22.移ろいゆくもの
よく知りもしない建物の中を闇雲に走ったところで、迷子になるだけとわかっていたハジメは、そんなに遠くまで逃げるつもりはなかった。
背後から靴音が迫ってくる。レイナとミレイだ。或いは、無意識に二人を待っていたのかもしれない。
ハジメは足を止めた後、敢えて振り返らず途方に暮れたみたいに背中を丸めて、佇立した。
靴音は徐々にゆっくりになって、吐息の音が聞こえてくる。
「ごめんなさい、うちのしぶちょ……イサクが」
ミレイがそう言った後、初めて彼は振り向いた。
「いいよ。こいつが全部悪いんだ」と、レイナを指差す。
「何やねん」
「こっちこそ何やねん、だよ」
レイナは不機嫌そうに、そっぽを向いた。
そんな彼女を見て、ミレイは微笑んだ。その後、ハジメに尋ねた。
「二人はこの後、ポリスに行くの?」
「そうだけど」
「今から行っても、夜になるわ。今日はここに泊まっていったら?」
ハジメは首を横に振った。
ミレイもその返事を予想していたのか、それ以上この件については何も言わなかった。その代わりに、「じゃあ、ちょっとこっちに来て」と、二人をどこかへと誘った。
第二フロアまで階段で降り、まっすぐに続く廊下を進んでいく。そうして、彼女が立ち止まった扉には、『ReD-0301E』とあった。どうやら、ミレイの自室らしい。
「ちょっと散らかってるから。ここで少し待ってて」
彼女は中を見られないよう素早く扉を開け閉めして、部屋へ消えた。
中でゴトゴト音を立てて、何かを探しているようだった。
数分が経ち、音が止むと彼女が部屋から出てきた。その手には、深緑色をしたラグビーボールのような形をした物体がある。
「これ、お土産に持って行って」
受け取ったハジメの手から、レイナはその塊を引っ手繰った。
「何や、これ?」
「ラプラスの真理、グランディスタ支部で開発された、携帯用コテージよ。これなら、今日中に着けなくても、野宿しないで済むわ」
ハジメは、レイナから携帯コテージを引っ手繰り返すと、彼女に礼を言った。
「いろいろ、ありがとう」
「うううん、こちらこそ」
誰からともなく、三人は歩き出した。その歩みは非常に緩慢で、誰もがこの後訪れる別れを遠ざけようとしている。
階段を1フロア下り、一階の廊下を進む。皆、口を開く事が出来ないまま、遠くの眩しい光に目を細めた。
一層重い足取りで後ろから着いて来るレイナが、ポツリと言った。
「ここで、お別れなんやな」
ハジメは、彼女の呟いた言葉に少しばかり驚いた。
ギリギリになるまで駄々をこねて、ミレイに無理を言って、一緒に来させようとするに違いない、そう踏んでいた。けれど彼女は、この別れを受け入れているみたいだ。
ハジメは予想外の発言をした彼女が、今どんな顔でいるのか、興味を持った。そして、歩きながら、後ろを向いた。
そこにあったのは、これまで彼が目にした事のないような、表情で笑う彼女の姿だった。
眩しさとはまた別に閉じかけた眼の隙間には、金色の宝石みたいに瑞々しく輝く瞳が覗き、目尻の辺りは僅かに濡れていた。
左右の口角も横に広がっていて、引き吊った様子は少しも見られない。
それが、彼女の本心からくる気持ちの表れだった。
とっくに立ち止まって、レイナを見ていたミレイは、一瞬どうしていいか迷った後、磁石の両極が引き合うような自然さで、レイナの背中に両腕を回した。
「また会えるから……きっとまた」
ミレイは、言葉を詰まらせて、レイナの小さな肩の上に顔を埋めた。
「せやな。また会えるわ」
レイナは応えて、ミレイの後髪を梳くように撫でた。
岩山を遠くに望む街道を歩きながら、ハジメは旅の片割れに声を掛けられないまま、自分でもよくわからず、処理も出来ないもやもやした思いを、燻らせ続けていた。
レイナは、もう何ともないように、前方5メートルくらいを、一見脳天気そうに進んでいた。
日は徐々に傾きつつある。
急いだ方がいいのははっきりしていたが、彼の足取りはどこか迷いを孕んでいて、意識して歩速に気を回しても、気が付けば元のようにゆっくりとした歩みになってしまう。
彼はふと見上げた太陽に、レイナの瞳を思い返していた。金色に輝いていた、あの時の瞳だ。
「ハジメ、何しとんねん! 日ぃ暮れてまうやないか!」
レイナの声で我に返ったハジメは、自分がいつの間にか歩みを止めていた事に気付いた。
「あ……、悪い」
彼は気を入れて足を動かし始めた。
レイナは満足げに頷くと、彼女の歩速で先を急いだ。
それから数分後に、また同じ事が起こった。
「あ……、悪い」
ハジメの返事は、判を押したように同じだった。
さすがに様子がおかしいと思ったレイナ。
「具合でも悪いんか?」
そう言って彼女が今来た道を戻り、ハジメの方に近付いてくる。
どういう理由か、彼はその途端心穏やかではいられなくなった。
「い、いや、別に何ともない! 元気だ!」
彼は片足を後ろに下げ、右手を横に振った。
「そない言うても、変やで?」
レイナはハジメの目の前でピタッと止まって、右手を額に当てた。
「熱は……」
ハジメはその手を、纏わり付く羽虫をあしらうように、思わず払ってしまった。
彼は急に冷静になって、今し方自分のした事を猛省した。
「す、すまん。悪かった」
レイナは烈火のように怒り出す。彼はそう思っていたが、彼女は意外にも嫌な顔一つしなかった。
「これでも変やない言うんか? 自分」
ハジメは、確かに自分がおかしい事を認めざるを得なかった。
彼が口を開こうとした時、突然、空が暗くなった。二人は、ほとんど同時に空を仰いだ。真っ黒な雲が太陽を覆い隠し、強い風がその黒雲に吸い込まれるように吹き出した。
「なんだ?」
「なんやろな。……ん?」
彼女は耳の後ろに手を当てた。
「どうした?」
「聞こえるわ。何か甲高い音が」
ハジメは彼女と同様に、耳に手を当てて注意深く音を探し出した。
何も聞こえない。だが、彼女の聴覚と彼のとでは、能力が大きく異なっている事を、彼は既に知っていた。
レイナには確かに何かが聞こえていたのだ。
「ははー。これは多分、サイレンやな」
「サイレン? 何だろうな」
急に、風向きが変わった。その風は、さっきまで吹き荒れていたものとは少し違う匂いを運んでいた。例えるなら、草木を芽吹かせる暖かな春風といったところだ。
ハジメは無意識に風上に目を向けた。すると、そこには見覚えのある老人の姿があった。
「あんた、確か……」
彼がその先を言う前に、目の前の老人は珍しく健脚で近付いてきたかと思うと、こう告げた。
「ポリスへ向かってはならぬ!」と。
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