13.意思の力
ナナは子宮の間から脱し、出口を求めて彷徨っていると、不思議な老人と出会った。
よろしければ、読んでいってください。
あの部屋での出来事は、何だったのだろう。
ナナは、ひたすらに走り続けながらも、頭の中では抑え付けていた思考が溢れ出し、氾濫し始めていた。それを遮ったのは、左足を貫かれるような痛みだった。
「痛っ!」
彼女は思わず叫び、立ち止まった。その後、乱れた呼吸を整える。
足の裏に何かが刺さっているらしい感覚があった。薄暗い中ではよく見えなかったが、小さく尖ったその石を、ナナは手探りで払い落とした。
思えば、彼女はここに至るまでずっと裸足だった。靴を履く余裕さえ与えてもらえないくらい、物事が途切れなく襲いかかってきたのだ。
小石が刺さった箇所の痛みは消えていないが、足の裏全体としては、もう感覚が麻痺していて、少々擦った程度の傷なら痛くない。
ナナは深呼吸をして、まだ落ち着かない鼓動を沈めると同時に、頭の中をすっきり整えようとした。
周囲の冷たい石に冷やされた空気が肺を満たすと心地よく、吐き出すのが少し惜しくなって躊躇われる。しかし、それでも苦しくなってくる。彼女は、せめてもの思いにと、体内で暖められた呼気をゆっくりと吐き出した。
ナナは一度振り向き、歩みを進めながら、先ほど痛みに遮られた考え事を再開した。
あの空っぽの人形たちは、どうして動き出したのだろう。
彼らは、騎士たちと敵対していたのだろうか。
それとも、全く何故かわからないが、彼等は私を護ろうとしたのだろうか。
いや、少なくとも、最後の問いの答えだけはわかっていた。
彼らは、間違いなく彼女を護ろうとしていた。最後、騎士長の剣撃から、身を挺して守ってくれたあの行動が、それを物語っている。
「私はいつも、誰かに助けてもらってばかりだな」
自虐混じりの笑みに口元を歪め、ナナはそう呟いた。
その時、背後から草原に吹くような、爽やかで、何もかもを包み込むような風が起きた。
歩みを止め、体ごと振り返った。
さっきまでは誰もいなかった場所に、老人が一人立っていた。
ナナは驚き、後ずさった。
追っ手だと思って、逃げ出そうと重心を下の方に移動させて走る構えをとったが、相手に彼女を捕まえようとする素振りが全く無かった為、走り去るのは一旦保留にした。
彼女は思った。
(誰?)
ボロボロになった葦毛色の外套を身に纏い、同じ色のとんがり帽子を被っている。顔は皺だらけだが、異常に鋭い眼光。口と顎には、少し黄味がかった長い白髭をたくわえていた。
総じて、ファンタジー映画のスクリーンから飛び出してきた、魔法使いの風貌そのものだった。
「あなたは?」
「歴史を導く者」
思っていたよりも、ずっとしっかりとした張りのある声が返ってきた。
「私に何か用、なの?」
老人は何も答えない。身動き一つしないで、じっと彼女を見ている。
「やっぱり、私を追ってきたの?」
彼はゆっくりと首を横に振った。
「じゃあ……!」
ナナは苛立ちを隠さず、一歩老人の方へ進み出た。すると彼は、白い髭で見えない口を開いた。
「主は何かを知りたいのではないか?」
知りたいことだらけだ。
だが、相手が何者なのかよくわからないここは、慎重に言葉を選ぼうと、彼女は考えた。
「あなたは私の知りたい事を知っているの?」
彼は身じろぎ一つしないで、一見脈絡のない事を言った。
「冷酷無比なあの騎士団に追い詰められ、生きている者はそう多くはないな」
「見ていたの?」
ナナは、無意識の内に自分を護ろうと、胸の前で組んでいた両腕を、力なく下に垂らした。
老人は感情の込められていないような、冷ややかな声で言った。
「観測する必要はない」
見てはいないが知っている、と言う事だろうか。
慎重にという彼女の考えは、この時点で打ち砕かれた。
「私はあのヒトたちに護られて、ここにいる! どうして? どうしてあの人形の筈の……ヒト達は私を……」
アニマを持たない彼等が、ただの機械、人形であるに過ぎない事を彼女は知っていた。けれども、彼等はナナの事を護ったのだ。彼等の事を無下に扱う事を、彼女の本心が許さなかった。
老人はどこかぎこちない動きで、数歩ナナの方に歩み寄った。そして、こう言った。
「あの者達に意思はない。主はこれまで、何故に生きる事が出来ているのか」
「え?」
「主はこの世界にとって異端であり、異物である。そのような主が、これまでどのような目に遭うてきたか。それを忘れた訳ではあるまい」
抑揚の無い機械的な口調。
ナナは、彼の言葉の一部を心で反芻し、理解した。
(異端、異物。そっか、だから……)
彼女は、自身がどうして命を狙われてきたのか、ここに来て知る事となった。
実に単純な事だ。ナナはこの世界に本来在るべきでない存在だったのだ。
「ここは、やっぱり私の知る世界じゃないのね」
尋ねるでもない、真っ平らな調子で、俯いた彼女は呟いた。
(私にはもう、味方はいない。なのに、どうして?)
ナナが必要としていた答えが、心を読まれでもしたかのように、目の前の老人の口から、飛び出した。
「この世界で、主を護る意思を持った者は、一人しかいない筈だが」
ナナは顔を上げて、目を丸くした。老人の肩越しに、最早懐かしさすら感じさせる顔が浮かんでいた。
「レナ……ァド? レナードなの?」
彼は頷いたり、そうだとは言わなかったが、彼女は元々肯定が欲しかった訳ではなかった。
代わりに老人は、話を先に進めた。
「その者の片腕を主はどうしたのだ? 腕にはアニマが満ちていた。そのアニマはどこへ行ったのだ?」
ナナはようやく、納得のいく答えに出会った。
レナードの腕から零れ落ちたアニマが、ただの器をヒトに変えた。
あの場にいた幾多もの人形達は、レナードだった。だから、彼等は彼女を護ったのだ。
脳裏に浮かぶレナードの優しげな表情。
『大丈夫です』
彼は、わからず屋の彼女を優しく優しく、諭す様にそう言い聞かせた。
「何それ? 大丈夫じゃないじゃない、あなたの方が。やっぱり……わからないよ」
またしても熱を帯び出した目頭。けれど、ナナは涙を零しはしなかった。堪えて堪えて、堪え抜いた。
そして、ナナは老人に向かって、強く言った。
「私はこんなところで死んでしまうわけにはいかない! 彼の為にも……。だから、もう一つだけ教えて! ここからどうやって出ればいいの?」
老人は何も言わず、外套の内から掌に乗るくらいの小さな風見鶏を取り出し、ナナに手渡した。
「これは? どう使うの」
風見鶏から目を移すと、そこにはもう誰もいなかった。
ナナは掌に風見鶏を乗せ、どうなるか観察していると、くるっと一回転した後、鶏のくちばしは前方をむいた。
彼女は半信半疑のまま、前へ進んでいく。そして、道が分かれる場所で、立ち止まると、さっきと同じように、風見鶏の動きを見守った。くちばしは右の方を向く。
多分、出口への正しい道を教えてくれているのだろうと、ナナは、風見鶏の向く方向に歩いていった。
そうやって歩きながら、彼女はこの風見鶏の仕組みを考えた。
きっと、出口から吹き込んでくる風で向きが変わるんだ。一度はその様な結論に行き着いたりもしたが、それでは、通常の風見鶏の性質からして、向きとは逆の方向に進まなくてはいけない事になってしまう。
そんな単純な事に気が付いた時にはもう、彼女は薄暗い石廊を過ぎていた。
そこまで来ると、もう道に迷う事は無いだろう。そう思って一安心したナナだったが、進んでいくと別の問題に直面した。
エレベーターだ。その周辺には誰もいない。追っ手の来る気配も無い。
彼女は静々と進み出て、一階まで通じる下降専用の透明な筒の前に立ち、深呼吸を何度か繰り返した。
そして、逃げ腰で恐る恐る、筒を覗き込んだ。
気が遠くなりそうな高さに、彼女は足を竦ませた。
(あの時はレナードがいたけど、今は……)
そう思うと、ナナの右足は無意識に後ろへ下がってしまう。
そうすると、反対の左足も後ろへと。
その時、鼓膜を通さずに、レナードの声が聞こえた気がした。
『ナナ、行ってください』
(ダメだ……これじゃあ)
ナナは後退を繰り返す足を踏み留めた。
「私はもう、二度死んでしまったんだ! 怖い事なんて無い!」
彼女はそう叫び、自らを鼓舞すると、筒の中へ勢いを付けて飛び込んだ。
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