36.炎壁の城塞都市
道が下り坂に入ると、箍が外れたみたいに、自動車の速度はぐんぐん上がっていく。それは、シートに押し付けられる感覚でわかった。
雪を被った木々の合間から薄赤い夕景が覗くと、ハジメは自分が今どこで何をしているのか、束の間忘れてしまって、隣で血走った目をして前方を見詰め続けるレイナに対し、引け目を感じた。
彼女はもう、戦う事を恐れていない。それどころか、自らの意思で戦うと決めている。あれ程、己の力を忌み嫌っていたレイナが。
ハジメは、何か大切なものを失ったみたいで、何かに縋るように、思わず腰に下げた剣の柄を握り、祈る気持ちで瞼を閉じた。切っ先を欠いた不十分な剣。そんなものにまで支えを求めてしまう、自分の弱い心が嫌になった彼は、悪夢から覚めるように勢いよく目を開いた。
「もうすぐです。第二ポリスが見えてきますよ」
イオがそう言うので、外に目を向けた。
降りかけている夜の帳をも跳ね除ける強い光が、雪原の中にあった。その光源が都市であると、彼に気付かせるには、少々の時間を要した。こんな所では、夜さえも昼に変わりそうだと、彼は思った。
内燃機関の騒がしい音がする車中で、声を出す者は一人もいない。
誰に頼まれた訳ではないが、イオは第二ポリスの説明を始めた。
「現在複数あるポリスの中で、最も盤石で敵を迎え撃つのに適している都市こそ、この第二ポリスとなります」
目が明るさに慣れてくると、眩さの正体が、都市を囲うように立ち上る青い炎であるとわかる。
「あの都市を守るのは、ご覧の通り、煉獄の炎によって築かれた、高い壁です。どのような攻撃も、あの炎が消えない限りは、中枢に達する前に焼き尽くしてしまう仕組みになってます。故に、『炎壁の城塞都市』という異名を取っています」
どこか誇らしげにそう語るイオだったが、尚も口を開かない後部座席の二人に不満であるらしく、わざとらしく何度も咳をして、押し黙ってしまった。
やがて、道の傾斜も緩やかになり、彼らを乗せた自動車は平地へと入った。雪面に反射した光は、近づくに連れてさらに眩しさを増していく。
レイナは、イオの影に隠れるようにして、突き刺さってくる強烈な光を凌いでいた。ハジメは、はたと気づいた。
(イオの奴、前、ちゃんと見えてるのか?)
心配になって、彼はイオに声を掛けた。
「イオ」
「何ですか?」
彼は振り向いた。
「危ないだろ、前を向け!」
彼は渋々といった風に、前を向いた。
「それで、私の説明を散々無視したあなたが、今更どんな要件で呼んだのです?」
(根に持ってたのか……面倒くさい奴)
ハジメは、イオの嫌味を相手にしないで、当初の疑問を投げ掛けた。
「この眩しさの中、前は見えてるのか?」
「私のメガネは、UVカット仕様ですよ?」
「いや、UVはもともと見えないから、答えになってないだろ」
イオは少しの間を空けて、「冗談です」と言い、続けた。
「目を細めれば意外と何とかなるものですよ」
彼は、不気味な笑い声で、無理やり会話を締めた。
ミレイは気を強く持ち、黒服の男と真正面から対峙した。
彼は何も言わず、威圧的に彼女を見下ろしている。
(こんな事って……。まさか、支部長が?)
疑いたくはなかった。長年仕えてきた上司が、IOFと通じていた。想像は、彼女の中で勝手に膨らんでいく。
「私をどうするつもり?」
眼前の大男は、口を僅かに動かし、小さく笑った。
「あなた様は、勘違いをされているようです」
疑心暗鬼に陥った彼女には、男の言葉や一挙手一投足に至るまでが慇懃無礼に思われて、不快だった。
しかし、彼は何か語ってくれるようなので、喉元まで上がってきていた文句を飲み込んで、相手の顔を凝視しつつ待った。
「わたくしは、あなた様をどうこうしようというのではありません。ただ、ここにお連れして、とある方と引き合わせる。それだけでございます」
「それが本当だったとして……誰に会わせようっていうの?」
彼は短く息を吐くと、飽くまでも間接的に答えた。
「どうぞ、こちらへ」
どうやら、着いて行くしか他にないらしい。そう判断した彼女は、躊躇しながらも、足を前に動かし始めた。
その様子を見て、黒服は満足げに頷いて、先を歩き出した。
結局、彼は廊下の突き当たりまで進んで、足を止めた。彼女が通されたのは、一番奥という事になる。
「この部屋は?」
「こちらの部屋にお入りください。長官がお待ちですよ」
ミレイは唖然として、扉の上のプレートに目を遣った。間違いなく、その部屋はIOF長官の執務室。
「ちょっと……これは。え? どういう事?」
黒服は、彼女の背を押して、ドアの前に立たせた。どうやら、その部屋に入るしかないらしい。
彼女は素早く深呼吸をして、ドアノブに手を掛けた。
ドアはとても軽い力で奥へと動いていき、ちょうど吸い込まれるような形で開いた。
青い無地の絨毯が敷かれた部屋に、彼女は足を一歩踏み入れた。絨毯の毛足が長いのか、それとも心理的要因なのか、足元はふわふわとして頼りない。
もう一歩進むと、ここぞとばかりに後ろでドアが閉められた。
足元から徐々に視線を上げていく。大きな木の机が部屋の中央に鎮座しており、その向こうに誰かが座っている。顔が見えないのは、そのさらに向こうの窓から差し込む眩しい光で、陰になっているからだ。
(このヒトが、IOF長官なんだ)
ミレイは生唾をゴクリと飲み込むと、一歩、また一歩と近付いていった。
徐々に、長官の顔が見えるようになってきた。
「遠いところ、わざわざ来てもらって悪いねー」
長官は、そう言って立ち上がった。
差し出すその手を、彼女は反射的に握ろうと前へ出た。自ずと、彼の顔がはっきりと目に入った。
「あれ? なんで?」
ミレイが見た長官の相貌は、とてもよく見慣れた顔だった。
彼女は、驚愕の為開いた口をそのままに、彼と握手を交わした。
だめ押しの言葉が溢れる。
「どうして、支部長がここに」
IOF長官である筈の彼は、ニヤリとして、言った。
「ざんねーん。僕は彼とは別人だよー」
そうは言われても、口調まで同じなのだから、説得力がまるでない。
「冗談はよしてください、支部長!」
ミレイは、いつもの調子に戻って、ピシャリと言った。
「えー、ちょっと待ってー? まだ信じられないのー?」
「信じろっていう方が難しいですよ」
「まー、仕方ないかー。実際、彼と僕は二人で一人みたいなものだからね」
彼は笑顔を収め、キュッと引き締まった顔になった。
「二人で、一人?」
「そう。彼と僕は、同じ設計図を元に製造されているんだよ」
ミレイはもう、逐一驚いてばかりいる自分に辟易しながらも、やはりそうせずにはいられずに呆然とした。
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