14.ミレイの決心
(何だろう、これは)
ハジメは、目の前に広がる夜の闇よりももっと黒い原野に、危機を覚えて絶句した。
何の事かと言えば、それは今夜の食事だ。とにかく、運ばれてきた料理すべてが、黒い。平皿に盛られたパスタらしき黄金を覆い尽くす暗黒色のソース。数種類の野菜と肉を煮込んだらしい煮物も、具材が石炭のように見えなくもない。そして、一人一人の前に置かれた、スープ皿は言わずもがなだ。
(焦げている訳じゃない……よな)
料理に奪われていた目をミレイに移すと、彼女は何でもないように大皿の料理を、自分の取り皿へと載せていた。どうやら、失敗した料理ではないらしい。
レイナは目を疑っているのか、手の甲で眼を擦っている。
ハジメは、ミレイが料理を口に運ぶのを見て、その反応を伺ってから、イカスミそのもののようなスープを、スプーンで掬った。気付かなかったが、皿の底には、大豆よりもやや小ぶりの豆が、やはり黒く染まって没していた。
ミレイは、既に二口目を咀嚼しているところだった。
危険なのは、見た目だけだろう。そう自分を納得させようとしても、彼の決心は未だ揺らいでいる。スプーンで掬った液体に、彼は恐る恐る舌先を触れさせた。
その瞬間、下の根元まで電撃が流れたようになり、ピリピリと舌が痺れ、上半身が僅かに震え出した。
(やばい、これは!)
ハジメはすぐに真向かいのレイナを見遣った。
彼女はもう、取り皿に載った石炭の如き塊を口に入れたところだった。
(間に合わなかったか……)
レイナの顔はみるみる青白くなって、テーブルに額を付いて、悶え苦しみ出した。口に入れたものを吐き出さなかったのが、不幸中の幸いだった。
ハジメとレイナが共有したのは、想像を絶する苦さだ。焦がして炭化させたのとは違う、どこかスパイシーな苦味だ。
元来味覚がお子様なレイナだ。彼女の舌の上では、アルマゲドンに近いものが勃発していたと、想像に難くない。
一方、ミレイは平然と、だが黙々と目の前の料理を口に運んでいる。その目は光を失い鬱屈としていた。
目の前で悶え苦しむレイナや、激苦料理に若干引いているハジメの姿は、目に入ってこないらしい。
二人の手は、完全に止まった。テーブルに所狭しと並べられた暗黒料理の攻略は、ミレイ一人に委ねられたのだった。
テーブルの上に広がっていた闇の原野は、ほぼ駆逐されたと言ってもいいくらいに片付いた。
フィレスタ特有の調味料を使用する苦味の利いた料理は、見た目こそ悪いが、冷えた体を内側から温めてくれるのだ。暖炉から遠くに座っていても、手足の先からポカポカとし始めていた。
ミレイが気が付くと、満員御礼状態だった食堂の席もちらほらと空きが出来て、さっきよりも静かになっていた。
話をするコンディションとしては、悪くない。
彼女は食後、自前のハンカチで口元を拭うと、伏し目がちだった顔を上げて、斜向かいのハジメを、次に真横のレイナをしっかりと見た。二人は、おずおずと見返してくる。
食事の間中ずっと、彼女はざわついて仕方のなかった心を落ち着けようと、努めて何も考えないようにしていた。その努力は実を結び、今の気分は極めて穏やかだ。余計な心配事や、気苦労もない。
(今なら言えるかもしれない!)
ミレイは勢いに乗せて口を開けた。しかし、喉元の辺りに閉塞感があって、声は出てこなかった。ヒューヒューと空を切るような、呼気が吐き出されるだけ。
彼女はまた閉口し、目を伏せた。淡い緑色に澄み切っていた頭の中も、少しずつ濁った空気に汚染されていく。
彼女は、恐怖していたのだ。二人が自分を拒絶し、目の前から去っていく事を。
これまで、彼女は何度となく似たような経験をしてきた。
そのきっかけは、いつだって同じだった。そして、今回も、例外ではないだろう。
そう思うと、何も言葉が出てこなかった。
彼女が俯いたまま瞼を強く閉じた時、レイナが言った。
「あんな、ミレイ。なんも怖がらんでええで」
抑揚のないいつもの口調でありながらも、囁くような優しい声だと、ミレイは感じた。
彼女は真横の席に座るレイナを見た。そこには、目を細めて笑い掛けてくるレイナの顔があった。
「まあ、ヒトにはいろいろあるだろうから、別に無理に言わなくてもいいぜ」
そう言ったハジメは照れ隠しの為か、曇って何も見えない筈の窓に目を向けている。
首元に支えていた何かが、綺麗さっぱり失くなったみたいに、声が自然と上がってきた。
「うううん、話す。話すから、聞いてくれる?」
「ええで」
「ああ」
ミレイは大きく息を吸い込み、半分くらいを吐き出した。
心音が周囲に聞こえているのではないかと思う程、高鳴っていたのが、それにより、少しばかり落ち着いた。
肺の中に残った空気を使い、彼女は抑え気味に打ち明けた。
「私ね、『ラプラスの真理』っていう組織に所属してるの」
ミレイは瞑った目を開けないでいた。
返答を待つ時間が、やけに長く感じられる。その、ほんの数秒が彼女の不安の糧となって成長させた。
待てど暮らせど返ってこない反応に、彼女はしびれを切らし、畳み掛ける事た。
「ずっとシローに言われた事が気になってた。『本来の目的の方が、遥かに多くのヒトを殺すんだ』って。私達が作った、煉獄の炎を発生させる装置の事よ。私がラプラスの真理に属しているって、それを知られるのが怖かった」
ミレイはそこまで一気に語ると、一転黙り込んだ。
ハジメもレイナも、何も言わない。
(ああ、また。また私の前から……)
そう思いながら、彼女は瞼を上げた。
二人の姿勢は全く変わっておらず、まるで時が止まっているのかと勘違いさせる。
長い沈黙の後、ハジメはレイナに向かって言った。
「なぁ、レイナ。ラプラスの……真理だっけ? それって、何だ?」
「ハジメ、知らんのか? あたしも聞こう思とったんやけどなぁ」
ミレイは唖然とした。
「え、知らない?」
「ああ、残念ながら。俺達、ちょっと訳ありでな。俺は元々、この世界のヒトじゃないし、こっちのレイナも、最近目覚めたばかりで、自分の存在理由さえ忘れてしまってるんだ」
「せやねん」
二人はそう言って、クックと苦笑いし合った。
ミレイは、身体中に力が入らなくなって、これが脱力感というものだと改めて知った。
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