34.レイナの決意
車体が完全に止まるより僅かに早く、ハジメはドアを開け放ち、飛び出していた。それにレイナが続く。イオは少しだけ遅れたが、彼らはほぼ同時に、黒煙の立ち上る洞窟へ入っていった。
まず、洞窟内部に充満した異臭に、三人は顔をしかめて鼻と口を手で覆った。ある寒い日に、焚き火の炎に近付き過ぎて、少しだけ燃やしてしまった髪の毛のような匂い。そんな風に、ハジメは思った。
その時の事をはっきりとは思い出せないが、匂いによって導かれた微かな記憶は、揺るぎようがないくらいしっかりしたものだった。
煙で酷く見通しが悪い中を、ハジメは歩き出した。最悪な予感に、彼の心臓は早鐘を打ち続けている。
真っ黒に煤けた金属片が、そこら中に転がっている。それが一体何なのか、何を意味しているのか、彼にも理解出来た。
三人とも押し黙り、場の状況に不釣合いなくらい静かだった。まだ燃え燻っているものもあるらしく、どこからともなく火の爆ぜる音が時々聞こえていた。
「煉獄の炎」
どこか投げやりなイオの独り言も、やけに響いてハジメやレイナの耳に届くと、離れなくなった。まるで、耳元で際限なく囁かれているように。
洞窟の奥まった所にあった、地下通路へと降りていく階段にも、いくつか金属の骨格が折り重なっていた。
語れる者は残されていないと、静けさが教えてくれていた。
ほんの数分前まで、どれほどの阿鼻叫喚がこの空間を満たしていたのか、想像を絶するものがあった。
ハジメの心には何もなかった。恐怖も怒りも、悲しみでさえも。ぽっかりと穴が開いて、全ての感情がそこへ落ち込んでしまったように。
「ちょっといいですか? お二人共」
イオの呼びかけに応じて、ハジメは彼に着いて外へ向かった。
レイナは聞こえていないのか、洞窟の真ん中で立ち尽くしたままだ。その小さな手が、強く握られている。
「おい、レイナ」
ハジメが名を呼んでも、彼女はピクリとも動かない。
「そっとしておきましょう、今だけは」
呼んだイオがそう言うので、ハジメは外へ出た。
イオは車に背をもたれさせて立ち、腕を組んで瞼を閉じていた。ハジメが前に立つと、彼は眼鏡のレンズの向こうで、今まで見せた事のないような厳しい目で睨み付けてきた。
「お聞きしたい事が……」
「ああ、解ってる。俺も言っておきたい事があったんだ」
イオは、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「やはり大体の目星は付いていたのですね。では、お聞かせ願えますか? スルトの村とその住民を、煉獄の炎で焼き尽くした張本人の事を」
彼は語気を強め、どこか威圧的な調子で言った。
「俄かに信じられない事ではありますが、それが事実なのですね」
そう口に出しながらも、彼は疑う様子を少しも見せてはいない。さすがに、あの様な状況を見せられて、まだ嘘や誤魔化しを口に出すような人物に見られてはいないらしい。
ハジメが彼に話したのは、シローの事だけではない。彼の持っている、小型化された煉獄の炎着火装置のプロトタイプの事、それを開発したのが、ラプラスの真理であるという事。
レイナとシローの因縁については、まだ伝えていない。触れるのを意図的に避けていた訳ではなく、ただ話の流れ上、機会が巡って来なかったからだ。
「それにしても、ラプラスの真理がプロトタイプとはいえ、煉獄の炎を着火させる装置を片手に収まるほど小型化する事に成功していたとは……。驚異的ですらありますねぇ」
「プロトタイプは二つあったらしい。そのうちの一つが、奴の手にあるのは間違いない」
「もう一つの行方は、わかっていないのですか?」
ハジメは後頭部を右の手で、強く掻き毟った。
「それは俺にもわからん。第一、あんまり首を突っ込む訳にもいかないだろう。相手はテロリストだし」
イオは無言で二、三度頷いた。
ゆっくりした足音が、洞窟の方から聞こえてきた。ほとんど足を上げずに摺り足で歩いているらしく、ザリザリと音が響く。
二人の注意は、自ずとそちらへと移った。
レイナは腕を力なく垂らし、深く項垂れている。今どんな顔をしているのか見えないが、酷く落ち込んでいるのは、ある程度酌む事が出来た。
ハジメが彼女の横に立って、肩に手を掛けようとした時だった。突然、彼女は顔を上げて、斜め上に虚ろな目を向けると、音がする程強く歯を食い縛った。
そして、決然とした声で言った。
「今度逢うたら、もう逃げへんで……!」
迫力に気圧され、イオは一歩分、彼女から離れた。そして、それを誤魔化すように、「で……では、急ぎましょう」と言って、そそくさと運転席へと引っ込んでしまった。
レイナは後部座席に勢いをつけて乗り込むと、一人残ったハジメに呼びかけた。
「ハジメ!」
レイナとイオの立場が変わりつつあるのを見た彼は、ヒトとヒトとの関係の不思議さに、ただ感心した。
鋭い視線が突き刺さってくる。
「わかってるよ!」
そう答えて、彼も後部座席に乗り込んだ。
シローは苛立っていた。
ほんのついさっきには、喜びの絶頂を迎えていた筈なのに。その瞬間を思い出そうとするも、湧き上がってくる感情は、怒りにも似た不愉快なものばかりだ。
あの時、本能に任せて進んでいた獣道を抜けた所で、洞窟を見つけた。その入り口付近には、小躍りしそうなくらい何故か浮かれた様子で、何者かに手を振っているヒトビトが数人いた。
彼等がスルトの村の生き残りであるかどうか、そんな事シローの脳裏には浮かばなかったし、例え浮かんだとしても、気には留めなかっただろう。
彼は目を閉じて震えた。当然、震えたのは寒さの為ではない。
瞼の裏に、青い炎を一つ灯す。それだけで、連鎖的に炎は燃え移り、ヒトビトを焼き尽くしていく。悲鳴のコーラスに、身を捩る者達のダンス。想像するだけで、彼は幸福に包まれた。
それを実行に移すだけで、どれだけ良い気分になれるだろう。そう思った彼は、その場の全員が洞窟の中へ入っていくのを見守って、木陰から出た。
洞窟の中に彼が入っていくと、潮が引いていくように場が静かになった。それから、狂ったように悲鳴を上げ、逃げ惑うヒトビトに、彼の口許は自ずと横に広がっていった。
先の想像通りに、彼は一人の女に目掛けて、火を放った。青い炎が立ち上がり、一瞬にして彼女を包み込む。その炎を消そうと、周囲の者が少しばかりの水を掛けたり、脱いだ上着で炎を叩く。
そんな事をしても消えない事は、彼等にもわかっていた筈だ。それどころか、引火して同じ運命を辿る事になるだけだというのに。
その結果、五分もしない内に、何もかもが彼の想像していた通りになった。
最高の気分。そんなもの、得られなかった。ただあるのは、苛立ちばかり。
何故、そんな思いをしなくてはならないのか。そう思うと、さらにイライラが募っていく。負の螺旋だ。
何がいけなかったのだろう。全て思っていた通りになった所為なのか。それとも……。
感情に任せて上りの山道を、大股で歩き続ける。間もなくして、山道は下りに入った。
遠い平地に、広々とした街が見えると、彼は立ち止まった。
彼は、その大きな街を、自分の手で燃やす想像をしてみた。
「ダメだ!」
思わず言葉が口を突いて出た。
少しも愉快な気持ちにならない。
何かが足りない。そんな気持ちがした。
彼はまた、乾いた風が胸の内を吹き抜けていく、あの虚しさを感じ、それを拭い去る為に頭を乱暴に振った。
そんな時、山全体に響き渡るような轟音が近づいてきた。シローは茂みに隠れ、様子を伺った。
しばらくして、彼の目の前を見た事のない物体が、走り抜けていった。
彼は、呆然としたまま茂みから出て、走り去った物体を後ろから見送った。
彼はその箱みたいな乗り物の中に、見覚えのある顔を見ていた。
喜びが込み上げてきた。
「そうか。そういう事だったんだな」
それは、彼が確かな答えを手にした瞬間だった。
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