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ラ・メトリの書  作者: 柚田縁
第四章 ファースト・リンケージ
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30.雪の中の目覚め

 遠くの山稜を白く縁取るような暁光に照らされて、吐き出す息が悉く白いのだと見て取れる。


 坂の上の方から転がり落ちてくる冷たい風に晒されて、青く燃える炎が揺らめいた。それと同時に、彼は身震いを一つして両方の肩を抱いた。


「寒い」


恨み言にも似た口調で、シローは独り言ちた。

 思えば、彼の記憶は常にこの寒さと共にあったと言っても、過言ではなかった。


 その日、彼が目を覚ましたのは、雪の中に埋もれた棺のような箱の中だった。

 もちろん、彼の視界は真っ暗闇で、自分が置かれている状況を何一つ理解する事は出来なかった。

 程なくして箱の蓋が開かれ、ようやく自分の周囲が大雪原だと知ると、彼はまず、寒さに震えた。


 それから、自分が一体何者で、何故このような場所で眠り続けていたのか、考えた。

 すぐに、彼を表す記号的な英数字の羅列が頭に浮かび、安堵の息を吐く。


 次に、自分が何の為にこの世界に存在しているのかを、反射的に思い出そうとした。その瞬間、彼はひどい頭痛に襲われた。

 頭を抱えてうずくまり、記憶を辿ろうとしたものの、圧倒的な痛みに耐え切れず、考える事を放棄した。

 そうすると、頭の痛みは、潮が引いていくように消えていった。

 そんな事を何度か繰り返し、彼は自分の過去と存在理由を失くしていると悟ったのだった。


 目の前で爆ぜては燃える枝をまっすぐ見つめ、シローはそういう事を思い返していた。

 不思議な事に、目覚めたあの瞬間まで記憶を辿るのは、どうやら許されているらしい。頭痛は、それ以前に遡ろうとすると、急に襲ってくる。

 だから、彼はもう過去に囚われないよう務めてきた。けれど、その度に、胸の奥深くで、寂しい風が吹くのを止めるのはおろか、忘れたり無視したりする事も出来ない。


 どうすれば、その虚しさを消す事が出来るだろう。そう考えながら、当て所なく放浪していた時に、今この瞬間も眼前で揺れている青い炎に出会った。

 その青い炎は、彼の心を麻痺させ、どうする事も出来なかった虚しさを、忘れさせた。


 そして、もう一つ見つけた物があった。

 自然に、あどけない少女が頭の中に浮かぶと、拳に力が入った。


「いいねぇ。最高だ、その顔」


笑いながら彼が思い浮かべているのは、煉獄の青い炎の中で燃え続ける、苦痛に歪んだ彼女の顔。

 その時彼は、これまで感じたことのない充足感を得ていた。胸の内で吹く風はやみ、虚しさは欠片もない。


 小枝が続けて二度爆ぜた。

 カーテンを開くように、目の前の幻想がフッと消えてしまった。反動のように、乾いた風が強く吹き荒び始めた。

 途端に興が冷め、冷たい現実が顔を利かせてくる。


 いつの間にか、太陽は向こうの山から顔を覗かせていた。

 シローは「ふん」と、鼻を鳴らすと立ち上がって、崖の縁に立った。見下ろす景色は、昨日訪れた村の焼け焦げた姿だ。

 昨日、彼は寒さをしのぐ焚き火代わりとして、この村に火を着けて回った。


「もう、ここに燃やせるものは残っていないね」


踵を返した彼は、幻想の続きを思い浮かべながら、上機嫌で去っていった。




 外が適当な明るさになると、ハジメとレイナは言葉を交わす事もなく、テントから出て、イオがいるであろう自動車の前までやって来た。

 彼はまだ、横になった状態で眠っていた。

 ハジメが軽く握った拳で、窓をノックするように叩いた。数秒待ってみたが、反応がない。


「朝が苦手なタイプなのかな?」


呟くと、彼は窓を五、六回、今度は少し強めに叩いた。

 十秒くらいそのままでいても、イオはピクリとも動かない。


「凍え死んどるんちゃうか?」


「縁起でもない事言うなよ」


 ハジメは、ドアを開けようと、取っ手を手前に引いた。鍵は掛けられておらず、何の障害もなく助手席の戸が開いた。


「おい、起きろ!」


彼は段々と嫌な予感がして、玉のような汗を顔中にかき始めた。


 レイナは、両手を後頭部に当てて、少し離れたところから様子を伺っていた。その彼女に、ハジメは言った。


「レイナ、お前もこっち来て声出せ」


「しゃーないなぁ」


心底嫌そうな表情を浮かべて、彼女はハジメの横に立った。


「おい! 起きろ!」


ハジメはイオの体を揺すって、呼び掛ける。


「起きぃや! そこら辺に埋めるでぇ!」


粗雑で投げやりな風にレイナは言った。


 彼は気が付いた。車内は暖房等点けられておらず、外と同じくらいに冷え切っていた。

 脳裏に、昨晩の遣り取りが思い出された。


 彼が、車の中だと寒いだろうと言うと、イオはこう答えた。


『ここをどこだと思っているのですか? 年中雪国のフィレスタですよ。暖を取る方法ならいくらでもありますからねぇ』


「そう言ったよな……」


「……ハジメ?」


彼はふらふらと二、三歩後ろに下がると、急に勢い良く助手席へ乗り込んだ。


「イオ、起きろよ! 返事しろ!」


ハジメの目の先には、横たわったイオの顔がある。


「ハジメ、そこまでせんと……」


「お前は冷たいんだな! そこまで嫌いなのか、この男が!」


レイナを睨み、噛み付かんばかりの剣幕で、彼は言い放った。そして、イオにもう一度呼び掛けようと、その僅かに青白い顔を前にした。


「は?」


イオの目がカッと見開かれていた。


「うわああぁぁ!」


叫びながらハジメは、低い天板で強かに頭を打ち付けた。その衝撃で、汗の雫が一斉に流れ落ちていった。

 痛む頭を右の手で押さえ、這いずるようにして助手席から外へ。雪で白くなった地面に、転がり落ちた。

 冷めた目で見下ろすレイナの顔が近づいてきた。


「やから言うたやん」


「どど、どういう事だ?」


「まぁ、本人から聞かんとわからんけどな、少なくとも死んではおらんかったっちゅう訳や」


 イオがよたよたとした足取りで、二人の方に歩いてくる。

 ハジメは、衣服に付いた雪や土を払い落とし、立ち上がってイオの到着を待った。


「おはようございます」


「おはようございます、じゃねえよ! 説明しろ、説明!」


彼は左手で頭を押さえつつ、首を傾けて言った。


「何についての説明ですかねぇ……あいたた、頭痛が」


「その頭痛の説明したらええんやないか?」


珍しく、嫌悪感を露わにしないで、彼女は言った。


「この頭痛? よくわかりませんが、私がちょっとした仮死状態にあった事と関係があるのでしょうか」


「仮死状態? そんな事が出来るのか?」


イオも珍しく、純粋に驚いているのがわかる普通の表情を、短い間ではあったが浮かべ、訊き返した。


「出来ないんですか?」


ハジメは、レイナに目を遣った。

 彼女は苦い顔をする事で、彼に返答した。

 ハジメがもう一度、イオの顔を伺うように見遣ると、彼はニヤッと顔を歪めて見せた。


「ちょっと聞きたい事があるんですが、よろしいでしょうかねぇ」


ハジメが半歩引き下がると、靴の裏で砂利が音を立てた。その音が、妙に彼の耳に残った。


「聞きたい事って、何だよ」


彼の顔面は引き攣っていて、笑っているように見えなくもない。


「そうですねぇ……。例えば、イオって何の事です?」


ハジメは生唾を飲み込んで、何か言おうと口を開いたが、何も言葉は出てこなかった。

 イオはさらに続けた。


「それと、レイナ、ハジメ。そんなのも聞こえましたねぇ」


顔を手のひらで覆い、失敗を悔やむレイナと、項垂れて観念するハジメ。


「ふふふふふ」


イオは一人、勝ち誇ったように笑った。

読んでくださってありがとうございます!

またのお越しをお待ちしております。

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