きっちりと答えた。
「もうすぐ一年くらいです」
「組織のことはどう思う?」
「みんな良くしてくれるんで、不満はないですよ。本当に、どうしたんです?」
自動車のドアを開けながら、彼女は返した。
「うううん、別に。ちょっと聞いてみたくなっただけ」
彼はまだ、組織の一員になって日が浅い。だから、まだ罪悪感を持ってはいないのかもしれない。廃棄処分になるところを助けだされて、生きている充実感に浸っているところのようだ。
そんな日が、かつての自分にもあった事を思い出しながら、彼女は後部座席に乗り込んだ。
ドアを閉じると、ミントの香りがツンと鼻腔をくすぐってくる。不愉快ではないが、以前に乗った時、車内ではそんな臭いしなかった筈だ。彼女は、それがどこからするのか、探った。
青年が前の運転席に乗り込んだ。それからすぐ、言った。
「あれ? 微かに爽やかな臭いがしますね」
車内の芳香剤ではないらしい事が、これではっきりした。
やがて、わかったのは、彼女自身の衣服からであるという、不可解な事実だ。
(どうして……? でも、ほんのさっきまで嗅いでいたような)
時に臭いは記憶を揺さぶり起こす事がある。
彼女の脳裏に、案内と護衛を勤めてくれた黒服の姿が浮かんだ。ミントの臭いは、彼のオーデコロンだった。
元々期待などしていなかったが、全てが夢であったというあえかな希望が、今この時を以って摘み取り去られた。
ミレイは目を閉じ、大きな溜め息を吐くと共に、運転席の彼に言った。
「さあ、帰りましょう」
だが、青年は返事をしないし、自動車だって出発しない。
彼女は閉ざしていた瞼を上げた。
彼は振り返って、彼女の方に目を向けていた。正確には、目を合わせないようにしているのか、顔の少し下の首辺りに、視線を注いでいる。
「何、どうしたの?」
「実は、帰れないんです」
「え?」
彼女は目を開き、彼の言葉の続きを待った。
「支部長から言われていたんです。僕たちが戻る頃には、もう基地はあの場所にはないと」
「また勝手な事を!」
思わず、彼女は声を荒げた。
「ご、ごめんなさい」
「あ、いや。あなたの事じゃないの。あの支部長に言ったのよ」
ミレイは難しい顔をして、側頭部に人差し指を添えると、「なるほど」と呟いた。
「どういう事なんでしょう。基地がないって」
「あの場所に基地がないって言ったんでしょう? だったら、多分、飛空艇モードになってる。そして、どこか別の場所に移動したんだと思う」
「飛空艇モード? そんなものがあるんですか?」
無言で頷いてやると、彼はパッと笑みを取り戻し、強張っていた全身から力を抜いた。その後、彼は思い出したように言った。
「これからどうしましょう」
「このまま首都に留まっているのは危険ね。首都はいずれ戦場になるわ。取り敢えず、地上に戻りましょう。空が恋しいわ」
「はい!」
自動車は静かに浮上して、地下の螺旋状になった道を上り、地上へ出た。
ミレイはまず、その明るさに驚き、思わず両目を手で覆った。
「何? 何の光?」
「え? 煉獄の炎ですよ?」
指の隙間から恐る恐る見ると、確かに青い炎の火柱が天を焦がす勢いで燃え上がっていた。
(そう言えば、私、ここに来た時は眠っていたんだっけ)
目が慣れてきて、彼女は窓から夜空を見た。周囲が明るい為、その黒は一層暗く深い。
その時、車体が大きく揺れた。
「あーっ!」
青年は声を張って叫んだと思うと、慌てて外へ出て行った。
外の様子を伺うと、運転手の青年の前に、どこか見覚えのある髪色が揺れていた。
エレベーターは使えない。
それだけは、はっきりしている。
レイナは総督府に入って、真っ先に階段を探した。それが非常用だったとしても、構わず登るつもりでいた。
ここへ最初にやって来た時と同じで、玄関ホールには大勢のヒトが、それぞれの役割に従って働いている。目下、首都の移動に伴う雑事をこなしているといったところだろう。
レイナは人の波を掻き分けつつ、闇雲に通路を走った。時折誰かにぶつかる事もあって、睨まれたり怒声を浴びせられたりしたが、彼女の意識は確固として動かなかった。
しかし、総督府は高さもさることながら、広さでも周囲の建物を軽く凌駕していた。全く構造を知らないまま、走り回っているだけでは埒が明かない。そう気が付いたのは、彼女がここに入ってから約10分程経過してからだった。
通りすがりのヒト一人を捕まえて、彼女は尋ねた。
「階段、どこあるか知らん?」
しかし、一人目は相手にもせず、行ってしまった。
その後、三人を呼び止めて、同様の質問をしたが、まともに相手してくれるヒトはいなかった。
「何やねん」
募る苛立ちに、彼女はポツリと漏らした。
「嬢ちゃん、階段を探してるのか?」
レイナは声のする方に顔を向けた。
箒と塵取りを持った掃除のおじさんだった。
「せや。教えてくれるん?」
「残念だけどね、このフロアにはないよ。エレベーターだけさ」
そう言うと、彼は去ろうと歩き出した。
その背中に彼女は食い下がった。
「非常階段もないんか?」
「非常時は落下傘でおりるようになってるからね。非常階段もなし」
立ち止まる事も、振り返ることもなく、おじさんはそれだけ答えて行ってしまった。
一人残され、彼女は立ち尽くした。
「どないしよう」
クルッと方向を変え、来た道をとぼとぼ歩き出したその時、ミレイが彼女の名を呼びながら走ってきた。
「ミレイ?」
立ち止まったミレイは、息を整えながら言った。
「レイナ、一体何があったの? ハジメ君と関係ある事なんでしょ?」
ハジメ。
その名を聞いたレイナは、自身の内側で迸る激情を自覚した。それらは、どんなに口を開けても、喉の奥で凝り固まって、出て来ようとしないのだ。
訳がわからない。どうしてこんなに辛くて苦しいのか。
彼女は思った。自分はハジメの事が嫌いなのだ、と。だから、こんな胸を締め付けられるように感じてしまうのだ。けれども、それが正しいとすれば堪らない。本当に、訳がわからない。
レイナはその感情を知らない。だけど、無理もない。それは、この世界にそもそも存在する筈のない概念だから。
彼女を急かす事なく、じっと待ってくれているミレイ。
ミレイの優しさに触れ、形を持つ事のなかった想いは、やがて、レイナの瞳を滲ませた。
彼女は目許を一度拭った。
「これ、何なんや。後から後から……水が」
やっと口から出たのは、そんな言葉だった。
「レイナ……」
ミレイは微笑みながら、レイナを胸に抱いた。彼女の気の済むように泣かせてやろうと。
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